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第一章:内侍の禁忌
第1話 (1-2):月影宮・月影貴妃
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門の奥には、朱鷺色の華やかな衣装を纏った二人の侍女が立っていた。
私を見るなり、二人は目を見開く。
「まあ、生きた人間が……」
明溶――元王妃付きの侍女だったと記録にある人物だ。
その声は冷たく、衣装は十年前どころか“古物”の域に近い様式。よく保存されていると言うべきか、時が止まっていると言うべきか。
私が声をかけようとした瞬間、背後で門が、ひとりでに重く閉じた。見事なまでの逃げ道封鎖である。
「ようこそ、月影宮へ。さあ、奥へ。主がお待ちかねです」
清溶が微笑んだ。
その微笑みは優しいのか、ただ単に“これから起こることを知っている顔”なのか判断がつかない。こういう曖昧な表情、後宮では大抵良くない前兆だ。
二人の視線が玉座の方へ向く。
長く引きずる十二単衣の裾だけが見え、座している者の顔は影に隠れていた。
(玉座で待っている……いや、待っていた“らしい”。ということは、これは歓迎……なのか?いや、たぶん違うだろう)
そのとき、宮殿の隅――帳場と思しき場所から声がかかった。
「お待ちください、清溶。急ぎすぎてはいけませんね」
内管の服装をした男が、ゆっくりと歩み出てきた。くすんだ朱鷺色の官服。絹のはずなのに光を通すほど薄く見え、刺繍の金糸は色褪せている。
一目見てわかった。彼もまた、この十数年前に後宮から姿を消したはずの人物だ。
つまり――
(全員“記録上はもう存在しない”わけか)
灯籠の淡い光を手に、俺――夜鷹は、目の前の男を見据えた。
この宮の内管を名乗る男は、場違いなほど穏やかな笑みを浮かべている。
「私は土岐と申します。この宿の支配人をしております」
支配人、とはまた妙な肩書きだ。幽霊屋敷に管理職がいる、というだけで既に理不尽の極みだが、もはや驚く体力もない。
「あなたは……何者で、ここは一体……」
問いながら、俺は灯りを握る手の汗を意識した。
いや、汗ではないかもしれない。この宮に入った瞬間から、体温らしいものがどこかへ消えている。
土岐は俺の体を撫でる空気――“生きている匂い”にほんのわずか眉をひそめた。
「ここは、満月の夜にだけ辿り着く救済の場」
その言葉が落ちる瞬間、背筋を滑る冷気が、ただの夜風ではないことを悟った。
救済。字面だけ見れば柔らかいが、実体はどう考えても死者寄りだ。
(……ということは、何だ。この石段を上る途中で、俺はとうに死んだ――そういうことか?)
念のため、自分の胸元に意識を向ける。血の巡りは感じられない。代わりに泥水のような冷えが内側に溜まっている。だが、胸だけは規則正しく鼓動していた。
生者なのか亡者なのか、自分が一番わからないという有様だ。
門番も、老宦官も、俺を見るなり青ざめて首を振っていた。どうやら、生きている人間は本来ここには――来られない。魂だけが吸い寄せられる、いわば亡者の宿。
(つまり俺が“連れ戻せ”と命じられたのは、肉体持ちではなく魂のほう?)
王命にしては抽象的にもほどがある。病に臥せる王の枕元で、誰かが意図的にその言葉を引き出した。常軌を逸した命だが、常軌などとうに壊れているのが今の王宮だ。
だが、最大の疑問が残る。
――亡者しか辿り着けぬ宮に、どうして俺は門を素通りできたのか?
王命によって道が開いたのか。それとも俺の背後で、王よりも厄介な“何か”が、この宮に俺を押し込んだのか。
嫌な予感というものは、得てして的中するもの。特に、当人の望まぬ方向へ正確に。
俺は灯りをひと握りし、土岐を正面から見た。
この男の笑みが、最も信用してはいけない種類のそれだと知りながらも。
すると、長く広い広間に辿り着くと、蝋燭の微かな灯りが、中央の玉座だけを照らしていた。
月影貴妃──この廃宮の主の名である。
見た瞬間、体中の血が凍った。美しいという語では到底追いつかない。王宮の女たちはどれほど飾っていても、時や争いによる陰りが必ずある。だがこの女性にはそれがない。
一瞬の時すら留めたような、完璧な静止。玉で彫った彫像のようなのに、確かに息づいている――そんな矛盾を抱えた美だった。
噂では月の影のように儚いだとか天女の再来だとか、散々持ち上げられていたが、実際に目にすると、儚いどころか、むしろこちらの魂を抜きにくる勢いだ。
長い黒髪は、月夜よりなお黒く沈み、肌は雪のように白く、触れれば溶けるのではと疑うほどだった。
そして、唇だけが不自然なほど紅い。あれでは、妖か毒婦か、どちらかにしか見えない。
香気がこちらまで漂ってくる。
沈水香と龍涎香──高貴な香りに紛れて、ほんのりと血の匂いが混じるのは気のせいだろうか。いや、気のせいであってほしいが。
恐ろしいほどの美貌をまとった彼女は、音もなく歩いてくる。だが、足音はないのに、床板だけはきしむのだ。生きている人間が歩けば聞こえ、霊が歩けば聞こえない──そういう常識は、この宮では通用しないらしい。冷ややかな月光だけで形づくられたような存在だ。
内侍として鍛えた心は、必死に感情を否定しようとしたが、胸の奥のどこかに、鋭い氷の棘が刺さった。
これは……恋慕などという生易しい言葉すら追いつかない。
そのとき、貴妃は紅い唇を微かに動かした。
「そなたが、王命を帯びた生者か。顔を上げよ、夜鷹」
言われた通り顔を上げたものの、心臓は落ち着かない。
この宮には、ろくなものが出てこない――そんな予感だけは当たるらしい。
(つづく)
私を見るなり、二人は目を見開く。
「まあ、生きた人間が……」
明溶――元王妃付きの侍女だったと記録にある人物だ。
その声は冷たく、衣装は十年前どころか“古物”の域に近い様式。よく保存されていると言うべきか、時が止まっていると言うべきか。
私が声をかけようとした瞬間、背後で門が、ひとりでに重く閉じた。見事なまでの逃げ道封鎖である。
「ようこそ、月影宮へ。さあ、奥へ。主がお待ちかねです」
清溶が微笑んだ。
その微笑みは優しいのか、ただ単に“これから起こることを知っている顔”なのか判断がつかない。こういう曖昧な表情、後宮では大抵良くない前兆だ。
二人の視線が玉座の方へ向く。
長く引きずる十二単衣の裾だけが見え、座している者の顔は影に隠れていた。
(玉座で待っている……いや、待っていた“らしい”。ということは、これは歓迎……なのか?いや、たぶん違うだろう)
そのとき、宮殿の隅――帳場と思しき場所から声がかかった。
「お待ちください、清溶。急ぎすぎてはいけませんね」
内管の服装をした男が、ゆっくりと歩み出てきた。くすんだ朱鷺色の官服。絹のはずなのに光を通すほど薄く見え、刺繍の金糸は色褪せている。
一目見てわかった。彼もまた、この十数年前に後宮から姿を消したはずの人物だ。
つまり――
(全員“記録上はもう存在しない”わけか)
灯籠の淡い光を手に、俺――夜鷹は、目の前の男を見据えた。
この宮の内管を名乗る男は、場違いなほど穏やかな笑みを浮かべている。
「私は土岐と申します。この宿の支配人をしております」
支配人、とはまた妙な肩書きだ。幽霊屋敷に管理職がいる、というだけで既に理不尽の極みだが、もはや驚く体力もない。
「あなたは……何者で、ここは一体……」
問いながら、俺は灯りを握る手の汗を意識した。
いや、汗ではないかもしれない。この宮に入った瞬間から、体温らしいものがどこかへ消えている。
土岐は俺の体を撫でる空気――“生きている匂い”にほんのわずか眉をひそめた。
「ここは、満月の夜にだけ辿り着く救済の場」
その言葉が落ちる瞬間、背筋を滑る冷気が、ただの夜風ではないことを悟った。
救済。字面だけ見れば柔らかいが、実体はどう考えても死者寄りだ。
(……ということは、何だ。この石段を上る途中で、俺はとうに死んだ――そういうことか?)
念のため、自分の胸元に意識を向ける。血の巡りは感じられない。代わりに泥水のような冷えが内側に溜まっている。だが、胸だけは規則正しく鼓動していた。
生者なのか亡者なのか、自分が一番わからないという有様だ。
門番も、老宦官も、俺を見るなり青ざめて首を振っていた。どうやら、生きている人間は本来ここには――来られない。魂だけが吸い寄せられる、いわば亡者の宿。
(つまり俺が“連れ戻せ”と命じられたのは、肉体持ちではなく魂のほう?)
王命にしては抽象的にもほどがある。病に臥せる王の枕元で、誰かが意図的にその言葉を引き出した。常軌を逸した命だが、常軌などとうに壊れているのが今の王宮だ。
だが、最大の疑問が残る。
――亡者しか辿り着けぬ宮に、どうして俺は門を素通りできたのか?
王命によって道が開いたのか。それとも俺の背後で、王よりも厄介な“何か”が、この宮に俺を押し込んだのか。
嫌な予感というものは、得てして的中するもの。特に、当人の望まぬ方向へ正確に。
俺は灯りをひと握りし、土岐を正面から見た。
この男の笑みが、最も信用してはいけない種類のそれだと知りながらも。
すると、長く広い広間に辿り着くと、蝋燭の微かな灯りが、中央の玉座だけを照らしていた。
月影貴妃──この廃宮の主の名である。
見た瞬間、体中の血が凍った。美しいという語では到底追いつかない。王宮の女たちはどれほど飾っていても、時や争いによる陰りが必ずある。だがこの女性にはそれがない。
一瞬の時すら留めたような、完璧な静止。玉で彫った彫像のようなのに、確かに息づいている――そんな矛盾を抱えた美だった。
噂では月の影のように儚いだとか天女の再来だとか、散々持ち上げられていたが、実際に目にすると、儚いどころか、むしろこちらの魂を抜きにくる勢いだ。
長い黒髪は、月夜よりなお黒く沈み、肌は雪のように白く、触れれば溶けるのではと疑うほどだった。
そして、唇だけが不自然なほど紅い。あれでは、妖か毒婦か、どちらかにしか見えない。
香気がこちらまで漂ってくる。
沈水香と龍涎香──高貴な香りに紛れて、ほんのりと血の匂いが混じるのは気のせいだろうか。いや、気のせいであってほしいが。
恐ろしいほどの美貌をまとった彼女は、音もなく歩いてくる。だが、足音はないのに、床板だけはきしむのだ。生きている人間が歩けば聞こえ、霊が歩けば聞こえない──そういう常識は、この宮では通用しないらしい。冷ややかな月光だけで形づくられたような存在だ。
内侍として鍛えた心は、必死に感情を否定しようとしたが、胸の奥のどこかに、鋭い氷の棘が刺さった。
これは……恋慕などという生易しい言葉すら追いつかない。
そのとき、貴妃は紅い唇を微かに動かした。
「そなたが、王命を帯びた生者か。顔を上げよ、夜鷹」
言われた通り顔を上げたものの、心臓は落ち着かない。
この宮には、ろくなものが出てこない――そんな予感だけは当たるらしい。
(つづく)
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