穏やかに生きたい悪役令息なのに、過保護な義兄たちが構いすぎてくる~イヴは悪役に向いてない~

鯖猫ちかこ

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 甘いにおい。
 この香りはもう懐かしいよりもまた日常に戻っていた。
 ピンクの薔薇は玲於さんの家の庭に沢山咲いているという。
 趣味が花の世話というのは前世から変わらない。
 受付や社長室にも飾られるその花の香りはもう玲於さんにも染み付いているんじゃないかと思うくらい、おれにとって彼のにおいだった。

 でも今日は受付にあるのは薔薇ではなかった気がする。
 花の種類なんてよくわからない、どうにかこれは薔薇、あれは薔薇ではない、ということがわかるくらいだ。
 でも近くに玲於さんもいない。今日は打ち合わせで社外で仕事、そしてそのまま直帰と聞いていた。
 金曜日、夕食を一緒にと待ち合わせの約束をしているから、それは間違いない筈なんだけれど。

 香水ではない花のかおり。多分おれがいちばんすきなにおい。
 その持ち主は多分、近くの、受付にいる男だ。
 その男はこちらを振り返り固まっている。
 すぐ隣の杏さんが綺麗な子、と呟いたことで、なんだか急に、全身から力が抜けてしまった。

「えっちょ、大丈夫……」
「イヴ!」

 崩れ落ちる前に杏さんが躰を支えてくれた。その男が走り寄るのと、受付と付近にいた社員が小さな悲鳴を上げるのはほぼ同時だった。
 ……具合が悪いのではなく力が抜けてしまっただけ。
 心配しないでいいと杏さんに伝えると、救急車は必要ない、空いてるところで休ませますのでと少し騷ついた周りにフォローを入れてくれた。
 しゃがみ込んだおれのすぐ近くに、心配そうなかおがある。
 それは酷く整った、まるで人形のような綺麗なかお。
 真っ黒の髪と漆黒の瞳、透明な肌と聞き慣れた、でもだいぶ久しい名前を呼ぶ声。

「アル兄さまだあ……」

 ぽつりと漏れた声に、先に腕を伸ばしたのは目の前の男だった。
 ぎゅう、と抱き締める腕は痛いくらい強くて、泣きそうな声がイヴ、と呼んだ。
 甘いにおいと、石鹸のにおい。
 抱き締め返そうとしたおれの腕を、ここじゃだめ、と杏さんがそっと止めた。

 周りに不審者ではないとアピールする為か、杏さんは少しわざとらしく、ブラコンなんだから。ほらお兄さんも立って、と周りの社員に聞こえるように大きめの声でおれとアルベールの腕を引く。
 まだ少し力が抜けたままの躰をふたりが支えてくれ、どうにかエレベーターに乗り込む。扉が閉まる前、呆然とする受付の女性と視線がかち合った。
 エレベーター内でも皆無言のまま。それでもシャツを掴む手は離せなかった。

 狭い会議室に通した杏さんが、防音じゃないですからね、大きな声は出さないように、とこどもにするよう口元に指を立て、鍵を閉める。それから自分は椅子に座り、どうぞ僕は気にしないで、と言った。
 そうは言っても当然気になる訳で、貴方は誰ですか、と怪訝そうに訊いた青年は、まずは自分から自己紹介するべきでしょ、と足を組んだ杏さんに返され素直にすみません、と頭を下げた。
 自己紹介なんて必要ない、もう彼がアルベールだとわかってる。
 感動の再会なんてさっきの一瞬で終わってしまった、今はもう早く話をしたくてうずうずしている。
 そんなおれに気付いた杏さんは少し待ちなさい、と苦笑した。

「失礼しました、周りが見えなくて」

 三崎みさき有都ゆうとです、学生で、とここから電車で二十分程のところの大学名を出す。
 おれでも知ってる有名大学の三年だった。頭良かったもんな、こっちでも勉強頑張ってるんだな。
 竜騎士の時のように鍛えてる訳じゃないからだろう、アルベールより少し細い。お陰で線の細い美少年感が強くなっていた。
 話してるひとにかおを向けるのは当たり前だけれど、早くこっちを向いてほしい。
 笑ってほしい。名前を呼んでほしい、頭を撫でてほしい。
 そんなことばかりで、ここが会社だということを一瞬忘れていたくらい。

 続けるように杏さんも名乗り、アンリだと伝えると瞳を丸くしていた。おれと同じくらいの少年が自分より歳上になっていたのに驚いたのかな。
 面影がないことはないのだけれど、アルベールやレオン、母さま、そしてそっくり同じのおれと比べると、前世と姿の違いが大きいかもしれない。
 服装だとか髪型、そのひとの雰囲気、そういったものが変われば見た目の違いも出てくるものだから。
 有都さん、も、うん、大学生っぽい。
 その子はもうわかってる通りイヴだよ、とおれを指した指を辿り、おれに向いた有都さんは泣きそうなかおで笑う。
 わかってますよ、そのままだ、と震えた声を漏らして。

「……今朝、広告を観て」
「今朝?」
「すぐに会社を調べて、もう堪らなくて。アポを取るとか何も考えてませんでした、すみません」
「いや行動早いな」
「だってそういうことでしょう、あの広告」
「思ってた以上に話が早い」
「レオンさまが僕とイヴを探してくれてるんだと思ってた、レオンさまとイヴが僕を探してくれてたんだね」

 そうだよ、そう。
 いや、探すと言うよりは見つけてほしくて、あんな方法になっただけ。
 イヴとレオンならアルベールを見つけられたと思う。
 でも伊吹と玲於さんでは結局、彼に動いてもらうしかなかった。

「……今は伊吹だよ、」

 そう声を絞り出すと、彼は蕩けそうなかおで笑って名前を呼んでくれた。
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