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二 「バッドエンドしかない」という悪役令嬢とやらの領地で暮らすことになったのだが、聞いて欲しい

二の3

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「シリアナ嬢、着いたばかりで荷解きもまだでしょう。お先に失礼しては?」
 また小一時間いちゃいちゃされては困る。主に目のやり場に。僕の提案の意味を悟ったシリアナ嬢が深く頷く。
「お父さま、お母さま。わたくしたちはお先に失礼いたしますわ。夕食後、お話したいことがありますの。お時間作っていただけますかしら」
「ああ、帰ったら知らせるよ」
 シリネーゼ公爵夫人がもじゃもじゃのどこにあるか分からない口にむっちゅむっちゅしている音がする。不潔よ! 耳が汚される! 童貞には大変目の毒だ。
「シシィ、パパも一緒に行かなくていいのかい?」
「お父さまはお母さまとごゆっくりどうぞ」
 子供に皆まで言わせるなよゆっくりいちゃいちゃして来いよすっきりしてから話を聞いて欲しいんだよ、目の前でまたいちゃいちゃされたら話をしにくいんだよ真面目な話がしたいからな!
「……重ね重ね、両親が申し訳ございませんのですわ」
「うん、何かごめんね? でも童貞には刺激が強過ぎてどうしたらいいのかどこを見たらいいのか分からない」
 もうやだ。繊細で夢見がちな童貞にもう少し気を使ってくれまいか。
「陛下、あれに慣れるためにもぜひここで一発」
「魔界に帰る」
 僕へ向かって伸ばされたシリアナ嬢の手をはたき落す。どこを触ろうとしていたんだ、どこを。君はもう少し、貴族令嬢としての恥じらいというものと童貞はとてもチョロくてちょっとした身体接触ですぐに惚れてしまうという事実を理解しなければならないようだな。いいのか! 意味などない身体接触だとしても、優しく触れられたら惚れてしまうぞ! 僕が!
「陛下は大変繊細な股間をお持ちなのでしたわね……」
 見るな! 憐れむような目で僕の股間を見つめるな! はしたないでしょ、君貴族令嬢でしょうが! 慎みを! 持ちたまえよ!
 僕の視線で何かを察したのか、シリアナ嬢は生温い笑みを唇へ刻んだ。
「大丈夫ですわ。わたくしに怯えてしんにゃりした陛下の陛下もおかわいらしかったですわよ?」
「言い方あああああああああああ!」
 それなら君に怯えてどれだけ僕の股間の魔王が縮み上がっていたか、分かっているだろう! そりゃもう、かつてないほどにしょんぼりした僕の股間の魔王が可哀想だと思わないのか君は! しかもいつ触ったんだよほんと君、ほんと君そういうとこだぞ!
 ドエロミナ城に戻ると、涙目の僕とうっすら笑みを浮かべたシリアナ嬢を眺めて騎士たちが気遣うように視線を逸らす。
「……シリアナ様さすがシリネーゼ様のご息女……」
「なるほど肉食……」
「野外で……」
「手籠めにされた乙女の表情ですな、あの従者……」
 違うからね! まだ違うから! 手籠めになんてされてないから! まだ僕、清い体だから! やだもう、視線で汚される!
「まぁ……悪い熊に噛まれたと思って……な?」
 近づいて来た御者が憐れみを含んだ視線を投げかけ、僕の手から手綱を受け取った。やめて、優しく肩を叩かないで。僕まだ清い体だから。あと熊に噛まれたら死ぬからね。致命傷だからね。僕のガラス細工のように繊細な童貞心はすでに瀕死だけど。
「うっうっうっ……」
「怖いのは最初だけですわよ、エイン。慣れたら好くなりますわ」
 おいそれが令嬢の言うことか。きっ、と睨みつけると、シリアナ嬢はうっそりと頬へ手を当て笑みを浮かべる。
「ああ、堪りませんわ……涙目のエイン、美麗スチル眼福ご馳走様ですのよ……」
 ちょ、何口走ってんのこの子! だからすちるってナニ! 騎士たちがざわめく。
「ご馳走様」
「ご馳走様とおっしゃったぞ」
「シリアナ様が侍従殿を美味しく頂いてしまわれた」
「誤解だあああああああああああああ!」
 ドエロミナに着いて半日ほどしか経っていない。だが僕の精神的疲労は上限値を越える勢いだ。鬼おろしでガンガン下されているくらいの勢いで荒く削られている。このままここに居たら僕は精神がすり減って病になってしまうのではなかろうか。あと、ここの住人単純に男も女も筋肉質でデカい怖い。
「シリアナ様、従者殿を手荒に扱っては壊れてしまいますぞ。きっと。だってこんなに可憐でいらっしゃる」
「そうですよ、お嬢さま。こんな可憐な成人男性見たことない」
「まるで聖女のように可憐ですな」
 やめて? 齢数二千年越えの魔王に可憐を連発するのやめて? 耐えられない。
「そうですの、首都でもエインほど可憐な男性は中々見かけませんわ」
「やはりそうですか」
 そうですかじゃねぇわ、よく見ろ! お前らのお嬢様より僕が可憐なわけがなかろうが! ……ない、よな? ない、はず。ないって言って。
「エイン~!」
 あ、城の奥から天使がやって来る。癒されよう。抱っこの体勢を整えるべく、片膝をついて手を広げる。どぅわっ! このかわいい体のどこにこんな衝撃が隠されているのか。天使だがさすが熊一族の子息。危うく後ろへ転がりそうになるのを堪えて、小さくて柔らかな体を抱きとめた。幼児独特の甘い香りに頬が緩む。
「どうなさったのです、エロシリダ様」
「ロシィはエインのおかおがだいすきなのです。だってかれんだもの」
「ロシィは確かな審美眼を持っているのですわ。エインの顔面は至宝。これは世界の常識ですわ」
「そんな常識ありません」
「エインのがんめんはしほう。ロシィ、おぼえましたおねいちゃま!」
 君もか。君もなのか天使よ。君はこの純粋な瞳で筋肉を見すぎているんだ。
「うふふ、ロシィも熊を見飽きたのですわね……」
「はいっ」
 姉弟の会話に居並ぶ熊が少しだけ体を縮めている。可哀想でしょ、いい人たちっぽいよ? 熊だけど。筋肉の印象しか残らないけど。隣国が気の毒になって来た。いい人たちそうだけど、この熊の集団が敵になったらと考えるとげんなりする。こんな筋肉集団が隣をうろついているだなんて怖すぎるでしょ。国境越えようなんて考え起こす気にもならないよ。猛獣注意の看板立てるでしょ。
 馬の足音に振り返ると、シリネーゼ公爵夫人とアナルジダ公爵が城門の中へ入って来るところだった。天使が僕に抱き上げられたまま、両親へ無邪気に手を振っている。
「おかあさま、おとうさま」
 思ったよりお早いご帰還で。もうちょっといちゃいちゃしているかと思ったのに。シリネーゼ公爵夫人とアナルジダ公爵が満足気な表情で馬を降りた。アナルジダ公爵の襟が大きく開いているが僕は何も見ていない。見ていないったら。
「ロシィ、何てことだ! 最近パパに抱っこさせてくれないのに何故その従者に抱っこされているんだい!」
「エインはおかおがとってもかれんで、むさくるしいきんにくではないのですきです」
「パパだって顔はいいよ?」
「おとうさまはいま、もじゃなのでいやです」
 容赦ないなこの天使。強い拒否にアナルジダ公爵は顔を覆って泣いている。
「あっはっは、ロシィはわたくしに似て面食いだな」
「エインは顔面が国宝級ですもの。国で保護するべきご尊顔ですわ。絶滅危惧顔面ですわ」
 人を珍獣みたいに言うな。もじゃもじゃが大声を上げながらシリアナ嬢を抱きしめる。腰が折れるんじゃないかと心配になるが、シリアナ嬢はスカートの中に暗器満載の普通ではないご令嬢なので熊に抱きつかれた程度で折れるわけがない。
「パパは? パパは違うのかいシシィ!」
「お父さまは今、むさくるしい熊ですわ」
 大声を上げて泣く熊、うっとおしいし怖い。シリアナ嬢は僕より冷たい表情でアナルジダ公爵を嘱目している。
「久々にゆっくり晩餐を楽しもうではないか。ここにエリィが居ないのが残念だな、アナルジダ」
「エリィが居れば久しぶりに家族全員で食事ができたのにね、シリネーゼ」
「ではお父さま、お母さま。またのちほど」
「ああ、また後で」
 馬を御者へ渡して城の中へ戻って行く夫人と公爵はぴったり寄り添ってお互いの腰へ手を回して、うん。人目も憚らずやはりむっちゅむっちゅと音を立ててキスしている。童貞どこを見たらいいのか分かんない。視線を逸らせば筋肉、筋肉、筋肉。筋肉が目に痛い。筋肉は目に優しくないことを僕は二千年以上生きて来て初めて知った。目も心も疲れたよパトラッシュ。パトラッシュって誰だ。そんな知人は居ないはずだが。気を取り直して腕に抱えたエロシリダ令息へ声をかける。
「どちらまでご一緒致しましょうか、エロシリダ様」
「えっと、ロシィはおねいちゃまとエインのおかおをながめながら、おちゃがしたいです」
「んぐんっ! 天使と国宝級顔面の奇跡のコラボレーション」
 僕の首にしっかり手を回してにこにこご機嫌のエロシリダ令息かわいい。やだかわいい。何この子怖い。将来老若男女問わず誑かしそう怖い。危ない、油断すると心持って行かれる。相変わらず変な鳴き声を垂れ流すご令嬢なんて僕は見てない。見てないったら。
「どこまでもご一緒致します」
 かわいい天使に目尻を下げて歩き出す。僕はこの天使以外、何も見てない。所構わずいちゃつく公爵夫妻も、人の良さそうな筋肉熊の集団も元子熊のスカートの中に暗器ずらりの公爵令嬢も何も。何もだ。
「天使と陛下の美麗スチルキタ――っ! スマホ……スマホが欲しいですわ……写真を撮らなくてはいけませんわ……っ! 心のエイン様ベストショットファイルが一杯で容量が足りませんのよ……」
 また新しい単語出た。すまほとは何だ。しゃしんとは何だ。べすとしょっととは一体何なのだ。だが聞かぬ。断じて聞かぬ。あとさらっと陛下とか言っちゃダメでしょ君気を付けないとバレるでしょ。
 何やらわけの分からぬことを興奮気味に呟く元子熊の公爵令嬢も、何も見てない。見てないったら。天使かわいい。遠くのお山、てっぺんに雪がかかってきれい。あはは。うふふ。
 晩餐までの間、シリアナ嬢の部屋でエロシリダ令息を膝に乗せてお茶を楽しみ、乞われるままに絵本を読む。いいなぁこの天使。かわいい。癒し。
「エインのきんにくはみぐるしくないので、とてもおちつきます」
 見苦しい筋肉が悲し気な顔でエロシリダ令息を見つめている。エロシリダ令息付きの護衛騎士だ。切ない。
「しかしエロシリダ様。彼らはこの国の盾なのです。あの筋肉はまさに国境線。他国へ『ここに帝国在り』とその強さと堅牢さを体現することで、侵略者から民を守っているのですよ」
「にくのかべ……」
 ちょ、天使ぃぃぃぃぃ! 今天使が言っちゃいけないこと言ったよね!? ダメだよ誰だ天使に肉の壁とか教えたの! マジこの公爵家の子女殺伐としすぎだよね! 教育どうなってんの!
「エロシリダ様。彼らは『帝国は誰にも屈しない、誰にも侵略できない』ことを知らしめているのです。断じて屠られること前提の肉の壁などではありません」
 静かに首を横へ振る。
「ぎゃん顔がいい」
 シリアナ嬢のいつもの発作を完全に無視して天使は素直に頷いた。
「ほこりたかききしたちなのですね!」
「そうです。彼らは崇高にして気高き筋肉なのですよ。その長であるオシリスキナ家、エロシリダ様もまた、気高き騎士なのでございます。気高いひとにおなりなさいませ」
「うっ……! お嬢様に美味しくいただかれてしまった従者殿……っ」
 見苦しい筋肉が拳で目を拭った。ちょっと内股になってないか筋肉。がんばれ筋肉。僕は君たちを応援している。あと気遣ってもらっておいて何だけど、僕はまだ童貞だから。美味しくいただかれてはないから。それを阻止するために君たちのお嬢様に協力してる最中なんでしょうが! 縁起でもないこと言わないでくれないかな!
「はいっ。でもできればロシィはみぐるしくないほこりたかききんにくに、なりますっ!」
 きりっと僕を仰いだエロシリダ令息は純真でかわいい。この天使は熊になりませんように。
「エロアナル様も見苦しくない筋肉だと思いますが……」
「エリィおにいさまは……みぐるしくないけどあつくるしいきんにくなので」
「エリィお兄さまは知性より前に筋肉で解決できることが多すぎるのですわ……」
 うん。分かる。エロアナル令息は存在自体が暑苦しいんだよね。結構細身なのに。この天使が兄のようにならないよう、切に願う。何よりエロアナル令息に外見も中身もそっくりに成長したエロシリダ令息を想像すると今から泣きそう。
「シリアナお嬢様、エロシリダお坊ちゃま、晩餐の用意が整いました」
「参ります」
「ロシィはエインといっしょにいきたいです」
 僕の肩へ小さな頭を寄せ、万人が己を抱っこすることを望んでいると知っている仕草でエロシリダ令息が微笑む。やだ天使。控えめに言って天使。つまり控えめに言わなくても天使。この天使、人の心を鷲掴みにして離さない。天使を抱えたまま大理石の廊下を行く。オシリスキナ領は帝国の西に位置し、冬は短く、春と秋が長い。夏はそれなりに暑いが、湿度は少なく過ごしやすいので西南の沿岸部は貿易と観光で成り立っている。辺境というには気候も恵まれている。農作物も豊かに実る。観光収入も多い。領地自体が潤っているのだ。そのため、当然であるが領主であるオシリスキナ公爵家も昔から資金が潤沢なのだろう。贅沢に透明度の高いガラスをふんだんに使った大きな窓が柔らかく城内を照らしている。アナルファック帝国はミナエロイ大陸の東南にあり、元々全体的に温暖な気候の国である。常春の国。冬が短く通年温かいアナルファック帝国はそう呼ばれている。首都アナルナメルは帝国の北に位置するから、城塞都市ドエロミナはアナルナメルのタウンハウスより温かいくらいだ。
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