大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。

菊池まりな

文字の大きさ
123 / 125

第123話 向き合う場所に、逃げ場はない

しおりを挟む
 火曜日。

 朝から、心臓が落ち着かなかった。

 “今日、平田さんと話す”。

 ただそれだけの事実が、こんなにも重くのしかかるなんて、昨日までの私は知らなかった。

(どこで話すんだろう……。社内? 外? 会議室?)

 余計な想像が次々と湧き、落ち着きが消えていく。

 出社したものの、デスクに座ってからも資料の文字が頭に入らなかった。


 午前十時。

 自席で入力作業をしていると、私の横を通り過ぎようとした誰かが、ふっと足を止めた。

 ──平田さんだった。

「中谷さん」

 一瞬で背筋が強張る。

「……はい」

 周りに人がいるのに、声が少し震えていた。

「昼休み……少し時間いいですか」

 事務的な言い方なのに、目だけはまっすぐで、逃げ道を作ってくれなかった。

「……はい」

 その返事が、まるで判決を受けたみたいに重かった。


 昼。

 定刻のチャイムが鳴るより早く、私は席を立つ準備をしていた。

 でも実際に立ち上がる勇気が出なくて、時計を何度も見てしまう。

(怖い……)

 本心だった。

 けれどそれ以上に、

(逃げたくない……)

 そう思う自分も確かにいた。

 そんなとき──

「じゃ、行きましょうか」

 振り向くと、平田さんが立っていた。

 声が優しいわけでも、深刻なわけでもない。

 ただ、「ここにいる」という確かな存在感だけがあった。

 私は小さく頷いた。


 向かった先は、オフィスの端にある小さな応接スペースだった。

 午前中は誰も使わないことが多い場所。

 他の社員からも少しだけ距離があって、声を潜める必要もある。

 席に向かい合って座ると、心臓の音がやけに大きく響いた。

 最初に口を開いたのは、平田さんだった。

「昨日のことだけど」

 落ち着いた声。

 だけど、どこかぎこちない。

「瑠奈さんから、告白を受けたこと……話しておきたいと思って」

「……はい」

 喉が乾いて、言葉が詰まる。

「すぐに答えられなかったのは、中谷さんのことがあるからです」

 胸の奥が、ずきんと痛んだ。

 でも、その言葉は、どこか苦しげだった。

「中谷さんとは、ちゃんと話をしないまま、色んなことが曖昧で……それを残したまま返事するのは、違うと思った」

 私は指先を握りしめた。

「仕事のこともあるし、立場もある。そこを踏まえてどう感じてるのか……本当の気持ちを知りたかったんです」

「……本当の気持ち……」

 その言葉が、怖かった。

 言ったら、終わるかもしれない。

 言わなかったら、もっと終わるのに。

「中谷さん」

 名前を呼ばれると、息が止まりそうになる。

「昨日、『上司ですから』って言いましたよね」

「……言いました」

「それが、本音なんですか?」

 たった一つの問い。

 でも、逃げ場のない問いだった。

 私は目を伏せ、手を膝の上でぎゅっと握った。

(違う……違う……)

 心のなかではずっと叫んでいたのに、口が動かない。

「もし、本音なら……それでいいんです」

 その言い方は、優しいのに、残酷だった。

「でも、もし──“それ以外”の気持ちがあるなら」

 平田さんの声が、ほんの少しだけ震えた。

「言ってほしい」

 胸が痛い。

 苦しい。

(言いたい……でも、言えない……)

 喉の奥で、言葉が絡まって出てこない。

 その沈黙の中で、平田さんがふっと視線を落とした。

「……昨日、瑠奈さんから、こう言われました」

 私は顔を上げる。

「『私は逃げません。最後までちゃんと言います』って」

 その言葉は、私の胸の中心に突き刺さった。

(私は……逃げてる)

 ずっと。

 “大嫌い”を盾にして。

 “上司”を盾にして。

 何も言わずに、選ばれる側でいるだけで。

「だから……中谷さんにも、聞いておきたいんです」

 静かに、でも強く。

「俺に対して……どう思ってるのか」

 頭が真っ白になった。

 言わなきゃ。

 言わなきゃいけない。

 でも、怖い。

 言葉が喉の奥で震えて、涙が出そうになる。

「……私……」

 絞り出すように口を開いた瞬間。

 応接スペースの入り口から、誰かの足音が近づいてきた。

 そして──

「平田さん、探しました!」

 明るい声が空気を切り裂いた。

 瑠奈だった。

 書類を抱えたまま、笑顔でこちらを見ている。

「急ぎの確認が入ってて……すぐ見ていただきたくて!」

 その笑顔が、悪気のない無邪気さで、余計に残酷だった。

 平田さんは一瞬だけ目を閉じ、私の方を向いて小さく言った。

「……続きは、またあとで」

 そして立ち上がった。

 私はただ、何も言えずに座ったまま。

 瑠奈が平田さんと並んで去っていく背中を、動けずに見送るしかなかった。

 胸に残ったのは──

 言いかけた言葉の重みと、

 言えなかった悔しさだけだった。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

大丈夫のその先は…

水姫
恋愛
実来はシングルマザーの母が再婚すると聞いた。母が嬉しそうにしているのを見るとこれまで苦労かけた分幸せになって欲しいと思う。 新しくできた父はよりにもよって医者だった。新しくできた兄たちも同様で…。 バレないように、バレないように。 「大丈夫だよ」 すいません。ゆっくりお待ち下さい。m(_ _)m

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

ハイスぺ幼馴染の執着過剰愛~30までに相手がいなかったら、結婚しようと言ったから~

cheeery
恋愛
パイロットのエリート幼馴染とワケあって同棲することになった私。 同棲はかれこれもう7年目。 お互いにいい人がいたら解消しようと約束しているのだけど……。 合コンは撃沈。連絡さえ来ない始末。 焦るものの、幼なじみ隼人との生活は、なんの不満もなく……っというよりも、至極の生活だった。 何かあったら話も聞いてくれるし、なぐさめてくれる。 美味しい料理に、髪を乾かしてくれたり、買い物に連れ出してくれたり……しかも家賃はいらないと受け取ってもくれない。 私……こんなに甘えっぱなしでいいのかな? そしてわたしの30歳の誕生日。 「美羽、お誕生日おめでとう。結婚しようか」 「なに言ってるの?」 優しかったはずの隼人が豹変。 「30になってお互いに相手がいなかったら、結婚しようって美羽が言ったんだよね?」 彼の秘密を知ったら、もう逃げることは出来ない。 「絶対に逃がさないよ?」

処理中です...