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第36話 橋本さんと佐々木くんの場合
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梅雨の季節、午後の雨が激しく降り続いていた。会計事務所で働く橋本理恵(25歳)は、クライアントとの打ち合わせを終えて駅に向かう途中、突然の大雨に見舞われた。
「参ったな...」
理恵は慌てて近くの小さなカフェ「カフェ・リベルテ」に駆け込んだ。店内は温かい照明に包まれ、コーヒーの香りが漂っていた。
「いらっしゃいませ。雨宿りですか?」
カウンターから声をかけてきたのは、エプロン姿の男性だった。佐々木健人(27歳)、このカフェの店主兼バリスタだった。
「すみません、急に雨が...少しお借りできますか?」
「もちろんです。お飲み物はいかがですか?雨宿りの方には特別に温かいココアをサービスしています。」
健人の優しい笑顔に、理恵は心が和んだ。
「それじゃあ、お言葉に甘えて。」
健人は手慣れた様子でココアを作り始めた。ミルクを泡立てる音、スプーンでかき混ぜる音、そして外の雨音が店内に心地よいリズムを刻んでいた。
「お待たせしました。」
カップには可愛らしいラテアートが描かれていた。
「わあ、すごく上手ですね!これ、猫ちゃん?」
「はい。うちの看板娘のミルクをモデルにしました。」
健人は店の隅で丸くなって眠っている白い猫を指差した。理恵は思わず笑顔になった。
「可愛い...私、猫が大好きなんです。」
「そうなんですか?ミルクも人懐っこいので、よかったら撫でてあげてください。」
それから理恵は仕事帰りに時々カフェ・リベルテに立ち寄るようになった。健人のコーヒーは絶品で、何より彼との他愛もない会話が一日の疲れを癒してくれた。
「今日はお疲れさまでした。いつものブレンドですか?」
「お願いします。今日は特に忙しくて...健人さんのコーヒーが恋しくて。」
理恵は思わず本音を漏らしてしまい、頬を赤らめた。
「ありがとうございます。そう言ってもらえると、豆を挽く手にも力が入ります。」
健人も嬉しそうに微笑んだ。
ある日、理恵は勇気を出して健人に尋ねた。
「健人さんは、どうしてカフェを?」
「実は元々、大手商社で働いていたんです。でも、忙しすぎて自分を見失いそうになって...それで思い切って脱サラして、昔からの夢だったカフェを開いたんです。」
「すごい決断力ですね。私には真似できないかも。」
「理恵さんだって、毎日数字と向き合って、クライアントさんのために頑張ってらっしゃるじゃないですか。それもすごいことだと思います。」
お互いの仕事への想いを語り合ううちに、二人の距離は自然と縮まっていった。
秋が深まった頃、理恵は健人にお礼がしたくて手作りのチーズケーキを持参した。
「いつもお世話になっているお礼に...お口に合うかわからないですが。」
「ありがとうございます!理恵さんの手作りなんて、嬉しいです。」
健人が一口食べると、表情がぱあっと明るくなった。
「美味しい!すごく美味しいです。お店で出せるレベルですよ。」
「本当ですか?実は...お菓子作りが趣味なんです。」
「それなら今度、うちのカフェでお菓子作り教室なんてどうですか?僕がコーヒーを淹れて、理恵さんがお菓子を教える。」
「え、でも私なんかが...」
「お客さんにも喜んでもらえると思います。一緒にやりませんか?」
健人の提案に、理恵の心は躍った。
しかし、順調に見えた二人の関係に暗雲が立ち込めた。理恵の会社が業務拡大のため転勤を命じてきたのだ。転勤先は隣県の支社で、通勤は不可能な距離だった。
「転勤...ですか。」
理恵がカフェで健人に報告すると、健人の表情が曇った。
「いつからですか?」
「来月末から。断ることもできるけれど、キャリアアップのチャンスでもあって...」
「それは良いことじゃないですか。理恵さんの頑張りが認められたんですね。」
健人は努めて明るく言ったが、その笑顔は少し寂しそうだった。
理恵も複雑な気持ちだった。キャリアは大切だが、健人との関係も大切にしたかった。しかし、まだ恋人同士でもない関係で、転勤を断る理由にするのは重すぎるように思えた。
「最後に、お菓子作り教室、やりませんか?」健人が提案した。
「はい。ぜひ。」
お菓子作り教室当日、カフェには5組のカップルが参加した。理恵はアップルパイの作り方を教え、健人は合間にコーヒーのペアリングについて説明した。
「理恵先生と健人さん、息がぴったりですね。ご夫婦ですか?」
参加者の一人が尋ねると、二人は慌てて否定した。
「あ、いえ、私たちは...」
「ただの友人です。」
しかし、お互いにその言葉がどこか虚しく響いた。
教室が終わった後、二人は店内の片付けをしながら沈黙していた。
「理恵さん。」
健人が突然口を開いた。
「はい。」
「僕...実は、あなたのことが好きです。」
理恵の手が止まった。
「初めて雨宿りで来てくれた日から、ずっと。でも、今まで言えなくて...転勤前に、どうしても伝えたかったんです。」
理恵は振り返って健人を見つめた。彼の目は真剣だった。
「私も...私も健人さんのことが好きです。でも、転勤が...」
「待ってください。」
健人は理恵の手を取った。
「距離なんて関係ありません。本当に大切な人なら、どんな困難も乗り越えられると思うんです。僕たちなら、きっと大丈夫。」
「健人さん...」
「理恵さん、お付き合いしてください。遠距離になっても、必ず会いに行きます。そして、いつか一緒に暮らせる日まで、待っています。」
理恵の目に涙が浮かんだ。
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
転勤から一年後、理恵と健人は毎週末に会うようになっていた。時には理恵が地元に帰り、時には健人が理恵の住む町を訪れた。
遠距離恋愛は決して楽ではなかったが、二人の絆はより深くなっていった。
「理恵、実は相談があるんだ。」
ある週末、健人が切り出した。
「何?」
「君の住んでいる町に、カフェの2号店を出そうと思っているんだ。」
理恵は驚いた。
「本当?」
「うん。君のいる町でも、美味しいコーヒーを求めている人がいるはずだから。それに...」
健人は照れながら続けた。
「君の近くにいたいから。」
理恵は健人に飛び込んだ。
「ありがとう。でも、無理しないで。」
「無理じゃないよ。これは僕の夢でもあるから。理恵と一緒に、新しいお店を作り上げていきたいんだ。」
カフェ・リベルテ2号店のオープンから半年後、理恵と健人は結婚した。小さな式だったが、二人の笑顔は誰よりも輝いていた。
新婚旅行から帰った夜、二人は2号店で静かにコーヒーを飲んでいた。
「覚えてる?初めて会った日のこと。」健人が言った。
「もちろん。雨宿りでお邪魔して、美味しいココアをご馳走になったのよね。」
「あの雨に感謝しなくちゃね。」
「そうね。雨がなかったら、私たちは出会えなかったかも。」
そのとき、外で軽い雨が降り始めた。二人は微笑み合った。
「また雨宿りのお客さんが来るかもしれないね。」理恵が言った。
「今度は僕たちが、素敵な出会いのお手伝いをする番だね。」
窓の外では雨上がりの空に、美しい虹がかかっていた。理恵と健人は手を取り合い、これからも一緒に歩んでいく未来に想いを馳せた。
雨音と共に始まった恋は、今や二人の人生を彩る虹のように美しく輝いていた。
「参ったな...」
理恵は慌てて近くの小さなカフェ「カフェ・リベルテ」に駆け込んだ。店内は温かい照明に包まれ、コーヒーの香りが漂っていた。
「いらっしゃいませ。雨宿りですか?」
カウンターから声をかけてきたのは、エプロン姿の男性だった。佐々木健人(27歳)、このカフェの店主兼バリスタだった。
「すみません、急に雨が...少しお借りできますか?」
「もちろんです。お飲み物はいかがですか?雨宿りの方には特別に温かいココアをサービスしています。」
健人の優しい笑顔に、理恵は心が和んだ。
「それじゃあ、お言葉に甘えて。」
健人は手慣れた様子でココアを作り始めた。ミルクを泡立てる音、スプーンでかき混ぜる音、そして外の雨音が店内に心地よいリズムを刻んでいた。
「お待たせしました。」
カップには可愛らしいラテアートが描かれていた。
「わあ、すごく上手ですね!これ、猫ちゃん?」
「はい。うちの看板娘のミルクをモデルにしました。」
健人は店の隅で丸くなって眠っている白い猫を指差した。理恵は思わず笑顔になった。
「可愛い...私、猫が大好きなんです。」
「そうなんですか?ミルクも人懐っこいので、よかったら撫でてあげてください。」
それから理恵は仕事帰りに時々カフェ・リベルテに立ち寄るようになった。健人のコーヒーは絶品で、何より彼との他愛もない会話が一日の疲れを癒してくれた。
「今日はお疲れさまでした。いつものブレンドですか?」
「お願いします。今日は特に忙しくて...健人さんのコーヒーが恋しくて。」
理恵は思わず本音を漏らしてしまい、頬を赤らめた。
「ありがとうございます。そう言ってもらえると、豆を挽く手にも力が入ります。」
健人も嬉しそうに微笑んだ。
ある日、理恵は勇気を出して健人に尋ねた。
「健人さんは、どうしてカフェを?」
「実は元々、大手商社で働いていたんです。でも、忙しすぎて自分を見失いそうになって...それで思い切って脱サラして、昔からの夢だったカフェを開いたんです。」
「すごい決断力ですね。私には真似できないかも。」
「理恵さんだって、毎日数字と向き合って、クライアントさんのために頑張ってらっしゃるじゃないですか。それもすごいことだと思います。」
お互いの仕事への想いを語り合ううちに、二人の距離は自然と縮まっていった。
秋が深まった頃、理恵は健人にお礼がしたくて手作りのチーズケーキを持参した。
「いつもお世話になっているお礼に...お口に合うかわからないですが。」
「ありがとうございます!理恵さんの手作りなんて、嬉しいです。」
健人が一口食べると、表情がぱあっと明るくなった。
「美味しい!すごく美味しいです。お店で出せるレベルですよ。」
「本当ですか?実は...お菓子作りが趣味なんです。」
「それなら今度、うちのカフェでお菓子作り教室なんてどうですか?僕がコーヒーを淹れて、理恵さんがお菓子を教える。」
「え、でも私なんかが...」
「お客さんにも喜んでもらえると思います。一緒にやりませんか?」
健人の提案に、理恵の心は躍った。
しかし、順調に見えた二人の関係に暗雲が立ち込めた。理恵の会社が業務拡大のため転勤を命じてきたのだ。転勤先は隣県の支社で、通勤は不可能な距離だった。
「転勤...ですか。」
理恵がカフェで健人に報告すると、健人の表情が曇った。
「いつからですか?」
「来月末から。断ることもできるけれど、キャリアアップのチャンスでもあって...」
「それは良いことじゃないですか。理恵さんの頑張りが認められたんですね。」
健人は努めて明るく言ったが、その笑顔は少し寂しそうだった。
理恵も複雑な気持ちだった。キャリアは大切だが、健人との関係も大切にしたかった。しかし、まだ恋人同士でもない関係で、転勤を断る理由にするのは重すぎるように思えた。
「最後に、お菓子作り教室、やりませんか?」健人が提案した。
「はい。ぜひ。」
お菓子作り教室当日、カフェには5組のカップルが参加した。理恵はアップルパイの作り方を教え、健人は合間にコーヒーのペアリングについて説明した。
「理恵先生と健人さん、息がぴったりですね。ご夫婦ですか?」
参加者の一人が尋ねると、二人は慌てて否定した。
「あ、いえ、私たちは...」
「ただの友人です。」
しかし、お互いにその言葉がどこか虚しく響いた。
教室が終わった後、二人は店内の片付けをしながら沈黙していた。
「理恵さん。」
健人が突然口を開いた。
「はい。」
「僕...実は、あなたのことが好きです。」
理恵の手が止まった。
「初めて雨宿りで来てくれた日から、ずっと。でも、今まで言えなくて...転勤前に、どうしても伝えたかったんです。」
理恵は振り返って健人を見つめた。彼の目は真剣だった。
「私も...私も健人さんのことが好きです。でも、転勤が...」
「待ってください。」
健人は理恵の手を取った。
「距離なんて関係ありません。本当に大切な人なら、どんな困難も乗り越えられると思うんです。僕たちなら、きっと大丈夫。」
「健人さん...」
「理恵さん、お付き合いしてください。遠距離になっても、必ず会いに行きます。そして、いつか一緒に暮らせる日まで、待っています。」
理恵の目に涙が浮かんだ。
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
転勤から一年後、理恵と健人は毎週末に会うようになっていた。時には理恵が地元に帰り、時には健人が理恵の住む町を訪れた。
遠距離恋愛は決して楽ではなかったが、二人の絆はより深くなっていった。
「理恵、実は相談があるんだ。」
ある週末、健人が切り出した。
「何?」
「君の住んでいる町に、カフェの2号店を出そうと思っているんだ。」
理恵は驚いた。
「本当?」
「うん。君のいる町でも、美味しいコーヒーを求めている人がいるはずだから。それに...」
健人は照れながら続けた。
「君の近くにいたいから。」
理恵は健人に飛び込んだ。
「ありがとう。でも、無理しないで。」
「無理じゃないよ。これは僕の夢でもあるから。理恵と一緒に、新しいお店を作り上げていきたいんだ。」
カフェ・リベルテ2号店のオープンから半年後、理恵と健人は結婚した。小さな式だったが、二人の笑顔は誰よりも輝いていた。
新婚旅行から帰った夜、二人は2号店で静かにコーヒーを飲んでいた。
「覚えてる?初めて会った日のこと。」健人が言った。
「もちろん。雨宿りでお邪魔して、美味しいココアをご馳走になったのよね。」
「あの雨に感謝しなくちゃね。」
「そうね。雨がなかったら、私たちは出会えなかったかも。」
そのとき、外で軽い雨が降り始めた。二人は微笑み合った。
「また雨宿りのお客さんが来るかもしれないね。」理恵が言った。
「今度は僕たちが、素敵な出会いのお手伝いをする番だね。」
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