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第2章:公の役割(オフィシャル・ロール)
第29話:志保と征一の会合(黒瀬 志保視点)
しおりを挟む深夜の都心、選ばれた人間しか足を踏み入れることを許されない、静寂に包まれた会員制のバー。
マホガニー・バーの扉の向こうで、私は二十数年ぶりに、征一と対面しております。
「……お久しぶりですわね、征一さん。相変わらず、その冷淡な顔は少しも変わっていらっしゃらない」
五十六歳になられた神谷 征一。かつて私が命懸けで愛したその人は、今はただの、冷徹な仮面を被ったくたびれた経営者として私の前に座っております。
二人の間に流れるのは、かつての熱情の欠片もなく、ただ、私を絶望の淵へ追い捨てた彼への、殺意が解けぬまま。二十数年という歳月をかけて熟成されたどす黒い執着という名の因縁だけ。
「何の用だ、志保」
低く、突き放すような声は、昔と変わらない響き。けれど、その無愛想な顔の裏に、かつてないほどの警戒が潜んでいることを、私は敏感に感じ取っておりました。
私は、そんな彼の動揺を愛でるように、マホガニー・バーのテーブルに置かれたグラスをゆっくりと傾け、静かに氷の音を立てた。
そして、優雅に指先を添え、『ジャック・ローズ』の鮮やかな深紅を喉に滑り込ませます。
ジャック・ローズのベースは林檎のブランデー、カルヴァドス。ライムの鋭い酸味の後に、ザクロの甘みが舌に残るこの一杯を、私は昔から愛しておりました。
海外で暮らしていた頃、通い慣れたバーの男たちは、このカクテルの由来について得意げに語って聞かせてくれたものです。
ジャック・ローズは、アップル・ブランデーをベースとする、美しいバラ色から名付けられたという説や、二十世紀初頭に名を馳せた博打打ちのジャック・ローズにちなんだという説。
『ジャック』は男、『ローズ』は女を意味した、二人の出会いという説。
……どれが正解なのか分からないほど彼らが並べる説を、私はいつも冷ややかな微笑で聞き流しておりました。
私にとっての『ジャック・ローズ』は、そんな薄っぺらな物語ではありません。
林檎の雫(カルヴァドス)は、禁断の果実を口にした私。そして、その熱を赤く染め上げ、甘く閉じ込めるザクロは……逃げようとする貴方を絡め取る、私の執着の血。
この一杯は、私と貴方が溶け合い、二度と引き剥がせなくなった姿そのもの。だからこそ、私はこの鮮やかな深紅を、自分の身体の一部にするように愛してきたのです。
私は獲物を追い詰める前の蛇のように、不敵な笑みを浮かべた。
「スターライト企画のご提案が……」
唇から滑り落ちたのは、奈月の大切なご友人三名の入社提案。
香山 涼子、
立花 杏、
野々村 葵。
皆様、何も知らずに奈月を慕い続ける、それは、それは健気な女性たち。
「神谷と黒瀬の融和の印として、私からの推薦という形にしてくださるかしら」
「志保…君は、何を考えているのだ」
「あの子、熱を出されましたでしょう」
「……ああ、佐々木から報告は受けている」
「察知できますわよね?」
征一は不快そうに眉を寄せ、私を睨みつけました。
私の提案が、神谷家の経営を支えるための抗いようのない蜜であり、同時にその奥に鋭い棘を隠していることを、彼は本能で察したのでしょう。
「人事の決定権は、瑛斗にある」
「社長である、あなたが優秀な人材を送り込むことは不自然ではありませんわ」
私が微笑みを崩さずに畳みかけると、征一は右手を額に当て、深く、重い吐息を漏らしました。
かつては自信と傲慢さに満ちていたその指先が、今は迷いを打ち消すように、溢れ出しそうな焦燥を抑えるために、強く眉間に押し当てられている。
(そんな顔をなさるのですね、昔の征一さんらしくないですわね)
征一は今、必死に計算を巡らせているのでしょう。
黒瀬の資金援助という巨大な利と、私が送り込む三人の女という不確定要素。その天秤が、私の指先一つでいかようにも傾くことを、征一は身をもって理解しているのでしょう。
「……条件は」
「条件など。ただ、この三人を適切な部署へ配属していただきたいだけ」
黒瀬と神谷がこれからも最良のパートナーであり続けるために。これは、私からの最後のご挨拶としたいところ。
「……その三人は、君に任せる」
絞り出すようなその声の征一。
彼もまた昔の彼ではない。不快感や嫌悪感、不満、腹立たしさが顔と態度に出るほど、これまでに問題が多くあったことを物語っているようでした。
(ずっと、征一さんは本性を隠していたのでしょうね)
ふと、カウンターの隅に置かれたカレンダーが目に入りました。
この日は、私たちが初めてあの薔薇園で出会った、運命の日。
「征一さん、今日、何の日かご存知」
「何の意味がある?」
「一月九日はとんちの日だそうですわね」
「とんち……?」
「征一さん。意外と察しが悪いのですわね」
私は答えを言わず、ただ優雅に微笑を返すだけにとどめました。
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そして「知」は、知恵。
多角的な視点から物事を捉え、一瞬にして鮮やかな解決策、逃れようのない罠を提示する。
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今の私にとっては、これ以上なく愉悦に満ちた、とんち遊び。
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さあ、瑛斗さん、奈月さん。
あなたたちが、守ろうとしているその幼い愛が。
あなたたちは、どんな顔をなさるのかしら?
闇の中へと去っていく征一の背中を見送りながら、私は最高に美しい黒瀬 志保の微笑みを贈った。
(つづく)
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