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第124話 言えなかった言葉が、背中をつかんで離さない
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瑠奈が平田さんを連れて応接スペースを出て行ったあと。
私は、しばらく動けなかった。
椅子の肘掛けに置いた指先が、冷たく震えている。
(……言えなかった)
胸の奥で、敗北みたいな痛みがじんじんと広がる。
誰に負けたわけでもないのに、負けたような気分だった。
(“上司です”なんて……それが本音なわけないのに)
自分でもわかっている。
でも口に出せば、今まで積み上げてきたものが壊れてしまう気がして。
(怖い……)
本当は、それだけなのに。
午後の業務が始まっても、集中できなかった。
デスクに戻ると、向かいの席の美鈴さんがちらりと私を見た。
「朱里ちゃん、大丈夫?」
「え……えっと、はい」
「顔色悪いわよ」
言いながら、そっとミネラルウォーターを差し出してくれる。
「ありがとう、ございます……」
喉に冷たい水が落ちていく。
だけど、心の熱は全然冷えない。
「……何かあった?」
美鈴さんの聞き方は優しくて、逃げ道を作ってくれる。
(でも……言えない)
私と平田さんのことを、誰にも言ってはいけない。
「いえ、ちょっと……眠いだけです」
自分でもわかるくらい下手な嘘だった。
美鈴さんはそれ以上追及せず、
「無理しないでね」
と小さくつぶやき、仕事に戻っていった。
午後三時。
トイレに立った帰り、給湯室の前を通りかかったときだった。
中から声が聞こえる。
──瑠奈だ。
「……だから、私、ちゃんと言ったんです。“逃げません”って」
瑠奈の明るい声が、自信に満ちて響く。
「返事はまだですけど……でも、平田さん、私の気持ちをちゃんと聞いてくれたんです。だから……信じてます」
胸の奥がぎゅっと縮んだ。
(あ……)
逃げていたのは、私だけだ。
瑠奈は怖がりながらも、ちゃんと進んでいる。
その事実が、刺さる。
「“言うべきことは言う”。だって、後悔したくないじゃないですか」
その言葉が、今の私に向けられたようで、思わず息を呑んだ。
(後悔……)
今日の自分はどうだろう。
言えなくて。
逃げて。
また次に回して。
(……後悔してる)
はっきりと自覚した瞬間、胸がズキンと痛んだ。
瑠奈の声が徐々に遠ざかり、給湯室の扉が閉まる。
私はその場に立ち尽くした。
(私も……言わなきゃ、いけないんだ)
このままじゃ、何も変わらない。
仕事を終えてオフィスを出ると、夕焼けが沈みかけていた。
昨日より少し冷たい風が頬を撫でる。
スマホを握りしめたまま立ち止まる。
平田さんに、メッセージを送るかどうか。
指が震える。
(話したい……でも……)
そのとき、背後から足音が一つ。
振り返ると──
「中谷さん」
平田さんだった。
スーツの上着を片手に、ほんの少しだけ疲れた表情。
でも目だけは、まっすぐ私に向いていた。
「今日……朝言った続きを、聞かせてもらえませんか」
逃げ場は、もうどこにもなかった。
でも──
(逃げたくない)
その気持ちが、負けずに胸に残っていた。
私は、小さく深呼吸した。
「……話したいことがあります」
はっきり言えた。
その瞬間、平田さんの表情が、一瞬だけ柔らかく揺れた。
「じゃあ……歩きながらでいいですか」
昨日と同じように、ゆっくりした声。
でも、昨日と違っていた。
私の覚悟は、もう決まりかけていた。
並んで歩き出したとき。
(今日こそ言わなきゃ)
そう決意した自分がいた。
言えなかった言葉の続きを、取り戻すために。
私は、しばらく動けなかった。
椅子の肘掛けに置いた指先が、冷たく震えている。
(……言えなかった)
胸の奥で、敗北みたいな痛みがじんじんと広がる。
誰に負けたわけでもないのに、負けたような気分だった。
(“上司です”なんて……それが本音なわけないのに)
自分でもわかっている。
でも口に出せば、今まで積み上げてきたものが壊れてしまう気がして。
(怖い……)
本当は、それだけなのに。
午後の業務が始まっても、集中できなかった。
デスクに戻ると、向かいの席の美鈴さんがちらりと私を見た。
「朱里ちゃん、大丈夫?」
「え……えっと、はい」
「顔色悪いわよ」
言いながら、そっとミネラルウォーターを差し出してくれる。
「ありがとう、ございます……」
喉に冷たい水が落ちていく。
だけど、心の熱は全然冷えない。
「……何かあった?」
美鈴さんの聞き方は優しくて、逃げ道を作ってくれる。
(でも……言えない)
私と平田さんのことを、誰にも言ってはいけない。
「いえ、ちょっと……眠いだけです」
自分でもわかるくらい下手な嘘だった。
美鈴さんはそれ以上追及せず、
「無理しないでね」
と小さくつぶやき、仕事に戻っていった。
午後三時。
トイレに立った帰り、給湯室の前を通りかかったときだった。
中から声が聞こえる。
──瑠奈だ。
「……だから、私、ちゃんと言ったんです。“逃げません”って」
瑠奈の明るい声が、自信に満ちて響く。
「返事はまだですけど……でも、平田さん、私の気持ちをちゃんと聞いてくれたんです。だから……信じてます」
胸の奥がぎゅっと縮んだ。
(あ……)
逃げていたのは、私だけだ。
瑠奈は怖がりながらも、ちゃんと進んでいる。
その事実が、刺さる。
「“言うべきことは言う”。だって、後悔したくないじゃないですか」
その言葉が、今の私に向けられたようで、思わず息を呑んだ。
(後悔……)
今日の自分はどうだろう。
言えなくて。
逃げて。
また次に回して。
(……後悔してる)
はっきりと自覚した瞬間、胸がズキンと痛んだ。
瑠奈の声が徐々に遠ざかり、給湯室の扉が閉まる。
私はその場に立ち尽くした。
(私も……言わなきゃ、いけないんだ)
このままじゃ、何も変わらない。
仕事を終えてオフィスを出ると、夕焼けが沈みかけていた。
昨日より少し冷たい風が頬を撫でる。
スマホを握りしめたまま立ち止まる。
平田さんに、メッセージを送るかどうか。
指が震える。
(話したい……でも……)
そのとき、背後から足音が一つ。
振り返ると──
「中谷さん」
平田さんだった。
スーツの上着を片手に、ほんの少しだけ疲れた表情。
でも目だけは、まっすぐ私に向いていた。
「今日……朝言った続きを、聞かせてもらえませんか」
逃げ場は、もうどこにもなかった。
でも──
(逃げたくない)
その気持ちが、負けずに胸に残っていた。
私は、小さく深呼吸した。
「……話したいことがあります」
はっきり言えた。
その瞬間、平田さんの表情が、一瞬だけ柔らかく揺れた。
「じゃあ……歩きながらでいいですか」
昨日と同じように、ゆっくりした声。
でも、昨日と違っていた。
私の覚悟は、もう決まりかけていた。
並んで歩き出したとき。
(今日こそ言わなきゃ)
そう決意した自分がいた。
言えなかった言葉の続きを、取り戻すために。
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