歩く15億の花嫁~契約婚約から始まるオフィス・シンデレラ~

YOR

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第2章:公の役割(オフィシャル・ロール)

第33話:甘い共犯者

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高級セダンのドアが閉まった瞬間、都会の喧騒が嘘のように消えた。

車内には、蓮のものだろうか、爽やかなシトラスと微かなバニラが混ざったような香りが漂っている。

「……お疲れ様。本当に、ひどい顔だよ。奈月ちゃん」

隣に座る蓮が、困ったように笑いながら、私の頬を指先で軽くついた。その温もりに、張り詰めていた糸がふっと切れるのを感じた。

「そんなに、酷い顔しているかな」

蓮は、前を向いて静かに言った。

「今日、志保さんと『シェ・マリー』に行ったでしょう。新人三人も一緒に」

蓮の問いに、私は小さくうなずいた。志保のことは、ここでは言わない。実の息子である蓮に、母親のやり方が酷いなんて愚痴をこぼすのは、私の立場ではしてはいけないことだと思ったから。

「……友達と、上手くいかなくて」

私は視線を落とし、絞り出すように言った。

「友達?あの、はしゃいでた三人?」

「……あんな顔、見たことなかった」

どんな酷い言葉を投げつけられたのか、本当は誰かに聞いてほしかった。けれど、一度言葉にしてしまえば、それが動かしようのない現実として確定してしまう。だから私は、この場にふさわしい、一番端的な悲しみだけを伝えた。

蓮は重ねた手に少しだけ力を込め、私の顔を覗き込んだ。

「……そっか。そうしたらさ、どっちが孤独か話してみない?」

「何それ……?」

思わず聞き返すと、蓮は自嘲気味に口角を上げた。

「僕は神谷の息子だけど、外では『黒瀬』を名乗らなきゃいけない。……そんな僕に、本当の意味での友達なんて一人もいないよ。みんな、僕の背後にある神谷の影か、あるいは神谷になれない僕の滑稽さを見に来るだけだ」

初めて聞く、彼の本音。いつも余裕そうに見える蓮の横顔に、拭いきれない孤独の色が混じっている。

私と同じ、あるいは私以上に、彼はこの家の中で自分という場所を失っているのかもしれない。

「だから、奈月ちゃん。僕にとって、君だけが唯一の……」

蓮は言葉を切り、私の手に重ねた指を絡ませた。まるで、一人にしないでと誓うように。

「ねぇ、前に送った、逃げたい?それとも憤る?の、答えは出た?」

「……まだ、分かりません。誰に怒ればいいのかも」

「いいよ、今はそれで。でもね……」

蓮は私の髪を一房指で掬い上げ、耳元に顔を寄せた。

「逃げるなら、僕を選んで。憤るなら、瑛斗を利用して。……僕としては、君が美しく燃え上がる姿を見てみたいけどね」

蓮の瞳が、暗い車内で怪しく光る。

それは救いの言葉のようでもあり、私という存在を自分の欠落を埋めるために飲み込もうとする、静かな執着のようでもあった。

(ゾッとした)

「奈月ちゃん……着いたよ」

不意に車が止まり、蓮はいつもの柔らかな表情に戻った。

「あ、奈月ちゃんの親友たちのこと、あまり気にすることないよ。……おやすみ」

最後に一度だけ、私の頭を優しく撫でる。

(恐怖なのか、それとも、蓮に心をよせてしまっているからなのか)

私は、蓮の運転手にお礼を言って車を降りる。

蓮は「奈月ちゃん、ガラの日は僕の傍にいるといいよ」と言いながら、一緒にゲスト棟へ歩みを進めた。

途中で、歩みを止めた私。
蓮が振り返り「今の君には、僕しかいない。そうでしょ?」と優しい声で言った。

「……そう、かもしれませんね」

私は、瑛斗と距離を縮めることができたと思っていたのに。
今は蓮の優しさに身を任せるしかないのかもしれないと、優柔不断な自分が増長していくのを感じていた。

日高から教わった加藤という男性。あの不気味な数字の並びさえ、今は少し遠いことのように感じられる。バラバラだったパズルが、明日からの三日間で、一つの「形」になろうとしていた。

その時、エントランスの影から、一人の人影がゆっくりと姿を現した。

「あら。ずいぶん仲が良いのね、あなたたち」

「……叔母さん。ご無沙汰しております」

蓮の声が、わずかに強張る。

そこに立っていたのは、神谷冴子。
瑛斗さんの実母であり、この神谷家の正妻として長年、社交界の華として君臨してきた女性だ。

五十二歳とは思えない美貌。

「……こんばんは」

私が慌てて頭を下げると、冴子はゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。彼女の視線は、私の隣に立つ蓮を一瞥し、すぐに私へと向けられる。

「蓮、あなたはもう戻りなさい。奈月さんと少しお話ししたいことがあるの」

「……わかったよ。叔母さん。じゃ、奈月ちゃん。おやすみ」

蓮は私の肩に手を置き、去っていった。

冴子は私の顔をじっと見つめる。

「奈月さん。あなたは瑛斗の許嫁ですわよね。……何を吹き込まれているか知らないけれど、立場を弁えなさい」

「え……?」

「神谷家を背負うものとして」
「それと、蓮にあまり深入りしないこと。あの子は、自分を捨てたこの家を、瑛斗を、心の底では決して許していないはず。優しさの裏に何を隠しているか、あなたには分からないでしょうけど」

冴子の言葉に、先ほど車内で蓮が見せた怪しい光(目)が浮かんだ。

「……それに、今度のガラ。奈月さんは、どう考えていらっしゃるの?」

冴子の指が、私の顎を軽く持ち上げる。

私の顔を右へ左へと向けさせ、まるで競売にかけられた家畜を品定めするように見つめる。

「神谷の看板に泥を塗るようなことだけは、絶対に許しませんからね」

私は、何も言えなかった。
氷のように冷たい手。
つららのようにポタポタと一滴ずつ言葉を落とし、じっくりと相手を追い詰めていく言い回し。

「瑛斗の母である私の味方でいるべきね。そうすれば、神谷の正妻としての座は守ってあげるわ」

瑛斗さんの母が言っている意味が、今の私には全く分からなかった。

……いいえ。私の味方になれというその言葉は、志保の前に立たされる、冴子のための的になりなさいという意味なのだろうか。

日高のタブレットに書いてあった。志保と冴子。

神谷征一を巡り、長年火花を散らしてきた二人の女性。

(……私は、誰を信じればいい)

親友を失い、軍師日高に鍛えられ、蓮に誘惑され、そして今、冴子に囲い込まれる。

四面楚歌の状況の中、私はただ、夜の闇に呑み込まれそうになっていた。
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