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第123話 向き合う場所に、逃げ場はない
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火曜日。
朝から、心臓が落ち着かなかった。
“今日、平田さんと話す”。
ただそれだけの事実が、こんなにも重くのしかかるなんて、昨日までの私は知らなかった。
(どこで話すんだろう……。社内? 外? 会議室?)
余計な想像が次々と湧き、落ち着きが消えていく。
出社したものの、デスクに座ってからも資料の文字が頭に入らなかった。
午前十時。
自席で入力作業をしていると、私の横を通り過ぎようとした誰かが、ふっと足を止めた。
──平田さんだった。
「中谷さん」
一瞬で背筋が強張る。
「……はい」
周りに人がいるのに、声が少し震えていた。
「昼休み……少し時間いいですか」
事務的な言い方なのに、目だけはまっすぐで、逃げ道を作ってくれなかった。
「……はい」
その返事が、まるで判決を受けたみたいに重かった。
昼。
定刻のチャイムが鳴るより早く、私は席を立つ準備をしていた。
でも実際に立ち上がる勇気が出なくて、時計を何度も見てしまう。
(怖い……)
本心だった。
けれどそれ以上に、
(逃げたくない……)
そう思う自分も確かにいた。
そんなとき──
「じゃ、行きましょうか」
振り向くと、平田さんが立っていた。
声が優しいわけでも、深刻なわけでもない。
ただ、「ここにいる」という確かな存在感だけがあった。
私は小さく頷いた。
向かった先は、オフィスの端にある小さな応接スペースだった。
午前中は誰も使わないことが多い場所。
他の社員からも少しだけ距離があって、声を潜める必要もある。
席に向かい合って座ると、心臓の音がやけに大きく響いた。
最初に口を開いたのは、平田さんだった。
「昨日のことだけど」
落ち着いた声。
だけど、どこかぎこちない。
「瑠奈さんから、告白を受けたこと……話しておきたいと思って」
「……はい」
喉が乾いて、言葉が詰まる。
「すぐに答えられなかったのは、中谷さんのことがあるからです」
胸の奥が、ずきんと痛んだ。
でも、その言葉は、どこか苦しげだった。
「中谷さんとは、ちゃんと話をしないまま、色んなことが曖昧で……それを残したまま返事するのは、違うと思った」
私は指先を握りしめた。
「仕事のこともあるし、立場もある。そこを踏まえてどう感じてるのか……本当の気持ちを知りたかったんです」
「……本当の気持ち……」
その言葉が、怖かった。
言ったら、終わるかもしれない。
言わなかったら、もっと終わるのに。
「中谷さん」
名前を呼ばれると、息が止まりそうになる。
「昨日、『上司ですから』って言いましたよね」
「……言いました」
「それが、本音なんですか?」
たった一つの問い。
でも、逃げ場のない問いだった。
私は目を伏せ、手を膝の上でぎゅっと握った。
(違う……違う……)
心のなかではずっと叫んでいたのに、口が動かない。
「もし、本音なら……それでいいんです」
その言い方は、優しいのに、残酷だった。
「でも、もし──“それ以外”の気持ちがあるなら」
平田さんの声が、ほんの少しだけ震えた。
「言ってほしい」
胸が痛い。
苦しい。
(言いたい……でも、言えない……)
喉の奥で、言葉が絡まって出てこない。
その沈黙の中で、平田さんがふっと視線を落とした。
「……昨日、瑠奈さんから、こう言われました」
私は顔を上げる。
「『私は逃げません。最後までちゃんと言います』って」
その言葉は、私の胸の中心に突き刺さった。
(私は……逃げてる)
ずっと。
“大嫌い”を盾にして。
“上司”を盾にして。
何も言わずに、選ばれる側でいるだけで。
「だから……中谷さんにも、聞いておきたいんです」
静かに、でも強く。
「俺に対して……どう思ってるのか」
頭が真っ白になった。
言わなきゃ。
言わなきゃいけない。
でも、怖い。
言葉が喉の奥で震えて、涙が出そうになる。
「……私……」
絞り出すように口を開いた瞬間。
応接スペースの入り口から、誰かの足音が近づいてきた。
そして──
「平田さん、探しました!」
明るい声が空気を切り裂いた。
瑠奈だった。
書類を抱えたまま、笑顔でこちらを見ている。
「急ぎの確認が入ってて……すぐ見ていただきたくて!」
その笑顔が、悪気のない無邪気さで、余計に残酷だった。
平田さんは一瞬だけ目を閉じ、私の方を向いて小さく言った。
「……続きは、またあとで」
そして立ち上がった。
私はただ、何も言えずに座ったまま。
瑠奈が平田さんと並んで去っていく背中を、動けずに見送るしかなかった。
胸に残ったのは──
言いかけた言葉の重みと、
言えなかった悔しさだけだった。
朝から、心臓が落ち着かなかった。
“今日、平田さんと話す”。
ただそれだけの事実が、こんなにも重くのしかかるなんて、昨日までの私は知らなかった。
(どこで話すんだろう……。社内? 外? 会議室?)
余計な想像が次々と湧き、落ち着きが消えていく。
出社したものの、デスクに座ってからも資料の文字が頭に入らなかった。
午前十時。
自席で入力作業をしていると、私の横を通り過ぎようとした誰かが、ふっと足を止めた。
──平田さんだった。
「中谷さん」
一瞬で背筋が強張る。
「……はい」
周りに人がいるのに、声が少し震えていた。
「昼休み……少し時間いいですか」
事務的な言い方なのに、目だけはまっすぐで、逃げ道を作ってくれなかった。
「……はい」
その返事が、まるで判決を受けたみたいに重かった。
昼。
定刻のチャイムが鳴るより早く、私は席を立つ準備をしていた。
でも実際に立ち上がる勇気が出なくて、時計を何度も見てしまう。
(怖い……)
本心だった。
けれどそれ以上に、
(逃げたくない……)
そう思う自分も確かにいた。
そんなとき──
「じゃ、行きましょうか」
振り向くと、平田さんが立っていた。
声が優しいわけでも、深刻なわけでもない。
ただ、「ここにいる」という確かな存在感だけがあった。
私は小さく頷いた。
向かった先は、オフィスの端にある小さな応接スペースだった。
午前中は誰も使わないことが多い場所。
他の社員からも少しだけ距離があって、声を潜める必要もある。
席に向かい合って座ると、心臓の音がやけに大きく響いた。
最初に口を開いたのは、平田さんだった。
「昨日のことだけど」
落ち着いた声。
だけど、どこかぎこちない。
「瑠奈さんから、告白を受けたこと……話しておきたいと思って」
「……はい」
喉が乾いて、言葉が詰まる。
「すぐに答えられなかったのは、中谷さんのことがあるからです」
胸の奥が、ずきんと痛んだ。
でも、その言葉は、どこか苦しげだった。
「中谷さんとは、ちゃんと話をしないまま、色んなことが曖昧で……それを残したまま返事するのは、違うと思った」
私は指先を握りしめた。
「仕事のこともあるし、立場もある。そこを踏まえてどう感じてるのか……本当の気持ちを知りたかったんです」
「……本当の気持ち……」
その言葉が、怖かった。
言ったら、終わるかもしれない。
言わなかったら、もっと終わるのに。
「中谷さん」
名前を呼ばれると、息が止まりそうになる。
「昨日、『上司ですから』って言いましたよね」
「……言いました」
「それが、本音なんですか?」
たった一つの問い。
でも、逃げ場のない問いだった。
私は目を伏せ、手を膝の上でぎゅっと握った。
(違う……違う……)
心のなかではずっと叫んでいたのに、口が動かない。
「もし、本音なら……それでいいんです」
その言い方は、優しいのに、残酷だった。
「でも、もし──“それ以外”の気持ちがあるなら」
平田さんの声が、ほんの少しだけ震えた。
「言ってほしい」
胸が痛い。
苦しい。
(言いたい……でも、言えない……)
喉の奥で、言葉が絡まって出てこない。
その沈黙の中で、平田さんがふっと視線を落とした。
「……昨日、瑠奈さんから、こう言われました」
私は顔を上げる。
「『私は逃げません。最後までちゃんと言います』って」
その言葉は、私の胸の中心に突き刺さった。
(私は……逃げてる)
ずっと。
“大嫌い”を盾にして。
“上司”を盾にして。
何も言わずに、選ばれる側でいるだけで。
「だから……中谷さんにも、聞いておきたいんです」
静かに、でも強く。
「俺に対して……どう思ってるのか」
頭が真っ白になった。
言わなきゃ。
言わなきゃいけない。
でも、怖い。
言葉が喉の奥で震えて、涙が出そうになる。
「……私……」
絞り出すように口を開いた瞬間。
応接スペースの入り口から、誰かの足音が近づいてきた。
そして──
「平田さん、探しました!」
明るい声が空気を切り裂いた。
瑠奈だった。
書類を抱えたまま、笑顔でこちらを見ている。
「急ぎの確認が入ってて……すぐ見ていただきたくて!」
その笑顔が、悪気のない無邪気さで、余計に残酷だった。
平田さんは一瞬だけ目を閉じ、私の方を向いて小さく言った。
「……続きは、またあとで」
そして立ち上がった。
私はただ、何も言えずに座ったまま。
瑠奈が平田さんと並んで去っていく背中を、動けずに見送るしかなかった。
胸に残ったのは──
言いかけた言葉の重みと、
言えなかった悔しさだけだった。
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