歩く15億の花嫁~契約婚約から始まるオフィス・シンデレラ~

YOR

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第2章:公の役割(オフィシャル・ロール)

第32話:神谷家バージョンへ、インストール

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ランチを終え、オフィスに戻るエレベーターの中。
志保と親友たちの背中を見送った後、私は副社長室へと向かった。
扉を開けると、デスクで書類に目を通していた瑛斗が、ふっと顔を上げた。

「胃もたれ、してないか」

その問いに、私は何を意味しているのか、分からなかった。まさか、だけど瑛斗は志保が用意した高級フルコース料理を食べ過ぎていないかを心配しているのか。

(まさか~)

それとも、志保が私の大切な親友をガラの調味料に変えて差し出したことを、瑛斗は見抜いているのか。

(胃もたれどころか、胸が焼けるように痛い)

正直、瑛斗の前では平静を装ったけど、心の中は本当にぐちゃぐちゃ。

私が神谷家の許嫁になり、ゲスト棟に住むことになったあの日、そう、平凡な日常が終わった日。

確かに、チャットで、杏は「少女漫画?何それ!」とはしゃいでくれていた。

涼子は「相手、怖い人じゃないよね?」と自分のことのように心配してくれた。

葵だって、冷静に「詳細を送れ」と、彼女なりの関心を示してくれていた。

詳細を送るよりも、グループ通話した方が早いと思って、通話もしている。
あの時のグループチャットの言葉も通話の言葉も、全部嘘だったのか。
それとも、私が「今日からスターライト企画に出勤」とチャットを送ってから、連絡を絶ってしまったことで、彼女たちのプライドを傷つけたのだろうか。

(どこでボタンを掛け間違えたのか)

親友たちの口から放たれた、おつむが弱い、お荷物、身売りの言葉は、いくら前向きに考えても、私の頭の中から消えてはくれなかった。

杏も涼子も葵も。

彼女たちの中で私という友達の優先順位が下がってしまった。今は、そう思うことでしか、前に進めない気がした。悲しむのは、後でいい。今は……戦う準備をしなきゃ。

「奈月!」

遠くで名前を呼ばれた気がした。

「奈月!聞いているのか」

強い声に肩を揺らされたような感覚、ハッと顔を上げる。目の前には眉を寄せ、心配そうな瞳で見つめる瑛斗の顔があった。

「……あ、……はい」

「考え事か」

私は慌てて表情を取り繕ったが、瑛斗の目は誤魔化せないだろう。

「瑛斗さん。日高さんに相談したいことが……」
「副社長室に呼んでもらえますか」

「分かった」

瑛斗は、すぐに受話器を手に取り、日高へ連絡を入れた。

数分後。

「失礼いたします」

日高が、副社長室に入ってきた。

「隣の部屋を使え。今は予備の資料置き場にしている。机と椅子はある」

私は日高を伴って、その部屋へと移動した。
小さな空間。
志保の監視の目も届かない。

日高は扉を閉めると、私に向き直って深々と一礼した。

「よほどの緊急事態とお見受けしますが、どうされましたか」

私は机を指先でなぞり、ゆっくりと顔を上げた。

「日高さん。私を、今週末のガラまでに完璧な神谷の女に仕立て上げてほしいのです」

「……完璧な、ですか」

日高は、礼儀作法だけではなく、相手を無言で平伏させる格、ガラの出席者全員の顔と名前、資産背景、表には出さない相手の弱点までも、残り三日で叩き込むと言った。

普通なら絶望するような量。でも、勉強は苦手だけど、暗記力・集中力に関して、誰にも負けない自信はある。

私は幼い頃、そろばんに熱中していた時期がある。画面に次々と表示される数字を瞬時に読み取り、頭の中のそろばんを弾くフラッシュ暗算。あの時培った、一瞬の集中力と映像記憶の能力は、今も私の身体に眠っているはず。

「日高さん。資料を全て覚えます。」

日高は少し意外そうに眉を上げた。
すぐにタブレットを開き、私の前に置いた。

「私が、二十代の時から集めたデータです。これを三日で、覚えられますか?」

「はい。……ところで、日高さん」

画面に並ぶ膨大な文字情報をスキャンするように見つめながら、私はふと気になっていたことを口にした。

「日高さんって、おいくつなのですか?美月ちゃんを、何歳の時の子なのですか?」

日高は、予想外の質問に一瞬だけ戸惑った顔をした。

「……今は、私の年齢より、この数字を覚える方が先決かと。……四十二です。美月は、私が三十の時に授かった子です」

「四十二……」

正直、もう少し年上だと思っていた。以前、ボディガードの桐谷をお姉さんと呼んで日高を怒らせたこともあったけれど、今は、そんなことを思い出している場合ではない。

「美月ちゃんは、十二歳くらいですかね?モデルを目指していてメイクもすごく上手でしたね」

「ええ。最近はさらに拍車がかかって、鏡の前で私を捕まえては練習台にしようとする始末です。……さて、無駄話はここまでです」

日高は眼鏡を押し上げ、怖い教育者のような顔に戻った。

「望むところです」

私はタブレットの画面に視線を戻した。

水野奈月から神谷奈月をインストールする作業。

(おつむが弱いなんて、もう言わせない)

物置部屋の小さな電球の下、タブレットをスライドさせる。
名前、顔、資産、家族構成、裏の顔。
その光景を扉の隙間から、瑛斗が静かに見守っていた。

「……日高さん。この、四十五番の方」

私の指が、タブレットの一箇所で止まった。

「……はい、不動産会社の役員、加藤氏ですが。何か?」

日高が不審そうに覗き込む。

私は画面をスクロールしながら、違和感の正体を言葉にする。

「この方だけ、不自然なんですよ」

「と、言いますと」

「資産状況と、最近の投資先のバランスが合っていないようで」

日高にどう表現したらいいのか。

暗記ならできる。ただ、頭の中にあるそろばんでは、この数字は弾かない。まるで……誰か別の人間の資金を、自分の名前で動かしているような数字の並びだった。入ってくるお金と出ていくお金の比率が、不自然に歪んでいる。

「……気持ちの悪い数字の並びなんですよ。日高さんどう思います?」

私がそう呟くと、日高の動きが止まった。眼鏡を指で押し上げ、私の指摘した箇所を見た。

「……驚きましたね。まだ疑惑の段階で伏せておいた案件です。この数分で気づいたのですか」

「この人に会ったことありますか?」

日高の口元に、今日一番の深い笑みが浮かんだ。

「素晴らしい。……神谷の女に向いているかもしれないです。それでは、予定を変更しましょう。この男の背後にいる人物まで、今夜中に叩き込みましょう」

日高の言葉に頷きながらも、ふと時計を見ると定時の十八時を回っていた。

「日高さん、定時なので今日はここまで」

私はタブレットを閉じ、日高の返事を聞かず、物置部屋の扉を開けた。
副社長室にいる、瑛斗が「もう終わったのか」と声をかけてきた。

私は「定時ですので、お先に失礼します」と勢いよく副社長室を退出する。

瑛斗の視線を背中に感じながら、一人エレベーターに乗り込んだ。鏡に映る自分の顔は、少し前よりも引き締まって見える。けれど、一階に着いて扉が開いた瞬間、私の心臓は嫌な音を立てた。

ロビーに、杏たちがいた。

(……どんな顔をして、話しかければいいんだろう)

一瞬、足がすくんだ。でも、私たちは親友だったはずだ。ランチの時の言葉だって、何か理由があったのかもしれない。

「杏!涼子、葵!」

努めて明るい声を出して駆け寄った私に、彼女たちは一斉に冷ややかな視線を向けた。

「……ちょっと、大声で呼ばないでよ」
杏が、周囲を気にするように眉をひそめた。

「TPOくらい考えてくれない?」
涼子が追い打ちをかけるように溜息をつく。

かつては笑い合えた私の呼びかけが、今は恥ずかしいものとして扱われる。

葵は何も言わず、ただ私を一瞥し、スマホに目を戻した。

(無言が一番、きついな)

「……ごめん。ただお疲れ様、って言いたくて」

「じゃあね」

背を向けて歩き出す彼女たちの後ろ姿は、昼間よりもずっと遠く感じられた。

私は、心の中で「また、明日」と呟いた。握りしめた拳に力を入る。胸の痛みはまだ消えない。
今週末、ガラの会場で。完璧な姿で前に立ってみせる。

私は、彼女たちとは逆の方向へ、迷わず一歩を踏み出した。

会社の玄関を出ると、冷たい夜風が火照った頬を撫でる。

俯きそうになるのを堪えて歩き出そうとした時、目の前に一台の漆黒の高級セダンが静かに滑り込んできた。

後部座席の窓がゆっくりと開き、聞き慣れた声が響く。

「奈月ちゃん!」
「……そんなに泣きそうな顔して、どうしたの?」

「蓮、さん……」

志保の息子だけど、性格は全く正反対。この会社で唯一、私に裏表なく接してくれる蓮だった。

「乗って。送るよ」

「大丈夫。私も…」

言いかけて、私は足を止めた。今日は、日高も桐谷も、そして、私専属の運転手も別の用事で迎えがない日。この会社に来て初めて、一人で電車に乗って帰る、特別な日だったことを忘れていた。同じゲスト棟に住んでいるのだから、遠慮する必要もないか。

「あ、蓮さん、お願いします」

運転手が素早く降りてドアを開ける。今の私には、一人で電車に乗る気力は残っていなかった。私は吸い込まれるように、蓮の隣に身を沈めた。
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