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二 「バッドエンドしかない」という悪役令嬢とやらの領地で暮らすことになったのだが、聞いて欲しい

二の4

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 食堂に入ってエロシリダ令息を椅子へ座らせる。ふと顔を上げると、シリネーゼ公爵夫人の向こうに座るエロアナル令息によく似た面差しの男性が見えた。エロアナル令息とそっくりな垂れ気味の瞳はアイスブルー。高く大きく通った鼻筋、ぽってりとした唇。愛嬌たっぷりで人好きする顔立ちだ。ちょ、待って? え、ちょ、え? 熊が人間になってる。嘘だろあれ、アナルジダ公爵だよな? なるほどもじゃがなくなったら美形。この一族、美形なのにもじゃると熊なの? 何なの? 熊になる呪いでもかかってるの? 給仕をする侍女たちが働く中、シリアナ嬢の侍従である僕は端に控える。
「それで、もう王都に戻る気はないのだよね? シシィ」
「ええ、お父さま。お許しいただけるのならば領地にて家庭教師をつけていただいて、学園へは通わないで済ませたいのです」
「シシィおねいちゃま、かえってくるの?」
「そうだよ、ロシィ」
 アナルジダ公爵は満面の笑みだ。アナルジダ公爵の中では既にシリアナ嬢がドエロミナへ帰って来ることは決定らしい。
「ふむ。では殿下との婚約破棄の件も進めてしまっていいのだね? シリアナ」
「はい、お母さま。他にも手紙では伝えきれないことを相談したいのです」
「では食後にわたくしの執務室へ移動しようか」
「その件についてはエインも一緒でよろしいでしょうか、お母さま」
「うむ……。なるほど。そこで仔細は聞くとしよう」
「エロシリダ様はお食事が済みましたら、お風呂に入ってお休みいたしましょうね。このエインめがご一緒いたしますよ」
「ほんと? いいの? シシィおねいちゃま」
「ええ。ロシィは本当にエインがお気に入りになってしまったわね」
「エインはおかおがいいので!」
「分かりますわ」
 シリアナ嬢が頷いたのはまぁいつものことだ。呆れつつも僕はエロシリダ令息のみを目路に入れて心を無にする。
「分かるな」
 シリネーゼ公爵夫人が深く頷く。いやあんたもかい。
「悔しいがパパも分かる」
 そこは嘘でも自分の方が顔がいいとか言っておこうぜ、アナルジダ公爵。
「わたくし顔面の良さが筋肉をねじ伏せる瞬間をこの目に焼き付けてしまったのですわ、お父さま」
「エインのおかおがゆうしょうです、おとうさま」
 そんな瞬間ありませんでしたよ! ええい、面食い一族め! それでいいのか! 高偏差値の顔面で頷くな!
「このドエロミナでは顔が良くて強いものが一番なのだよ、エイン」
 真顔でシリネーゼ公爵夫人が宣う。それで脳筋美形だらけなんですね、この土地。呪われてる。風土や気候の爽やかさに反して住人が暑苦しいんだよ。
「学園へ行きたくない理由は、のちほどお母さまの執務室でお話いたしますわ」
「シシィが理由もなく学園へ行きたくないなどとは言い出さないだろうからね」
「お母さま……」
「アナルジダは理由もなく嫌だと言い出すが」
「シリネーゼ……理由ならあるよ? シシィと離れたくないとかシリネーゼと離れたくないとかロシィと離れたくないとか」
 いやいやいやいや、駄々っ子か。仮にもアンタ公爵だろうが。
「ロシィはちゃんとおやさいもたべたので、ごほうびにエインにごほんをよんでもらいながらおねんねしたいです!」
 わぁい天使、空気が読める子。しかも五歳にして完璧なテーブルマナーである。
「では、抱っこさせていただいてもよろしいでしょうか。エロシリダ様」
「はぁい」
 天使かわいい。天使の入浴を手伝い、絵本を読んで添い寝して戻って来たら一時間くらい経っていた。ボールが公爵の執務室へ案内してくれる。
「こちらへどうぞ」
「ありがとうございます」
 ノックをして返事を待つ。意外にも扉が開いてシリアナ嬢が顔を覗かせた。
「待っていたわ、エイン。入ってちょうだい」
 エロアナル令息にしたような話をすでにした後なのだろう。さすがに夫人も公爵も親の顔をして僕へ視線を投げかけた。
「あとはこれからどうするか、でしょうか」
「ええ。お兄さまがフィストファック商会を通じて攻略対象の現在の情報を調べてくださるというところまではお話いたしましたわ」
「つまりシリアナ嬢が公爵領で暮らすことは決定で?」
「そうなるね。さすがにアナルアルト殿下との婚約破棄は一筋縄ではいかないが」
 シリネーゼ公爵夫人が形の良い顎を人差し指で撫でながら目を伏せる。
「あふぅん」
 シリネーゼ公爵夫人が撫でた顎は、アナルジダ公爵の顎である。もうね、気にしたら負けな気がしてきたからいちいちツッコみません。ツッコみませんよ、僕は。
「そうでしょうね。王族からの婚約を公爵家から破棄するにはそれなりの理由が必要になるでしょう」
「それはヒロインの聖女が現れれば解決するような気がいたしますの。アホ殿下はアホなので己の欲望を隠したりはできないお方ですのよ」
「シリアナ嬢。さすがにアホ殿下が可哀想になって来たしアホ殿下がなんて名前だったか僕はもう思い出せなくて本人に会った時も思わずアホ殿下と言ってしまいそうで怖いから、アホ殿下の名前をちゃんと言ってもらえないだろうか」
「ごめんなさい、今後アホ殿下をアホ殿下と呼ばないように気を付けますわね」
 大変上品に反省したところで、言った端からアホ殿下呼ばわりだよね。直ってないよね。シリアナ嬢。
「エイン君、アホ殿下のお名前はアナルアルト殿下だよ。ちゃんと覚えておきたまえ。パパはちゃんと覚えているよ! 偉いだろう!」
 髭を剃って風呂に入りさらに髪を整えた公爵は、確かに中々のハンサムである。夕食前まで熊だったとは思えない。顔だけ見れば優し気な風貌で、社交界の女性から大層人気があるだろう。しかし熊だった姿を見ているので、賢い熊だなくらいの感想しか湧いて来ない。感慨深く熊だったハンサムを眺める。しかしゴツい。筋肉で全てを解決しますと筋肉に書いてある。顔と肉体の落差が激しくて、目が複雑骨折しそうである。
「それでもいくつか手を打っておくべきだと思います。アホ殿下……アナルアルト殿下がアホ丸出しで聖女が現れた途端自分から婚約破棄してくれればよし、それまでに証拠集めや情報収集は怠らず、言い逃れのできない婚約破棄の理由を確保するために働きかけましょう。僕はアナルアルト殿下の個人情報を見て作戦を立てたいと思っていますがどうでしょうか」
「それがいいだろう。シシィもそれでいいかい?」
「ええ、お母さま」
「パパはとにかくシシィが領内で暮らしてくれてアホ殿下との婚約が破棄になるなら何でもいいよ」
 おい正直が過ぎるだろ公爵。あと公爵家の人間アホ殿下をアホ殿下呼ばわりしすぎだろ。
「できれば一度、直にアホ殿下……アナルアルト殿下を拝見したいところですね」
 こうなるとアホ殿下が本当にそんなにアホなのか、どの程度どのようにアホなのか、気になるところである。
「それはエインが首都に行かなければ無理だと思いますわ。アホでん……んんっ。アナルアルト殿下は冬にしかドエロミナへお越しにならないので」
「え? 待って、シリアナ嬢はアホ殿下とそこまで不仲なの?」
「仲は悪くないと思うのですが、アナルアルト殿下はわたくしに興味がないのですわ」
「ええ……?」
「なんというか……女性、ではなくエリィお兄さまの妹、くらいの認識しかないと思いますの」
 何だろうな、アホ殿下はあれかな。レプラコーンから宝物をくすねて喜ぶタイプの子供がそのまま大きくなった感じかな。でもシリアナ嬢は子熊だった時代があるらしいことほぼ確定なので、一概にアホ殿下がアホとは言い切れない。僕だったら、幼い頃子熊だった婚約者が気が付いたら普通のご令嬢になっていたら恋愛対象より畏怖の対象になるもん。人類の進化について深く考察したくなるじゃん。
「深淵を覗いた気分なのだろうな……」
 僕今、ちょっとだけアホ殿下に同情している。幼い頃熊だった、現在最強冒険者の称号を持つ公爵令嬢。そう考えると得体がしれない。僕ならどうしていいのか分からん。悪夢見そう。現実に今、悪夢を回避するために動いているしな?
「まぁ、アホ殿下……アナルアルト殿下に会う機会はそのうち訪れるでしょう。エロアナル様も領地に戻るとおっしゃっておられるますし。フィストファック商会からの情報だけではなく、自分の目でも攻略対象の情報を確認しておきたいですし、僕は首都とドエロミナを行き来することになるでしょう」
「そんな! エインが居ない間わたくし、一体誰の淹れてくれるお茶を飲んで、誰が作ったスイーツを食べればいいのかしら……」
「早急にシェフと侍女に教育しておきますよ、シリアナ嬢」
「さすがエインですわ!」
 それに僕なら一瞬でここから首都まで行き来できるし。公爵夫人と公爵の前だから言わないけど。
「わたくしからも陛下にアホ殿下との婚約を解消していただけるよう、進言しよう。今日のところはここまででいいかな? シシィ、エイン」
「はい、お母さま」
「異論ございません、公爵夫人」
 とうとうシリネーゼ公爵夫人までアホ殿下のことをアホ殿下と言い出した。皆さん不敬ですよ。相手は一応王族なんだが。
「それでは本日は解散!」
 シリネーゼ公爵夫人がよく通る声で発する。この人、生粋の将軍なんだろうなぁ。「女傑」という言葉が相応しいが、この人が公爵夫人でありながらここまでの振る舞いができるのは王族の血を引いていることが大きいだろう。この母を見て育ったからこそ、シリアナ嬢は己の立場について正確に理解しているのだろう。
 シリネーゼ公爵夫人のように振る舞える女人は、この世界ではごく少数である、と。
 公爵夫人の執務室を出て、シリアナ嬢と廊下を歩き出す。
「シリアナ嬢、もう少し離れて歩いてもらえるか」
「殿下のおくれ毛から薫る香りフローラルでございますわ。くんすかせずにはいられませんのよ」
 やめてよ、変態ッ! 人の後ろにぴったり張り付いて匂いを嗅がないでもらえないか!
 叫ばない僕エライ。だって僕は魔王で童貞だがいついかなる時も紳士ゆえに。しかし君、背後から僕の腕を掴むのはやめたまえ。力強い、ちょ、ちょ、痛い痛い。嫌がらせをされた上に暴力まで振るうとは令嬢怖い。魔王涙目だからやめて欲しい。
 しばらくその場でくるくると回って背後を取られまいと抵抗を試みる。疲れたのか飽きたのか、シリアナ嬢は大人しく僕の横へ並んで窓の外へ目を向けた。
 さすがは公爵家。質のいいガラスが嵌った大きな窓の向こうに青白い月が出ている。それでもガラス越しに見える月は僅かに歪んで映った。
「わたくしが前世で暮らしていた国では、月に細かく名前を付けて愛でる習慣がございましたのよ。満月の少し手前、今日の月は待宵月と言ったところですわね」
「待宵、ですか」
「来るはずの人を待つ日が暮れたばかりの夜、という意味ですのよ」
 ああ、それは。
「ああ、それは美しいな。夜が深くなる前に、月が綺麗になってしまう前に、と恋しい人を待ちながら見る月、か」
 隣を歩くシリアナ嬢へ顔を向ける。令嬢は何故か、まるで痛みを堪えるかのような表情をして僕を見つめていた。
「? どうかしたか」
「……いいえ。エインはロマンチストですわね」
「自慢じゃないが繊細な童貞なのでな」
「ふふっ。陛下は優しく思慮深いお方ですわ」
「っ、なんだ? 褒めても何も出ないぞ?」
「大丈夫、こちらで搾り取りますので陛下は男マグロでOKですわ」
 まぐろが何のことだか分からないが、ろくでもない意味だということだけは分かる。
「君ほんとそういうとこだぞ。はぁ、こっちでお風呂入って僕は少し魔界に戻るから。何かあったら君に渡してある水晶に声をかけるように」
「分かりましたわ。陛下は本当にお風呂が大好きですのね」
「魔界じゃ綺麗な水は貴重だからさ。貴族ですら複数人で風呂に入るのが当たり前だからね。トアがまだ小さい頃はよく一緒に入ったものだよ。今も節約のために一緒に入るけど」
「くんずほぐれつご入浴ですのね!」
「くんずほぐれつってナニっ?!」
 突然目を見開くのはやめてくれないか。僕の心臓によくないから。
「……陛下とショタ幹部……陛下×シリトア様と見せかけておいて、数年後には成長したシリトア様×陛下……ええ、下剋上。下剋上ですのね……いけませんわ、腐った掛け算が捗りますわ……」
「……」
 腐った掛け算とは。嫌な予感しかしないので何も聞かなかったことにした。
 シリアナ嬢が部屋に入り、専属侍女が深々と頭を下げるのを見守る。なんだっけ、この子。エロイア・ナルジワだっけ。さすがシリアナ嬢が幼い頃から仕えているだけあって何事にも動じない。
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