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第1話 雨の日の救世主
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四月の雨が、新緑の街路樹を濡らしていた。
中谷朱里は、傘を持たずに会社を出た自分を心底呪っていた。
天気予報では晴れのはずだったのに、午後から急に雲行きが怪しくなり、今では本格的な雨に変わっている。
「最悪……」
スマートフォンで時刻を確認する。午後六時四十分。
重要なクライアントとの打ち合わせが明日の朝一番にあるというのに、資料を会社に忘れてきてしまった。
新人の頃から完璧主義で通してきた朱里にとって、こんな失態は許されない。
雨脚が強くなる中、朱里は意を決してビルから駆け出した。会社まで三ブロック。全力で走れば五分とかからない。濡れるのは我慢するしかない──。
「中谷さん!」
背後から声をかけられ、朱里は振り返った。
雨の向こうから、黒い傘を差した男性が走ってくる。
平田嵩。営業部のエース。朱里より三つ年上で、社内でも評判の好青年。
「どうしたんです、こんな雨の中」
嵩は息を切らしながら朱里に傘を差し掛けた。
「傘、お持ちじゃないんですか?」
「あ、いえ……資料を取りに戻るだけなので」
朱里は慌てて答えた。傘の下に入ると、彼の体温が近くに感じられる。
シャツに残る微かな香水の匂い。整った横顔。
心臓が、さっきまでの雨よりも激しい音を立てている。
「資料って、明日の朝のプレゼンの?」
「え……どうして知ってるんですか?」
「噂で聞いたんです。中谷さんが大きな案件を任されてるって。すごいじゃないですか、入社二年目でクライアント相手にプレゼンなんて」
嵩の声には素直な賞賛が込められていた。
それが余計に朱里を戸惑わせる。
「別に、すごくなんて……」
「いやいや、謙遜しないでくださいよ。僕なんて二年目の頃は資料のコピー取りがメインでしたから」
気さくに話しかけてくる嵩に対して、朱里はどう反応していいかわからなかった。
こんな風に先輩と二人きりで話すことなど、今まで一度もなかったのだ。
会社のビルが見えてきた。エントランスの前で、嵩が足を止める。
「はい、到着です」
嵩は微笑んだ。
「資料、無事に取れるといいですね」
「あ、あの……」
朱里は何かお礼を言わなければと思った。
でも、なぜか言葉が出てこない。嵩の優しい笑顔を見ていると、胸の奥がざわざわして、頭が真っ白になってしまう。
気がつけば、全く違う言葉が口をついていた。
「ありがとう、なんて言いません」
「え?」
嵩が目を丸くする。
「だって……だって、余計なお世話ですから」
朱里の声が震えている。
「一人で濡れて帰るつもりだったのに、勝手に傘を貸して……大嫌いです、そういうの」
──一回目。
言った瞬間、自分でも信じられなかった。
嵩の顔が困ったような表情になる。
「あ……すみません。余計なことを……」
「そうです、余計です!」
朱里は勢いよく傘から飛び出すと、雨の中を会社のエントランスに向かって走った。
自動ドアが開く寸前で振り返ると、嵩がまだ同じ場所に立って、こちらを見ていた。
心臓がバクバクと鳴り続けている。
でも今度は、さっきとは違う理由で。
エレベーターに乗りながら、朱里は自分の頬を両手で覆った。
「馬鹿……なんであんなこと言ったの……」
優しくしてくれたのに。傘を貸してくれたのに。
本当は嬉しかったのに。
なのに、どうして「大嫌い」なんて言ってしまったんだろう。
──一回目の「大嫌い」が、こんなに重くのしかかるなんて。
オフィスの電気をつけながら、朱里は小さくため息をついた。
きっと平田先輩は、今頃自分のことを変な後輩だと思っているに違いない。
でも、仕方がない。素直になるなんて、朱里には無理なのだから。
──その夜、朱里は何度も布団の中で寝返りを打ちながら、嵩の困った顔を思い出していた。
そして、胸の奥で静かに呟いた。
「本当は……ありがとうって言いたかったのに」
中谷朱里は、傘を持たずに会社を出た自分を心底呪っていた。
天気予報では晴れのはずだったのに、午後から急に雲行きが怪しくなり、今では本格的な雨に変わっている。
「最悪……」
スマートフォンで時刻を確認する。午後六時四十分。
重要なクライアントとの打ち合わせが明日の朝一番にあるというのに、資料を会社に忘れてきてしまった。
新人の頃から完璧主義で通してきた朱里にとって、こんな失態は許されない。
雨脚が強くなる中、朱里は意を決してビルから駆け出した。会社まで三ブロック。全力で走れば五分とかからない。濡れるのは我慢するしかない──。
「中谷さん!」
背後から声をかけられ、朱里は振り返った。
雨の向こうから、黒い傘を差した男性が走ってくる。
平田嵩。営業部のエース。朱里より三つ年上で、社内でも評判の好青年。
「どうしたんです、こんな雨の中」
嵩は息を切らしながら朱里に傘を差し掛けた。
「傘、お持ちじゃないんですか?」
「あ、いえ……資料を取りに戻るだけなので」
朱里は慌てて答えた。傘の下に入ると、彼の体温が近くに感じられる。
シャツに残る微かな香水の匂い。整った横顔。
心臓が、さっきまでの雨よりも激しい音を立てている。
「資料って、明日の朝のプレゼンの?」
「え……どうして知ってるんですか?」
「噂で聞いたんです。中谷さんが大きな案件を任されてるって。すごいじゃないですか、入社二年目でクライアント相手にプレゼンなんて」
嵩の声には素直な賞賛が込められていた。
それが余計に朱里を戸惑わせる。
「別に、すごくなんて……」
「いやいや、謙遜しないでくださいよ。僕なんて二年目の頃は資料のコピー取りがメインでしたから」
気さくに話しかけてくる嵩に対して、朱里はどう反応していいかわからなかった。
こんな風に先輩と二人きりで話すことなど、今まで一度もなかったのだ。
会社のビルが見えてきた。エントランスの前で、嵩が足を止める。
「はい、到着です」
嵩は微笑んだ。
「資料、無事に取れるといいですね」
「あ、あの……」
朱里は何かお礼を言わなければと思った。
でも、なぜか言葉が出てこない。嵩の優しい笑顔を見ていると、胸の奥がざわざわして、頭が真っ白になってしまう。
気がつけば、全く違う言葉が口をついていた。
「ありがとう、なんて言いません」
「え?」
嵩が目を丸くする。
「だって……だって、余計なお世話ですから」
朱里の声が震えている。
「一人で濡れて帰るつもりだったのに、勝手に傘を貸して……大嫌いです、そういうの」
──一回目。
言った瞬間、自分でも信じられなかった。
嵩の顔が困ったような表情になる。
「あ……すみません。余計なことを……」
「そうです、余計です!」
朱里は勢いよく傘から飛び出すと、雨の中を会社のエントランスに向かって走った。
自動ドアが開く寸前で振り返ると、嵩がまだ同じ場所に立って、こちらを見ていた。
心臓がバクバクと鳴り続けている。
でも今度は、さっきとは違う理由で。
エレベーターに乗りながら、朱里は自分の頬を両手で覆った。
「馬鹿……なんであんなこと言ったの……」
優しくしてくれたのに。傘を貸してくれたのに。
本当は嬉しかったのに。
なのに、どうして「大嫌い」なんて言ってしまったんだろう。
──一回目の「大嫌い」が、こんなに重くのしかかるなんて。
オフィスの電気をつけながら、朱里は小さくため息をついた。
きっと平田先輩は、今頃自分のことを変な後輩だと思っているに違いない。
でも、仕方がない。素直になるなんて、朱里には無理なのだから。
──その夜、朱里は何度も布団の中で寝返りを打ちながら、嵩の困った顔を思い出していた。
そして、胸の奥で静かに呟いた。
「本当は……ありがとうって言いたかったのに」
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