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そして、警戒しながらも、速い動きで後ろを振り返った。
そこには、口からだらだらと唾液を垂れ流す醜悪な姿をした"何か"がいた。
「…………何?」
それの皮膚は腐り緑に変色し、目なんかは黒く濁っている。当然衣服は纏っていないし、髪なんて生えていない。
だが、形はどうみても、「人間」か、それに似た生物のようだ。
二本の足で立ち、二本の腕があり、それぞれにはきちんと五本ずつ指がある。
「グァあアあ……! ウグァあぁアァ!!」
それは、おぞましい唸り声を上げた。
だが、トエイに怯える様子は見受けられない。幾ら竜といえど、今までアインとルピナスに守られ生活してきた少女が、どうしてそんなに落ち着いた瞳をしているのだろうか。
「ニンゲン……にンげん…………」
それは人間、人間と繰り返し唸る。唸りながらも腐った体を引きずり、大地を体液で汚しながらトエイにゆっくりと近づいてきた。
トエイは、後ずさることはしなかった。
その翡翠の瞳の奥で、何を感じたのだろうか。
何を悟ったのだろうか。
静かに両手を水平に前に広げて伸ばすと、その醜悪な生き物に向かってこう言った。
凛とした瞳とは対照的に、ひどく震えた声で。
「ごめん、あたしまだ死ねない…………」
トエイがそう言った次の瞬間だった。
醜悪な生き物の足元に、水色に輝く円環が現われた。そして空間が一瞬白んだかと思うと、碧い清流が悪魔の体を頭から爪先まで閉じ込めるように包んだ。
円柱の清流に包まれた悪魔は、奇怪な声で苦痛を訴える。
だが、トエイの放った清流は流れを止めない。その体が、段々と小さく細くなっていくのが分かった。
しかし彼女にとってそれは不本意な攻撃だった。
命を奪うなど、水竜である彼女には、例え何が相手でも気が辛かった。
トエイは、拳を更に強く握り締めた。しかし、
「ウグぁああアあアアア!!!」
最期の力を振り絞ったのか、異形は清流の中から無理矢理飛び出し、トエイに襲いかかってきたのだ。
驚いたトエイは後ろによろめき、不覚にも隙を作ってしまう。
殺意を持った悪魔は彼女の髪を素早く掴み、宙吊りにした。
「っあ……!」
「イタイ……痛イ……? 痛いイタイ痛イ!!」
トエイはきつく口を結び、苦痛に耐える。
異形はトエイの顔をなめるように見つめた後、その空いた片手をトエイの首に遣った。
――殺される……!
トエイの目尻から、すうっと涙が零れた。
その時だった。
「トエイ!!」
名を呼ばれ、トエイの瞳がより大きく開かれた。
そしてその声の主を把握する前に、彼女の視界に銀色の刄が飛び込んできて、異形に太刀を浴びせた。
異形は首と胴体の二つに分かれ、鈍い音を鳴らして地面に転がった。不思議な事に、切口からは血液ではなく黒い煙が噴出されていた。
かと思うと、数分も経たないうちにその身は砂となり消えてしまった。
解放されたトエイは咳払いをして呼吸を整えながら、目の前の人物に笑顔を向けた。
「…………ヘリ……オス」
「時々現れる。何かはわからんが、大陸の向こうにいるという化け物が綿ってきたのかもしれない。……それより、お前は何故こんなところにいるんだ」
「ヘリオス…………こそ。ケホッ」
ヘリオスはその手に持った剣を鞘にしまうと、トエイの正面に立ち怒りに満ちたような強い声を上げた。
「死ぬところだったんだぞ! 分かっているのか!?」
「分かってるよ…………」
「分かっていないだろう! 不用心すぎるぞお前は! この前も…今日も! 一体何をしにここへ―――」
「……だって、貴方に会いたかったんだもん…………」
わざと遮るかのように、トエイは言葉を発した。
そして、懇願するような瞳を彼に向けた。
そのあまりに真っすぐで透き通る声に、ヘリオスは口籠もった。
「会いたかったの」
トエイは再度、言葉を繰り返す。
「何を……」
「会いたかったの。また此処に来れば会えるかなって思たから。どうしても、貴方に会いたかっただけなの」
夜の闇に言葉を響かせるトエイ。
彼女の言葉はその心の内をそのまま現している。飾りもせず、そのままを。
「俺に……?」
ヘリオスは困惑した。
彼には彼女の言っている意味が理解出来ないのだ。
忌み嫌われ、人から一歩離れて生活してきた彼は、心から求められるということに対してひどく無知なのだ。
だが、彼の鼓動はその意志とは無関係に、勝手に高鳴った。
「ヘリオス」
トエイの瞳は、湖の深い碧を反射していてとても美しい。白銀の髪は夜風に揺れ、桜色の唇から言葉が紡がれる。
ヘリオスはその彼女の世界に引き込まれたように動けないでいた。
震える指先が彼女に触れようとしているのが分かる。だが、ヘリオスはなんとか理性を保った。
トエイは再会を喜んでいたが、その実複雑だった。
自身は水竜であり、彼は帝王。そしてその帝王は今、血眼になって水竜を探している。
正体を明かせば、この人は私を連れていくのだろうか。そうなれば死ぬまで拘束、と言ったアインの顔が頭の隅に揺らめく。
しかしトエイは、そう考え込むことはなく、素直な気持ちを言葉に変えて伝えた。
「あのねヘリオス。……私は…………貴方に恋というものをしているんだと思う」
「――は」
あまりに直球な問い掛けに、思わずヘリオスは頬を赤く染めてしまった。
対してトエイは、真顔のまま。
いきなり愛の告白を受けてしまったヘリオスは、複雑な表情を浮かべた。
「何を言いだすんだ……」
「……知ってる人が言ってたの。そろそろ私にも、無性に会いたくなる人や、いつも頭から離れない人が出来るって。それは「恋」だって」
「……俺はヘリオスだぞ?」
「ヘリオスだよ」
そんなこと分かり切っている。トエイはその意味も含めて少し不機嫌に答えた。
「……俺は……」
「ああ、なんだか凄く嬉しい」
「え?」
ヘリオスの言葉をまたもや遮り、トエイは明るい笑顔を見せた。
その表情の意味が分からないヘリオスは、ひどく困惑した為、改めて問い掛けた。
「何がだ」
「だって、なんで私こんなにヘリオスに会いたかったのか。今その意味を知ることが出来たんだもん」
「……それだけで?」
「うん。今、私なんだかすごく幸せな気持ち。こんな気持ち今まで知らなかった。恋って、こういう意味なんだね」
彼女の言葉は、ヘリオスには理解しがたかった。
彼とて王。今まで、その地位や財産やらを目当てに言い寄ってきた女はそれなりにいた。
そう、どの女性も決まって自分を好きだと、愛してると言う。だが、彼女等はその後決まってこう言う。
"貴方は? 貴方はどうなの? 私をどう思う?"
むせ返るようなムスクの香り。それから、ヘリオスは女性に対して僅かながら嫌悪感を抱くようになった。
なんと欲深い。なんと自己愛の強い。見返りを求め、得られなければ被害者にすり替わる。
正直、「恋」だの「愛」だのにはうんざりしていたのだ。
だが、どうだ。目の前のこの少女。自分を「好き」だと知れただけで喜んでいる。
その後に何も言葉を続かせてこない。
だが、まだ信用出来ない。ヘリオスは、傷つけることを承知の上で、試すかのような言葉をぶつけてみた。
「……俺は、お前を好きとは言っていない。わかっているな?」
「え?」
ほら、やはりな。
少女は瞳をぱちくりとさせている。期待はずれだったな。
「やはり同じか」と、ヘリオスは諦めたような息を吐いた。だが、
「ヘリオスは私を好きにならなくちゃいけないの?」
「……は?」
意外なその言葉に、彼は気の抜けた声を出してしまった。
「ヘリオスは、あたしにこの湖を教えてくれた。悪魔から助けてくれた。……その鋭い瞳も、ずっと見ていたくなる。だから、好き。そう思うのはいけないこと?」
「な……いや……」
「こんなに嬉しい気持ち、あたし初めて」
そう言うとトエイは、清らかな翡翠の瞳の目尻を下げた。
全てを包みこむような微笑みは、水竜故の優しさから表れるものなのか。
「……俺に、見返りは要らないと?」
「見返り?」
トエイは首を傾げる。意味は知っているだろうが、今この状況で何故その言葉が出てきたのか理解に苦しんでいる。
そんな彼女を見て、ヘリオスはもう笑うしかなかった。
――無垢。きっとこの少女、どんな世界に迷い込んでも、このままの自分を保ち続けれるのだろう。
そこには、口からだらだらと唾液を垂れ流す醜悪な姿をした"何か"がいた。
「…………何?」
それの皮膚は腐り緑に変色し、目なんかは黒く濁っている。当然衣服は纏っていないし、髪なんて生えていない。
だが、形はどうみても、「人間」か、それに似た生物のようだ。
二本の足で立ち、二本の腕があり、それぞれにはきちんと五本ずつ指がある。
「グァあアあ……! ウグァあぁアァ!!」
それは、おぞましい唸り声を上げた。
だが、トエイに怯える様子は見受けられない。幾ら竜といえど、今までアインとルピナスに守られ生活してきた少女が、どうしてそんなに落ち着いた瞳をしているのだろうか。
「ニンゲン……にンげん…………」
それは人間、人間と繰り返し唸る。唸りながらも腐った体を引きずり、大地を体液で汚しながらトエイにゆっくりと近づいてきた。
トエイは、後ずさることはしなかった。
その翡翠の瞳の奥で、何を感じたのだろうか。
何を悟ったのだろうか。
静かに両手を水平に前に広げて伸ばすと、その醜悪な生き物に向かってこう言った。
凛とした瞳とは対照的に、ひどく震えた声で。
「ごめん、あたしまだ死ねない…………」
トエイがそう言った次の瞬間だった。
醜悪な生き物の足元に、水色に輝く円環が現われた。そして空間が一瞬白んだかと思うと、碧い清流が悪魔の体を頭から爪先まで閉じ込めるように包んだ。
円柱の清流に包まれた悪魔は、奇怪な声で苦痛を訴える。
だが、トエイの放った清流は流れを止めない。その体が、段々と小さく細くなっていくのが分かった。
しかし彼女にとってそれは不本意な攻撃だった。
命を奪うなど、水竜である彼女には、例え何が相手でも気が辛かった。
トエイは、拳を更に強く握り締めた。しかし、
「ウグぁああアあアアア!!!」
最期の力を振り絞ったのか、異形は清流の中から無理矢理飛び出し、トエイに襲いかかってきたのだ。
驚いたトエイは後ろによろめき、不覚にも隙を作ってしまう。
殺意を持った悪魔は彼女の髪を素早く掴み、宙吊りにした。
「っあ……!」
「イタイ……痛イ……? 痛いイタイ痛イ!!」
トエイはきつく口を結び、苦痛に耐える。
異形はトエイの顔をなめるように見つめた後、その空いた片手をトエイの首に遣った。
――殺される……!
トエイの目尻から、すうっと涙が零れた。
その時だった。
「トエイ!!」
名を呼ばれ、トエイの瞳がより大きく開かれた。
そしてその声の主を把握する前に、彼女の視界に銀色の刄が飛び込んできて、異形に太刀を浴びせた。
異形は首と胴体の二つに分かれ、鈍い音を鳴らして地面に転がった。不思議な事に、切口からは血液ではなく黒い煙が噴出されていた。
かと思うと、数分も経たないうちにその身は砂となり消えてしまった。
解放されたトエイは咳払いをして呼吸を整えながら、目の前の人物に笑顔を向けた。
「…………ヘリ……オス」
「時々現れる。何かはわからんが、大陸の向こうにいるという化け物が綿ってきたのかもしれない。……それより、お前は何故こんなところにいるんだ」
「ヘリオス…………こそ。ケホッ」
ヘリオスはその手に持った剣を鞘にしまうと、トエイの正面に立ち怒りに満ちたような強い声を上げた。
「死ぬところだったんだぞ! 分かっているのか!?」
「分かってるよ…………」
「分かっていないだろう! 不用心すぎるぞお前は! この前も…今日も! 一体何をしにここへ―――」
「……だって、貴方に会いたかったんだもん…………」
わざと遮るかのように、トエイは言葉を発した。
そして、懇願するような瞳を彼に向けた。
そのあまりに真っすぐで透き通る声に、ヘリオスは口籠もった。
「会いたかったの」
トエイは再度、言葉を繰り返す。
「何を……」
「会いたかったの。また此処に来れば会えるかなって思たから。どうしても、貴方に会いたかっただけなの」
夜の闇に言葉を響かせるトエイ。
彼女の言葉はその心の内をそのまま現している。飾りもせず、そのままを。
「俺に……?」
ヘリオスは困惑した。
彼には彼女の言っている意味が理解出来ないのだ。
忌み嫌われ、人から一歩離れて生活してきた彼は、心から求められるということに対してひどく無知なのだ。
だが、彼の鼓動はその意志とは無関係に、勝手に高鳴った。
「ヘリオス」
トエイの瞳は、湖の深い碧を反射していてとても美しい。白銀の髪は夜風に揺れ、桜色の唇から言葉が紡がれる。
ヘリオスはその彼女の世界に引き込まれたように動けないでいた。
震える指先が彼女に触れようとしているのが分かる。だが、ヘリオスはなんとか理性を保った。
トエイは再会を喜んでいたが、その実複雑だった。
自身は水竜であり、彼は帝王。そしてその帝王は今、血眼になって水竜を探している。
正体を明かせば、この人は私を連れていくのだろうか。そうなれば死ぬまで拘束、と言ったアインの顔が頭の隅に揺らめく。
しかしトエイは、そう考え込むことはなく、素直な気持ちを言葉に変えて伝えた。
「あのねヘリオス。……私は…………貴方に恋というものをしているんだと思う」
「――は」
あまりに直球な問い掛けに、思わずヘリオスは頬を赤く染めてしまった。
対してトエイは、真顔のまま。
いきなり愛の告白を受けてしまったヘリオスは、複雑な表情を浮かべた。
「何を言いだすんだ……」
「……知ってる人が言ってたの。そろそろ私にも、無性に会いたくなる人や、いつも頭から離れない人が出来るって。それは「恋」だって」
「……俺はヘリオスだぞ?」
「ヘリオスだよ」
そんなこと分かり切っている。トエイはその意味も含めて少し不機嫌に答えた。
「……俺は……」
「ああ、なんだか凄く嬉しい」
「え?」
ヘリオスの言葉をまたもや遮り、トエイは明るい笑顔を見せた。
その表情の意味が分からないヘリオスは、ひどく困惑した為、改めて問い掛けた。
「何がだ」
「だって、なんで私こんなにヘリオスに会いたかったのか。今その意味を知ることが出来たんだもん」
「……それだけで?」
「うん。今、私なんだかすごく幸せな気持ち。こんな気持ち今まで知らなかった。恋って、こういう意味なんだね」
彼女の言葉は、ヘリオスには理解しがたかった。
彼とて王。今まで、その地位や財産やらを目当てに言い寄ってきた女はそれなりにいた。
そう、どの女性も決まって自分を好きだと、愛してると言う。だが、彼女等はその後決まってこう言う。
"貴方は? 貴方はどうなの? 私をどう思う?"
むせ返るようなムスクの香り。それから、ヘリオスは女性に対して僅かながら嫌悪感を抱くようになった。
なんと欲深い。なんと自己愛の強い。見返りを求め、得られなければ被害者にすり替わる。
正直、「恋」だの「愛」だのにはうんざりしていたのだ。
だが、どうだ。目の前のこの少女。自分を「好き」だと知れただけで喜んでいる。
その後に何も言葉を続かせてこない。
だが、まだ信用出来ない。ヘリオスは、傷つけることを承知の上で、試すかのような言葉をぶつけてみた。
「……俺は、お前を好きとは言っていない。わかっているな?」
「え?」
ほら、やはりな。
少女は瞳をぱちくりとさせている。期待はずれだったな。
「やはり同じか」と、ヘリオスは諦めたような息を吐いた。だが、
「ヘリオスは私を好きにならなくちゃいけないの?」
「……は?」
意外なその言葉に、彼は気の抜けた声を出してしまった。
「ヘリオスは、あたしにこの湖を教えてくれた。悪魔から助けてくれた。……その鋭い瞳も、ずっと見ていたくなる。だから、好き。そう思うのはいけないこと?」
「な……いや……」
「こんなに嬉しい気持ち、あたし初めて」
そう言うとトエイは、清らかな翡翠の瞳の目尻を下げた。
全てを包みこむような微笑みは、水竜故の優しさから表れるものなのか。
「……俺に、見返りは要らないと?」
「見返り?」
トエイは首を傾げる。意味は知っているだろうが、今この状況で何故その言葉が出てきたのか理解に苦しんでいる。
そんな彼女を見て、ヘリオスはもう笑うしかなかった。
――無垢。きっとこの少女、どんな世界に迷い込んでも、このままの自分を保ち続けれるのだろう。
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