月が導く異世界道中extra

あずみ 圭

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extra59 月が導く異世界道中前日譚 最初の奇跡(後)

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 息吹邸。
 家と表現するよりも、屋敷、いやお屋敷と呼んだ方がしっくりくる日本家屋。
 幾つもの庭があり、渡り廊下を何度も過ぎた離れに二人の人間がいた。
 一人は強烈かつ独特な雰囲気を放つ男性。
 六十を超える高齢でありながら、剥き出しになった上半身は若々しく、鍛えた筋肉で盛り上がっていた。
 表向きは息子に全てを譲って引退した事になっているが、息吹家の実質的な支配者である息吹要いぶきかなめだ。
 座した彼に対面しているのは、正座をして男の体に触れる若い女性。
 こちらは先ほど道に倒れていた男の子を背負っていたカリン=アクサナだった。
 和装だった息吹は女の手が体を離れ、彼女が頷くのを見ると静かに袖を通し着衣を整えた。

「どうかね、儂の体は」

「まったく問題ありませんわ、ミスター息吹。むしろ去年よりも若々しくなっています。素晴らしい体調管理ですね」

「そりゃあカリンちゃんが診てくれるなら、病院なんぞよりも余程楽しいからのう!」

「……好好爺こうこうや然として見せるのは結構ですけど、それは本当の顔を知らない人にやってみせる方がよろしいかと」

 子どものような笑顔を浮かべて笑う息吹に対し、カリンは静かに冷たく言い放った。
 おどけて肩をすくめる息吹。

「やれやれ、相変わらずやりにくいのぉ。ま、こうしてちゃんと診に来てくれているんじゃ。良しとしようかの。で?」

「で、とは?」

「あの坊主じゃ。ぬしが連れて来た」

「道で倒れていた子に、少し仏心を出しただけです。治療をしようにも貴方との約束の時間が近づいていたもので。ご迷惑をおかけしました」

「仏心か。実に似合わん言葉じゃ。何か良い話なら、儂にも聞かせて欲しいものじゃが?」

 情けなど持ち合わせていない女性が仏心を出すような案件ならば要が興味を持たない筈がない。
 何せ今現在、要が最も弱みを握りたいのは眼前の女、カリンだからだ。

「……勿論構いませんわ。ただし二度とお目にかからなくてよろしいなら」

「まったく、二言目にはそうきおる。流石の儂も命を掴まれておってはなあ。ああ、どうにも良くない。参った参った」

 のらりくらりと話す息吹に、癒し手は淡々と応じる。
 一見感情豊かに話している上機嫌の老人と、極力感情を殺して話している不機嫌な女性の温度差がある会話。
 実質はどちらも化かし合いをしているだけ、温度など存在しない会話だった。

「とにかく、これで今回の診断は終わりです。あの子どもについての詮索は無用に願いますミスター」

「わかったわかった。案内させるから連れ帰ると良い。じゃが、一緒におる儂の孫にそんな不機嫌な顔は見せんでくれよカリンちゃん」

 息吹は部屋に引かれた電話を手にして何事かを申し付ける。
 待つ事一分足らず。

「気をつけますわ」

「すぐ案内の者がくるでな。あー儂もカリンちゃんが仏心を出してくれる年頃に戻りたいのー」

「……ご冗談を。それでは失礼します」

「……またの」

 すぐに障子に人影が写り、ことわりの声に続いて引き戸が開かれた。
 廊下に出たカリンは、にこやかに手を振って自分を見送る翁を横目で見ると、一礼して案内役の女性の後に続いた。

(老いて尚、とは彼の事を言うのね。あれでは息吹家の現当主はお飾りに過ぎないでしょう。あれほどの覇気、よくも保ち続けられるものだわ。さっきのは私の能力に鎌をかけたというのでもないでしょうけど……ホント、おっかない爺様だこと)

 カリンは心中で嘆息する。
 野心の強い人物は彼女とて多々見てきているが、その中でも息吹要という老人は格別に強烈な存在だ。
 今日とて彼女が普段になく連れて来た小さな男の子を気にして探りを入れてきた。
 たかだか十五分程の診断中にもあれこれと聞かれて彼女は辟易したものだ。

「お連れのお子様ですが、当家にみえてすぐに気がつかれまして。今は池のお庭でぼっちゃまと一緒におられます」

 単なる世間話のつもりだろう。
 お手伝いさん、いや息吹家の様子を見れば今も女中と呼ぶのが妥当に見える和装の女性が子どもの様子をカリンに伝える。

「目を、覚ましたのですか?」

「? はい。まだお辛そうでしたから縁側で楽に過ごせるよう都合いたしましたが、問題がありましたでしょうか?」

「……いえ。お心遣いありがとうございます」

 カリンは微かな驚きと共に目を覚ましたかと、つい聞き返してしまった。
 彼女が施した眠りは、まだ少なくとも数時間は継続するはずだった。
 それ故の問いだったが、彼女は言葉を続ける事は選ばずただ感謝を口にするだけに留めた。
 本心はいらぬ詮索をされない為にであったが、幸いな事に案内の女性はカリンと会うのは初めてであり、ただ流暢な日本語に感心するだけで何も気にしていなかった。
 だが彼女に話した事、見せた様子は別れて数分もすれば確実に要に伝わる。
 カリンの警戒と判断は正しく、適切だった。

(もう眠りから覚めた? ……思ったよりもまずい状況かしら。あの子、確かにぼろぼろな体ではあったけど今日明日にどうにかなる感じでは無いと見ていたんだけど、少し急いだ方が良いかも)

 カリンの歩調が少しばかり速くなる。
 やや前を歩く女性もそれを察したのか、案内のペースを上げて庭へ向かった。

「なあ、まこと~、ちょっとならでれるだろ~?」

「ん、うん、いけそう」

「ほんとか! じゃあコイつかまえようぜ! きょうのごはんだ!」

「まさむねくん、コイっておいしいの?」

「あらいにするとさいこうなんだぜ! でも、ほれたらまけだからほれさせないといけない。むずかしいんだからな! おじいちゃんがそういってた!」

「ぼくにもできるかな」

「ったりまえだろ! おれとならやれるって!」

 頭の痛くなる会話がカリンの耳に入ってくる。
 心中で、あの糞爺、と息吹老の事を罵りながら顔には笑みを浮かべて二人の子どもの前に姿を見せる。
 傍らに控える女性は、極めて行動的な少年が恐ろしい思いつきを実行する前にここに来られた事にほっと胸をなで下ろしている。

「君は、正宗君ね。初めまして」

「おねえちゃん、おじいちゃんのあたらしいあいじんか!」

「……」

 カリンは正宗君からの返答に言葉を失った。
 現当主は詳しく知らないが、この正宗という少年は間違いなく要の血を継いでいる。
 それも、相当に濃く。
 末恐ろしい、とカリンは素直に思った。

「も、申し訳ございません! ぼっちゃま、こちらの方はお医者様ですよ。要様の健康診断に来てくださったんです」

「おいしゃ?」

「そうよ正宗君。君のお爺ちゃんは凄く元気だった、安心した?」

「おじいちゃんはあとひゃくねんはいきるからおいしゃなんていらないよ!」

「そうね。本当にお元気。だからお姉ちゃんはもう帰るところなの」

「ふ~ん」

「だから、そっちの子ももう帰る時間なの。ごめんね」

「え~!! やだよ、まこととはこれからあそぶんだから!」

「まこと、君は病気なの。だから遊ぶのは元気になってからね」

 連れてきた男児の名を呼ばれた事で、カリンは一瞬驚いた顔をしたがすぐにその名前で男の子を呼ぶ。
 一方正宗少年は病気と聞いて同年代の少年を心配そうに見るとカリンに向き直った。

「……なおせるの? まことのびょうき」

「私は凄いから大丈夫」

「すごいんだ!」

「そう、凄いの。じゃあ、まこと君? おウチに帰ろうか。また倒れちゃうといけないからお姉ちゃんと一緒に帰ろう?」

 差し出された手に、気弱そうな少年はびくりと震えた。
 まともなやりとりでこの屋敷に来た訳では無く、かつカリンの事を記憶してもいない様子。
 知らない人物と認識したのか、僅かに怯えていた。

「……おねえちゃんが、ぼくをここに連れてきてくれたの?」

「そうだよ、道で倒れていて苦しそうだった。病院に連れて行こうと思ったけど、お姉ちゃんもお仕事があったからちょっとここで休ませてもらっていたの」

 それでも、自分が倒れた事くらいはわかっていたのか目の前の女性におずおずと質問する男の子。
 物分りの良い子だ、とカリンは思った。
 或いはこんな事が彼にとっては日常茶飯事なのかもしれないと、憐憫も感じた。

「そっか……」

「まこと、びょうきはむりしちゃだめだからな! なおったらあそびにこいよ、ぜったいだぞ!」

「まさむねくん……。ありがと、ぼくかえるよ。……またね」

「うん、またな!!」

 カリンの手を取った男の子は空いた手で正宗少年に手を振って後ろを見ながら連れられていく。
 大勢の使用人に見送られ、二人は息吹の屋敷を出た。
 遠慮する男の子を押し切り、カリンは彼をおんぶして夕暮れの道を歩く。
 男児の家までの道を彼から聞き出して、おんぶした子の負担にならないようにゆっくりと彼にとっての帰路を進む。
 
「ここだよ、ぼくのうち」

「……深く澄むと書いてミスミ。ミスミ、ミスミ……。私の記憶には無いわね、やっぱり」

 二十分程後。
 カリンは男の子の家に到着する。
 道中聞き出した男の子の名前、深澄真みすみまことの名に出ている表札も一致する。
 彼女は真に少し待つ様に話すと、彼を背から下ろし携帯電話で話し始める。

「ハロー、坂田。お元気? ねえ、私からのコールなんだから一回で出て欲しいわ。ええとね、さっき頼んだ子どもの件だけど……うん、うん。わかった、問い合わせはあったのね、うん。今彼の家の前。これから送り届けるから……ええ、今回は助かったわ。何か困った事があったら言ってね、力になってあげるかも。じゃ、また」

 手短に話を終えるとカリンは真の手を取って呼び鈴を鳴らす。
 鬼が出るか、蛇が出るか。
 彼女は手に汗を浮かべながら真の両親が出てくるのを待った。
 慌ただしい複数の足音が僅かに彼女の耳に届き、玄関のドアが勢いよく開けられたのは間もなくの事だった。

「真!?」

 カリンは出てきた三人を見て息を呑んだ。
 まず目を疑うような美しい女性が飛び出してきてカリンの脇に立つ男の子を抱きしめた。
 次いで出てきた背の高い男性も、昔カリンが読んだ日本の少女漫画から出てきたような美丈夫だ。
 最後にドアの影から顔を出して歩いてきたのは女の子。
 両親とは違う明るい茶色の髪で、思わず悲鳴付きで抱きしめたくなるような完成された幼女だった。
 幼女に完成、とは相応しくない言葉だったが、見た事が無い美しさの芸術的な人形を見ている気分の中でカリンはそう感じていた。
 両親は黒い髪をしているが、どこかその黒髪が似合わぬ二人だ。
 欧風の容姿でありながら、東洋人の若々しさを感じる男と女。
 容姿の成熟が早く、また老いていくのも早いのが白人だと考えていたカリンからすれば彼らは白人と東洋人の良いとこ取りに見える夫婦で。
 感動の対面をしているから家族には違い無いのだろうが、それでもカリンが一瞬来る家を間違えたかと疑う程の美形一家だった。

(ごく普通の日本人の男の子だと思っていたけど、養子なのかしら。驚いた、モデルみたいな一家ね……しかも奥さん、よね? 子どもを二人産んであの身体、後で秘訣を伺っておこうかな)

 表札にあった名前は隼人、霞、雪子、真の四人。
 その中で真だけが、何というか系統が違う。
 しかし魔術という特殊な観点から見て実におかしな特性を持つ子どもだ。
 養子にして引き取る価値だって十分にある。
 だが心の底から子供の帰りを喜んでいるように見える両親の雰囲気に彼女はどうにも戸惑う。
 ある程度予想していた魔術絡み、いわゆる裏社会のドロドロした背景が一切感じられなかったから。
 何より。
 三人を大雑把にたカリンは感嘆した。

(……勘違い、ではないわね。この二人、それに姉らしい女の子も普通の人間の範囲を越えて魔術に素養がある。揃って微弱なのも気になる。私の予想とは違うのかもしれないけれど、何か事情はありそうな雰囲気ね。それに……ということは真君は間違いなく二人の実子。ごめんね、養子とか疑って)

 幾つもの可能性を彼女は頭に思い浮かべる。
 そうしておきながら、ひとしきり息子の無事を確かめた両親からの感謝の言葉に、現地警察が上手く説明してくれていた事を確認すると、カリンは坂田なる知人に密かに礼を言いながら恩人かつ客人として深澄家に招き入れられたのだった。


◇◆◇◆◇◆◇◆


「……い、異世界?」

「ええ」

「信じて頂けないかもしれませんが」

 数時間後。
 カリンは深澄家のリビングで連れて来た男児の両親と対面していた。
 長身で人目を引く美貌の白人女性である彼女、そして対面するのもまたオーディションで選出されたような美形夫婦。
 これだけで映画のワンシーンを想起させる、になる場面だった。
 サングラスを外したカリンがやや間の抜けた声を夫婦に返す様はやや滑稽にも見えたが、彼女の聞いた内容は世界の裏を見てきた経験を経て尚驚きを隠せない大事と言えた。

(信じてと言われてもね。流石に異世界とか、ちょっと意味がわからないわ。フィクションはどれだけ流行したジャンルだって画面からは出てこないものよね? いくら日本でも……ありえないわ)

 深澄隼人はやと、そして深澄かすみ
 二人は、この世界の生まれでは無いと言う。
 それどころか人間ですら無いと。
 人と似て少し異なる、彼らは自分の事をヒューマンだと言った。
 人間、と言う意味の言葉だとカリンは思った。
 しかし違うと彼らは首を振る。
 人間は、ヒューマンという種に比べて格段に優れているのだと話した。
 またもカリンは首をかしげる。
 彼女は密かに対面する二人の魔術素養を調べていた。
 はっきり言って凄い。
 あの男児、真と殆ど変わらず、しかしその力強さは彼を超えている。
 しかもこの容姿。
 言ってはなんだが、ヒューマンは人間の上位種では無いかとさえ思った。
 だが二人は苦笑いしてそれをも否定する。
 元いた世界ではそれなりに戦う事も出来たが、ここでは狼の群れや熊に襲われただけでも死んでしまうでしょうと。

(狼の群れ、熊……。大抵の人が死にそうだけど……どう判断したらいいのかしら?)

 ますます色々な基準がわからなくなってカリンは混乱し、少しの間沈黙する。
 深澄家の家長も、その妻も彼女の沈黙を静かに見守っていた。

「すみません、少し混乱してしまって」

「いいえ。むしろ真剣に受け止めて頂ける方が少ないのでお気になさらず」

「お二人は、少なくとも容姿淡麗、その上魔術の素養も非凡、とても優れているように、その、私には思えますが」

 探りましたとは言わずにカリンは話を再開する。

「容姿、ですか。我々がいた場所ではこの程度は普通だったのですが、こちらは確かに個性的な方が多いですね。初めは亜人との混血が進んだ結果なのかと思いましたが、どうやら違うようですね。人間とは実に多様な容姿を持って生まれてくる種のようで」

「……普通ですか。羨ましい世界ですね。それに魔術、と聞いてもあまり違和感を感じられてない様子。亜人、などという言葉は初めて聞きました」

「ここには魔法、魔術の類は存在しないと思っていたので貴女の口からその言葉が出た事の方が驚きです。亜人とは、エルフやドワーフ、獣人などの事だと思ってください。こちらでは数々の創作で登場している彼らが実在する世界だと」

「そちらには普通に魔術が存在しているのですね。とても興味深いです」

 カリンは自分の疑問が一つ氷解したと感じた。
 日常的に魔術が認知され使用されている世界であれば。
 魔術を使うに足るだけの素養を持った人が多く存在していても、その血筋が特別視されないレベルまで一般化、浸透していても不思議では無いと彼女は思った。
 言ってみれば、現代の魔術の系譜における名家の血筋が数多く存在し、その上でどこが本家、どこが分家とも言えない程に拡散している状況に近いのだろう。
 誰もが技術を知れば魔術を扱える、それに近い感覚なのだろうと彼女は若干強引に納得した。

「片道通行で、今はもう戻れぬ世界ですが。確かに魔術は社会に浸透していました。私も妻も、それなりに得意でした。しかし今はもう……」

「使えなく、なったのですか?」

「魔力を構成して術として編み、そして放つと言う過程全てに厳しい圧力がある感じで、小さな灯り一つも灯せません。まずこの世界は魔力が希薄すぎます。そして魔力を構成して詠唱で編み上げる時に体にかかる負荷もとても大きい。最後に術を発現させるにも、まるで世界がそれを拒絶するかのような凄まじい力で押さえつけられてとても使えない。意地でも魔術など使わせるものか、とでも言わんばかりの圧力は凄まじいものです」

 生まれてこの方、ずっと一つの世界にいるカリンには新鮮な、初めて聞く意見だった。
 普通に魔術を扱ってきた異世界からの人がこの世界ではどうして使えないのかを、単純に疑問に思っただけの質問だったが、聞いた事の無い意見を返され、カリンは異世界と言う言葉に何となく納得し始めていた。
 異なる法則、異なる常識、異なる基準が支配する場所であればそこが何処であれ異世界と呼ぶに相応しいのだろうと。
 であれば、もし人間が異世界に渡ったなら誰でもある程度の魔術が使えてしまうんだろうかと違う疑問も彼女の内に生まれたが今は問わず夫妻の話を聞く事に注力する。

「素養がある、と仰って頂けて嬉しいですけれど。今は私も主人も、身体の弱いただの人ですわ」

 寂しそうに、そして少し悔しそうに会話を見守っていた女性が口を開く。
 カリンは隣の部屋に見えたベビーベッドを見て思う。
 表札にはまだ反映されていないが深澄家にはもう一人家族がいた。
 三人産んで体が弱い、程度なら十分じゃないだろうか、と。
 出産は古来より母体にも強力な負荷がかかる命がけの行為だ。
 現代の先進国であれば、ある程度は安心して出産に臨む事は出来るが、それでも未だに完全ではない。
 人が人を生むプロセスは未だにわかっていない事の方が多く、最も身近な神秘の一つのままだ。
 身体が弱いと自虐しながらも三人の子を無事に授かり、産んで。
 その上で見た限り健康体でいる霞はカリンならずとも十分健康で幸運な女性だと判断するだろう。

「では、息子さんが呟いていた魔術の詠唱らしきものは……」

「あれは私が、気休めですけど、おまじないとして真に教えたんです。あの子、物凄く体が弱くて。私や主人よりも、もっと。姉の方はそれなりに体を動かせる子なんですが、二人目の真は姉の分まで虚弱を背負ってしまったかと思うくらいで……」

「どうにか出来ないかと限界まで魔力を高めて二人で回復と強化の術に挑んだ事もあるんですが結果は失敗で……」

 隼人が妻の言葉を補う。
 その様子を見て、カリンは先に霞が見せた悔しさの理由を察した。
 根本的な魔力が低いのは二人を見ていて彼女にはわかっていた。
 アンバランスな事だが、属性への適性と、魔力の量が全く噛み合っていない。
 確かにこれでは、余程の補助を受けない限りは魔術など使えないだろうと思った。
 そして、この世界での魔術の立場も今ひとつ理解していない風の二人を見て、カリンは完全に二人の異世界転移説を信じる気になった。
 あまりにも無防備過ぎるのだ深澄家は。
 もしこの一家が暮らしていたのがこの平和な国で無ければ、一体どうなっていたかわかったものではないと危うさを感じてもいた。
 意を決してカリンは、二人にこの世界での異能の立場と扱いを教えようと思った。

「……この世界では、魔術や異能は隠蔽され一般的には存在しないものです。失礼ながら、彼も貴方がたも、危機感があまりにも足りません。素養だけとは言っても、十分稀有な能力とみなされて実験体として扱われる、などという事態もありえるのですから」

 話す彼女自身、一瞬だが真をそのまま連れ帰ってその体から情報を得たいと考えた位だ。
 
「それは……穏やかではありませんね」

「はい。多少でも対策をしておけば問題無いレベルだと思いますけれど」

「よろしければ、その対策、教えていただけませんか? 情けない事ですが、私たちはこの世界での魔術の事などまるでわからないので見当もつきません」

 霞の提案にカリンは頷く。
 事情を聞いた今では、深澄家との関係を持つ事はいずれ役に立つ事もあるかもしれないと彼女は考えていた。
 日常的に魔術が存在した世界での魔術、その構成。
 彼らには常識の知識でも、この世界においては大いに価値があると思っていた。
 打算も多いものの、真と、その両親と。
 深澄家に干渉する事を彼女は決めた。
 そして誰の手垢もついていない状態で彼らに干渉できた幸運を天に感謝した。

「勿論です。お二人につきましては魔術の適性、私はラインと言っていますが、これを自己強化にも流れるようにするだけで大分肉体が強くなるものと思います。これで適性の多さも薄れて異能に明るい者が視ても少し変わった人、くらいの印象になる筈です」

「……そのような事が可能なのですか? 確かにもう少し体が強くなってくれればと思いますが、私の得意だった魔術の属性は水、妻は風ですが、どちらも強力とも言い難い素質だと自覚しているのですが」

「確かに、最も得意な属性はそのようですが、お二人はその他の属性の魔術を扱う適性もお持ちです。これも、実はこの世界では稀なケースなのです。大体は一つ、多くても三つの適性しか無いのが普通なのですから。使えるかもしれない適性、が複数あるだけでも十分に希少と見られるんです」

「……ではアクサナさんは使う事も出来ない魔術の適性、ライン? を健康を手助けするような働きに変える事が出来るのですか。それは、凄い事だと思うのですけれど」

「出来ます。私は魔術師ではありません。私は異能者と呼ばれる、普通の人には使えない能力を扱える者です。奇跡の癒し手、なんて恥ずかしい呼ばれ方もたまにしますが。要は人の体を治癒する事に長けた能力者だとご理解下さい」

「異能……」

「癒し手、ですか」

「はい。私なら、お二人を、いえ深澄家の皆さんを助ける事ができます」

『!?』

 カリンが言い換えた言葉に二人は驚きを隠さずに彼女を見た。

「真を、あの子を治せるんですか!?」

「助けられるんですか!?」

「ご両親の許可を頂けるなら。彼、真君も無事大きくなれるように治してみせます」

 隼人と霞、どちらも真を愛していた。
 自分の子どもだ。
 当たり前の事でもある。
 しかし、同時に。
 真の体の弱さに、諦めをどこかで感じていた事も事実。
 今日は姉の雪子が公園で彼の事を忘れて友達の家に遊びに行ってしまった為に行方不明になってしまった。
 警察に届けた所、倒れていた所を保護されて後にお宅にお送りします、と少し対応を疑うほどの返答を得て少し落ち着いたものの、大分慌ただしい一日だった。
 しかし、今日に限った話ではなく真絡みで深澄家が大騒ぎになることは多々あった。
 それだけ体が弱く、気を遣わなくてはならない子なのだから。
 もちろん真自身に責任など無い。
 そして両親にも長女の雪子にも、彼の体質について責任や過失などない。
 それは間違いない。
 故に割り切れない想いではありながら、両親の胸に諦めが混じるのは責められない事でもあろう。
 カリンはその後、やや落ち着いた真の両親から厚遇への疑心を含めて様々な質問をされ、やり取りをした。
 結局、その日は真の両親とベビーベッドに眠る生まれたばかりの次女真理まり、そして長女雪子を治療し彼女は隼人と霞から信頼を得るだけに留まり。
 翌日。
 カリンは真の治療の為に十分な用意をして深澄家を訪れた。


◇◆◇◆◇◆◇◆


(根本的な魔力も弱いし、ラインも水と風がそれなりに太いだけ。肉体の強度は私が知る限り最低。さて、まずは病気が無いか調べて……うん、健康ね。これはご両親の努力の賜物ね、感謝する事。では始めますか。何度繰り返したのか知らないけど強化系列のラインは身体強化に限り芽吹いているわね。ならこれに半ばで止まっている火と土のラインを分岐させてより合わせて根元にして、と……。これは、光と闇? また珍しいわね。でも実用レベルでも無いんだし、この子が今後魔術に関わる可能性も低いのだから、これもより合わせて強化ラインを確保しましょう。よし。何とか様になってきたわね、これなら“おなじない”を繰り返している内に少しずつでも身体能力の底上げは出来るでしょう。あるものはきちんと使ってあげた方が良いものね。後は……肉体そのものよね。長女は保有魔力が大きかったからそれでフォローできたし、次女は肉体の強さそのものの状態が他の子よりも良かったから、ラインを補強するだけで普通の子レベルにはできたけど……。う~ん、やっぱり、ラインの再構成かしらねえ。私が一生通ってあげる訳にもいかないから結局はこの子自身の生きる力の範囲で解決出来ないと意味が無いんだし)

 深澄家寝室。
 両親が見守る中、一見しただけだと寝ている真の胸に手を当てて目を閉じているだけのカリンは、既に深澄真の手術を始めていた。
 切開もしていないし血も流れていないが、これは確かにオペだった。
 人の魔力の流れや気脈といった、目には見えないものを改変していく手術。
 カリンは人のその領域に触れる事が出来る、世界に数人しかいない能力を持つ人間の一人であり、その最高峰でもある。
 
(水か、風か。どっちかを切断して……回復ラインを増強、その上で全身に拡散させて肉体を補強するのが順当よね。幸いまだライン操作が体や精神に害を与えるレベルにはなっていないけど、元々の個性とも言える属性を根本から切断するのはちょっと怖い所よねえ……。それでも、少しでも良い結果を望むなら、風か。一番強く主張してるライン。でももしも将来的に魔術を扱う可能性があるなら、水か風かと言われれば風を残したいのも事実。この子の場合、回復はこれでもう術自体が全く扱えなくなるでしょうから水属性の価値は半減するでしょうし。術式の受容自体は体中に散っているから、回復魔術をかけてもらう分には問題は無い。……そうね、基本的に今後魔術を使わないだろうって方向でやったんだから悩んでも仕方無い。効果もより強くでるから風を切断。そう決めた。水は残しときましょう。……さ、もうじき終わるからね真君。しばらくは熱も出るし寝込むだろうけど、目が覚めればそれなりに世界が変わっていると思うわよ)

 ピクリと真の身体が痙攣する。
 その震えは徐々に頻度を高め、カリンにしかわからない事だが、真の身体への負担が大きくなっている事を示していた。
 よく考えて選択してあげたいと思う所でもあるが、あまり時間に余裕もない状況だ。
 真の両親は知る由も無いが、これはカリンにとっても大手術と言って良い大規模な人体への干渉だった。
 病気を治して健康体にするとは訳が違う。
 もしも彼女が今している事が然るべき所に知られたら、彼女の身に迫る危険はこれまでの比では無く高まる。
 カリンも、これまでラインを確かめる程度はあっても、そこにはっきりと干渉した経験は決して多くない。
 真にしているように本来の役割を変換したり、別のラインを補ったりする技術は彼女の能力の奥義とも言える領域にある事だった。
 癒し手カリン=アクサナの秘奥にして最高機密と呼ぶべき技。
 およそ四時間程の手術。
 真の胸に触れていた手が離れて、カリンは深く息を吐いた。

(多分これで大丈夫だと思うけど。目覚めてから何度かはにきた方が良いわね)

 その日は両親に問題なく終わった事、彼が数日は寝ているだろう事を伝えてカリンは深澄家を後にした。
 幾つかの予定を組み替えて日本に滞在出来るようにスケジュールを整え、真の様子を確かめに何度か深澄家を訪れる日々が続く。
 幸いな事に一刻を争うような依頼は、元々彼女は好まない為にあまり受けていなかった。
 息吹要がカリンを情けなど持たない女と評するように、カリンはその能力に反して非情な人物として認識されている。
 確かに。
 カリンはその気になればどんな重病人だろうと大怪我を負った死にぞこないだろうと元通りに治せる。
 現在進行形で彼女が試しているテストケースでは御年百五十を超えてなおオリンピックでメダルを狙える身体能力を維持させる事さえ可能だ。
 だが。
 仮にカリンが慈悲深く振舞っていたならば、彼女の自由や人権など微塵もなくなっているだろう。
 非情である、或いは非情に見せる事は彼女にとって自分を守る手段の一つかもしれない。
 ともあれ幾つかの絶叫や悲鳴を笑ってスルーして。
 多少の無理を通す形になったがカリンは二週間程日本に滞在する事が出来た。
 そして最後の深澄家来訪の日。
 彼女は両親に深く頭を下げていた。

「ごめんなさい。普通の子と同じ体にしてあげられる筈だったのに」

「先生、頭を上げて下さい」

「そうです。貴女に良くやってくれたと感謝こそすれ、責める気なんてありません」

 カリンの見立てでは、真は健常児になれる筈だった。
 だが、彼女はヒューマンの身体を甘く見ていた。
 真は、特に何優れる所も無い普通のヒューマンの肉体をもって生まれた。
 故に長女の様に両親に与えられた女神の加護の残滓による魔力の保護も無く、妹の様に母体の慣れによる強い肉体での出産を待つ事も無く。
 遥か強者の住まう世界に弱者の肉体で生まれてしまった子だ。
 それも、容姿ばかりはこの世界の平均を受け継いで。
 カリンは決して口にはしなかったが、三人の子どもで一番割をくってしまったのは真だと思っていた。
 真の両親が、頭を下げるカリンの前にさらに低い姿勢で膝を突いて彼女に礼を言う様に、あの日以来、真の身体は大分強くなりはした。
 だが、果たして普通の子かと言われると、かなり身体が弱いままだった。
 日を置いても馴染んで強くなるかと思われた身体は一向に虚弱の域を出ないまま、止まってしまっていた。
 しかしそれでも、辛うじて命を危ぶむレベルの虚弱ではなくなったのだから十分な奇跡といえる。
 
「先生なんて止めて下さい。私は医者ではないのですから。偉そうな事を言ったのに、結局はあの子次第なんて曖昧な結果にしてしまったんですよ?」

「カリン先生、真はあの子次第と言う可能性を先生にもらったんですよ。それだけで、それだけでもう十分です」

 隼人はカリンの二言目に涙混じりに感謝を返す。

「深澄さん……真君は多分、どれだけ頑張ってもスポーツ選手にはなれない。そんな中途半端な身体にしか出来なかったんですよ、私は。これは、恥じるべき結果です。謝っても謝り切れない。彼から幾つもの優れた魔術の素質を奪っておいて。現に、彼はもう確実に治癒も、風の属性も、一生扱う事は出来ないでしょう」

「先生、どうかご自分を誇って下さい。後はあの子が体を鍛えれば良いだけなんですから。鍛えてもアスリートになれない、その位、これから普通に生きていける可能性に比べたら大した事はありません。魔術などに関わらなくても、ここでは十分に暮らしていけるんですから」

「……本当に未熟でした。先日お話した報酬については結構ですので」

「そんな! 先生、いつでも当家においで下さい。私共の話で良ければいつでもお話しますし、お力になれそうな事があればいつでも声を掛けて下さい」

 カリンは治療の報酬として、金の代わりに隼人と霞から異世界の話を聞く事を望んだ。
 特に魔術関係の話はかなり興味があり、一般家庭から金を取るよりもずっと価値があると踏んだからだった。
 深澄家は、隼人がライターとして活動する他に収入は無く、家族が暮らすには当面問題は無いが、十分貯蓄がある訳でもない、その程度のごく一般的な生活水準だった。

「その通りです。お金もお支払いします。払わせて下さい」

「……ありがとうございます。しかし霞さん、やはりお金まで頂くのはご勘弁を。ご好意に甘えて折々、真君の様子を見にこちらにお邪魔してもよろしいですか?」

「勿論です、いつでもお待ちしています」

 隼人の本心からの歓迎の言葉を受けて、カリンは硬かった表情をようやく少し緩めた。
 この日から、長く続く深澄家とカリン=アクサナの親交が始まる。
 異能の癒し手である彼女の心配は一つは杞憂に終わり、深澄真は無事に健康な体を手に入れ。 
 彼女は隼人や霞から知り得た魔術の知識を応用して大きな利益を上げるのだが、深澄家がその知識の出処だと思われる事なく、また彼女自身も気を遣って接触していた。
 情けは人の為ならず。
 真に対して僅かに覗かせた彼女の仏心は、結局彼女に大いに益のある関係を作り上げた。
 ちなみに、ほんの一瞬だけすれ違った深澄真と息吹正宗の関係は、三日ほど寝込んですっかり彼の事を忘れていた真の所為もあり、その後彼らが高校生になって偶然再会するまで凍結される事になる。
 不思議なものでどちらもお互いを忘れており主に部活を通じて一からの友人関係だったが、それなりに上手くやっている。
 しかし彼らの再会から一年ほどを経て。
 カリンのもう一つの杞憂が現実のものになる。
 深澄真は魔術に触れ、活用していく状況に陥ったのだ。
 異世界への召喚という特大のアクシデントによって。
 風と回復。
 かつて己の体が死の運命を抜け出す為に失った属性。
 第三者から見れば、奇跡の代価。
 当の深澄真は偽名を名乗り、異世界を旅し始めた。
 いつかこの真実を彼が知る日が来るのか否か。
 それはまだ神さえも知り得ない、未確定の混沌の中に。
 月が導く異世界道中前日譚、これにて終幕。
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