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第4話:俺の色に染まる夜
しおりを挟む地下駐車場へと滑り込んだ車から降りると、そこにはホテルのような静けさと、冷たいコンクリートの匂いが満ちている。
ここは、住人同士ですら顔を合わせることのないように設計されている。その駐車場内の各戸専用の駐車スペースから、そのまま自室に直結するプライベート用のエレベーターへと続く導線。
俺が、多額の金と引き換えに手に入れたのは誰にも見られないという平穏だった。
よく言えば、互いに干渉せずプライバシーを保てるが、悪く言えば、金で買った者たちが集う、巨大な墓標のような場所だ。
(時間を金で買うという言い方もあるか)
隣接する区画には数千万を軽く超える欧州の高級車が、厚いアクリル壁に守られたコレクションのように並んでいる。子供のころに集めることのできなかったミニカーを、今になって手に入れたような気分にもなる。
仕事帰り、一人でこの場所に降り立つのは俺の日常。走り終えたばかりのエンジンルームが焼けたような、どこか焦燥感を煽るこの匂いも、いつもなら孤独を確認するための単なる記号でしかない。
かつて、何者でもなかった頃の俺にとって、この場所は成功の象徴だった。テレビの向こう側の人間にしかなれないと思っていた、選ばれた者だけが住める家。
這い上がるためにすべてを捨て、ようやく手に入れたこの空間は、たしかに憧れた夢の形をしていた。だが、実際に住んでみて分かったのは、ここは自由が死ぬ場所だということだ。一歩外に出ればカメラに追われ、笑顔を振りまき、虚像の自分を演じ続ける。この分厚いコンクリートの壁と、鉄壁のセキュリティに守られた空間でしか、俺は呼吸をすることさえ許されない。
俺は、助手席から震える紬を連れ出し、手を引いたまま、専用のプライベート・エレベーターへと乗り込む。
扉が閉まり、最上階のボタンを無言で押す。
鏡張りの壁に映る俺たちは、はたから見れば、どこか危うい色気を孕んだ美男美女のカップルに見えるだろう。
俺の隣で、高級ラウンジの豪奢なドレスを纏った紬。国民的アイドルである俺。この二人の裏の事情なんて誰も知らない。皆、表の事情でしか測らない。努力して手にしたことすら誰にも伝わらない。自分たちの目で見たもの、耳にしたものだけをあたかも自分たちが見て聞いてきたかのように解釈する。
俺たちは、あの、希望も何もない、腐った夜舟町で育った。
そこから這い上がるために、手段を選ばず、自分の魂まで泥に染めて、今の地位とこのマンションを手に入れた俺。
夜舟町に足を踏み入れた瞬間に人間を腐らせる。金を持つ男は女をモノのように買いたたき、金のない女は男を騙してその日暮らしの糧を奪い合う。ここでは、金こそが唯一の呼吸器であり、それを持たぬ者は他人を蹴落としてでも息をすることすら奪い取るのが常識だ。
美貌さえも、そこではただの安売りされる商品に過ぎない。きれいな顔をした女ほど、真っ先に誰かの手にかかり、一週間も経てばその瞳からは未来が消える。
それが夜舟町だ。
だが、紬はどうだ。
同じ地獄に居ながら、紬は決して染まらなかった。その瞳には、あの夜舟町の人間が誰しも持っているはずの、他者を害そうとする心や、生き延びるための卑屈な策略すらない。汚れきったゴミ捨て場に、奇跡的に咲き残った一輪の百合。そんなあり得ない存在が目の前にいる。
(だからこそ、俺は、こいつに惹かれた)
「あの、ここは……」
いつもは一人で乗るこのエレベーター。
最新型は静かであっという間に最上階へ辿り着くと聞いていたが、実際に毎日使用していれば、ワイヤーが上げる低い唸りも、足元から伝わるわずかな振動も無視はできない。
「俺の城へ通じるエレベーターだ」
最上階へ向けて急上昇するにつれて、耳の奥がわずかに詰まっていく。以前よりはマシになったとはいえ、この特有の不快感は消えない。
催眠療法かと思うほど深いブラックの背景に、オレンジ色の数字が一つ、また一つとカウントされていく。その光を見ていると、自分の理性がどこか遠くへ吸い込まれていくような錯覚に陥る。
豪華すぎる内装のエレベーターに圧倒されたのか、紬が消え入りそうな声で尋ねてきた。
「ここは誰ともすれ違うことはないのですか」
「俺以外の何者も立ち入れない場所だ」
「どんな仕組みなのですか」
「来客用のエレベーターは別にある」
俺の生活圏に直接つながるこの場所には、親しい友人だろうと、仕事のパートナーだろうと、決して足を踏み入れさせることはない。
「……初めてだ。俺以外の人を乗せたのは」
俺の言葉に、紬は息を呑み、そしてひどく不思議そうな顔をして俺を見上げる。
その瞳には、「なぜ、私のような人間が初めてなのか」という戸惑いと、俺が紬に抱いている異常なほどの執着をまだ理解し切れていない、無垢な色があった。
俺にとってどれほど大きな一歩であっても、紬にとってはまだ、連れてこられた見知らぬ場所の、ただの不思議なルールの一つに過ぎないのだろう。その残酷なまでの温度差が、俺の独占欲をいっそう激しく煽る。
最上階のボタンが静かに光り、到着を告げようとしている。
――チーン。
「着いたぞ」
電子音が鳴り、ドアが開いた先は、フロア全体がひとつの住居となっている、俺だけの城。大理石の床に、壁一面のガラス越しに広がる東京の夜景。
「……お前の、新しい家だ」
重厚なドアが閉まった瞬間、密閉された空間には、雨に濡れた紬の匂いと、俺の昂ぶった熱が混ざり合った。
紬は一瞬、そのあまりの広さに言葉を失ったようだったが、玄関の段差を前にして小さく尋ねてきた。
「あの……靴は、脱いだほうが……」
「そのままでいい」
「はい。……お邪魔します」
小さく頭を下げ、控えめに一歩を踏み出す紬。
(……お邪魔します、だと?)
無理やり連れ去られ、人生を奪われようとしているその瀬戸際で、この女はそんな当たり前のような挨拶を口にするのか。恐怖にパニックになるでもなく、かといって不敵に微笑むわけでもない。ただの客として振る舞おうとするそのあまりの無防備さと、体に染み付いた育ちの良さが、俺の胸の奥を激しく逆撫でした。
俺は、紬のその冷静さを、あるいは日常へのしがみつきを、今すぐ完膚無きまでに叩き潰してやりたくなる。
「紬」
呼びかけると同時に、俺は紬の手首を掴み、そのままリビングの広いソファへと押し倒した。
「あっ……!」
沈み込むような上質な革の感触。紬に覆いかぶさり、震える唇を指先でなぞった。
「お前の人生、俺が買い取っただろう」
紬は逃げようともせず、ただ大きな瞳に涙を溜めて俺を見上げている。その無防備な絶望が、俺の中の獣を激しくあおり立てる。
黙って紬のドレスのジッパーを下ろした。
リビングの冷たい空気が紬の白い肌をなぞる。すぐに俺の体温がそれを上書きしていく。露わになった白い肩、そして背中を、俺は刻印を刻むように順に舐め上げた。
(これは?)
間接照明の柔らかな光が、残酷な真実を照らし出す。紬の腰、太もも、そして腕。至るところに散る無数の青黒い痣、古い打撲の痕。何かに強く打ち付けられたような生々しい青あざが、いくつも白い肌を汚していた。
俺の知らないところで、誰が、どんな汚い手でこいつに触れた。俺以外の何かがこいつを傷つけ、跡を残したという事実。
「……この傷、どうした」
紬は恥ずかしそうに身体を丸め、ただ黙って首を振る。言えるはずがない。自分の惨めな事情を、目の前のこのきらびやかで傲慢な男に。
だが、俺は逃がさない。その痣の地図を、俺の唇と舌で一つずつ塗り潰していく。
「暴力か?それとも、酒に酔った誰かが何かを投げた跡か」
核心を突く俺の言葉に、紬の肩が大きく揺れた。肯定も否定もできないまま、紬の大きな瞳から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「……言いたく、ない……です」
「言わなくていい。お前の身体が、すべて物語っている」
俺の指先が、紬の秘められた奥深くに触れる。
紬の指先が俺の肩に深く食い込み、弓なりになった背中が、逃げ場を失った熱を求めて俺にしがみついてきた。
逃げ場を塞ぐように紬を組み敷き、耳たぶを強く噛む。紬の喉が、声にならない音を漏らして大きく波打った。拒否なのか、あるいは快楽への戸惑いなのか。
逃れられない重圧に、紬は耐えきれず、白旗を上げるように弱音をこぼした。
「私が、ちゃんとお金を作れなかったから……」
こんな汚い泥沼の中で、こいつは一人で自分を責めながら耐えてきたのか。俺以外の何かが、この肌を、この心を、無造作に傷つけていたことが、吐き気がするほど、許せなくなった。
「……いいか、よく聞け」
俺は紬の両手首を頭の上で固定し、身体を押し付けた。
「お前を傷つけることも、泣かせることも、お前の指先一本まで、俺以外のゴミには触れさせない」
痛みを知っているはずの身体が、俺の与える衝撃に、これ以上ないほど甘く反応していた。
紬の瞳は潤み、焦点は夜景の向こう側へと溶けていく。
ただ、俺が貫くたびに漏れる、熱く、切迫した吐息だけが、この静かな部屋の空気を震わせている。もう、紬は、自分の意思で呼吸することさえ忘れているようだった。
俺が与える快感だけを頼りに、濁流のような熱の中を必死に泳いでいる。この重みに耐えかねて、細い足が俺の腰を固く締め上げた時、紬の喉の奥から、壊れた楽器のような嗄れた音が響いた。
(……いい。そのまま、俺に壊されるまで鳴いていろ)
俺の執着をすべて注ぎ込むように、紬の最奥へと自分を沈める。一瞬、紬が驚いたように瞳を大きく見開いた。やがて抗うことをやめた身体が、とろけるような甘い吐息を漏らした。拒むことを忘れた細い膝が、力なく左右に割れる。すべてを委ねるように、熱に溶けた視線が俺を捉えた。
その表情は、これまで見たことのないほど、俺という存在に心を奪われている。幸福と恐怖の狭間で、紬の意識が甘いチョコレートのように、音もなく溶け落ちていくのが分かった。
俺の色に、俺の匂いに、俺の存在そのものに。紬の身体が完全に俺の物になっていく感覚。それは、どんなステージの歓声よりも、俺の乾いた心を深く満たしてくれる。
(……あぁ、もう戻れないぞ、紬。お前を地獄から引きずり出したのは、救いの手なんかじゃない。俺という新しい楽園、いや、地獄の始まりだ)
俺は、腕の中で疲れ果てて震える紬を強く抱きしめたまま、その耳元に唇を寄せた。
「……もう、お前は俺のものだ」
紬は、何も言わなかった。
否定することも、縋ることも。
「俺の住人だ」
「……っ、はい……」
消え入りそうな、けれど確かなその一言が、俺の鼓膜を甘く震わせた。
これまで、数え切れないほどの女たちが俺を誘惑し、熱狂的な歓声を浴びせてきた。純粋を装いながら俺の財産を狙う女も、一晩の快楽のために身体を差し出す女も、すべてを掌の上で転がしてきた自負がある。
(この女はどうだ)
絶望に打ちひしがれ、涙を溜めながら絞り出したこの「はい」は、どんな計算高い女の誘い文句よりも、俺の獣心を狂おしいほどに刺激した。
降伏の証であるはずのその声が、俺には「もっと壊してくれ」という誘惑にしか聞こえなかった。
「……その返事、俺を誘っているのか?」
意地悪く囁き、紬の耳たぶを甘く噛む。その静かな絶望と、かすかな吐息の熱が。
それこそが、俺の完全な所有物になった何よりの証拠だ。
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