紅葉-くれは-

菊池まりな

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第149話 ふたりの帰り道

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家が、音を立てて崩れていく。

梁が折れ、床が裂け、
“名を留めていた場所”が役目を終えてほどけていく。

それでも──
奥へと続く細い道だけは、消えずに残っていた。

まるで森そのものが、
最後に与えられた猶予のように。

春香は、少女の手を握ったまま、前へ進む。

湿った土の匂い。

けれど、今までと違う。

怖さよりも、懐かしさが混じっている。

「……ここ……」

春香の声が、かすれた。

道の先に、二つの影があった。

ひとつは小さく、頼りない輪郭。

もうひとつは、少し成長した体つき。

美奈が息を呑む。

「……分かれてる……」

祐真が静かに言った。

「均衡が壊れたからだ。  本来、同じ場所に閉じ込められるはずじゃなかった」

影のひとつ──

小さな方が、よろよろと一歩前に出る。

「……まま……」

その声に、春香の視界が滲んだ。

「美桜……」

三歳のままの姿。
あの日、森で姿を消した時間で止まった娘。

春香は膝をつき、両手を伸ばした。

「ごめんね……迎えに来るの、遅くなって……」

美桜は、春香の腕の中に飛び込む。

温かい。確かに、生きている重さ。

同時に、もう一つの影が動いた。

少し距離を保ったまま、立ち尽くしている。

「……紅葉」

春香が呼ぶと、その少女は、わずかに肩を揺らした。

十七歳。
春香の記憶の中より、少し大人びた表情。
だが──目だけが、幼い。

「……お母さん……」
声が震える。

「呼んでくれた……?  私の名前……ちゃんと……」

春香は立ち上がり、美桜を抱いたまま、紅葉へ歩み寄った。

「当たり前でしょ。  あなたは、私の娘なんだから」

紅葉の唇が、かすかに歪む。

「……私、森に呼ばれた。  美桜お姉ちゃんの“代わり”だって……」

美奈が、はっきりと首を振った。

「違う。  誰の代わりでもない。  森が勝手に、そう“扱った”だけ」

祐真も続ける。

「奪われたのは、選ばれたからじゃない。  
戻る声が、届かなかっただけだ」

春香は紅葉を抱きしめた。

「もう、離さない。  誰の代わりにもさせない」

紅葉の肩が震え、嗚咽が漏れる。

その様子を、少女が静かに見ていた。

「……よかったね」

春香は振り返る。

「あなたも一緒に帰る」

少女は、ゆっくり首を振った。

「わたしは……ここまで。  でも、もう怖くない」

「どうして?」

少女は、森の奥を見つめた。

「名前がなくても……  “呼ばれた記憶”ができたから」

春香は、胸が締めつけられる。

「名前……つけてもいい?」

少女は驚いたように目を見開く。

「……いいの?」

春香は、優しく微笑んだ。

「ええ。  あなたは、ここにいた。  それだけで、十分」

少女は、しばらく考えてから、頷いた。

「……じゃあ……  “帰り道”って、呼んで」

次の瞬間──
少女の姿が、淡い光に包まれる。

森の闇が、一歩後ずさった。

名ではなく、意味によって結ばれた存在を、
森はもう縛れない。

光が消え、
そこには、静かな空気だけが残った。

美桜と紅葉は、春香の両側にいる。

祐真と美奈が、少し離れた場所で立っている。

そして──
道の先に、夜明けの気配が見えた。

森は、まだそこにある。

けれどもう、名を奪う場所ではない。

春香は、二人の娘の手を握りしめた。

「帰ろう」

森は、答えなかった。

ただ、静かに道を開けた。
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