ガールズライフ

木村 卯月

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(グッドバイからはじめよう編)

大切な人の幸せを願って③(大量出血あり)

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 理恵が倒れたのは美紀が突き飛ばした事が原因ではなく、過食嘔吐による貧血が原因だった。この後は理恵を病院へ連れて行く為に、母親の和子が迎えに来る事になっていた。
 理恵が保健室に運ばれた事を聞いて、涼子が様子を見に来てくれた。
「海野さんの様子はどうですか?」
「まだ起きない……」
「……何があったんですか?」
「……ちょっといろいろあって、海野さんと喧嘩しちゃって……最初は言い争いをしてただけなんだけど、熱くなって、あたしが海野さんの事を突き飛ばしちゃったの……そしたら海野さん、そのまま気を失って倒れちゃって……」
「……早く良くなるといいですね」
「どうしよう……全部あたしの所為だ……」
 美紀が手を出した事によって理恵は倒れた。この事実は変えられるものではなく、美紀を精神的に追い詰めていた。涼子は何も言わず、ただ無言のまま、美紀の傍らにいた。

「狩谷さん、ちょっといいですか?」
 理恵の容態を見守っている美紀の所に、担任の教師が声を掛けて来た。理恵と喧嘩した事を問い詰められると思っていたが、担任の口から出た言葉は違った。
「あなたのお母さんが来ています」
 あまりの唐突さに、美紀は戸惑ってしまった。両親との再会を願ってはいたが、何故このタイミングで来るのか。理恵が目を覚ます迄は側にいてあげたい。せめて和子が来るまで待って、謝罪だけでもしたかった。
「狩谷さん、行って下さい」
 美紀が困惑している隣で、涼子が優しい口調でそう言った。
「海野さんの事は、お母さんの事も含めてわたしに預けて下さい。この状況で気持ちを切り替えるのは難しいと思いますけど……皆の為にも、自分の為にも行って下さい」
「……ありがとう」
 美紀は感謝の意に涼子を抱擁して、保健室を出て行った。
 その後に担任の口から聞かされたのは、父が過労で入院してしまったという事だった。威勢良く保健室を出たのはいいが、やはりそう簡単に気持ちは切り替えられない。仕事の虫である父なら有り得る話だと美紀は思い、容態の事はあまり考えていなかった。

 久し振りに母、優子と対面しても美紀の気持ちは変わらなかった。それどころか今迄の苦労や会えなかった寂しさが、全部父と母の所為なのではないかと今更ながら思えてしまった。美紀は目の前の母と、素直になれない自分に憤りを感じていた。
「美紀……迷惑掛けてごめんね……」
「別に、何とも思ってないよ……」
 交わした言葉は、それだけだった。そのまま優子が運転する車で父が入院している病院へ向かった。
 車を走らせて暫くしてから、優子が現状について大まかに話し始めた。
「美紀、私達はこれから千葉の方まで行かなくちゃならないの。お父さん、そっちで入院してるから」
「……そうなんだ」
「お父さんの会社は、倒産しちゃったの。それであの家は、差し押さえられちゃったのよ。」
「……そうかも知れないって、ちょっと思ってた……」
「それで私達は今、お父さんの知り合いの伝手で千葉の四街道にいるの。ほんとに迷惑掛けて悪かったね……本当は、もう少し早く迎えに来たかったんだけど……」
「……ずっと友達のうちに泊めてもらってたから、大丈夫だよ。それに先に家を飛び出したのはあたしの方だし……」
 車を走らせている間は向き合って話をする必要もなく、周りの景色を眺めていればそこそこ気が紛れる。ぎこちない会話ではあったが、大宮から四街道に着く迄の間に少しは和解出来るのではないかと、美紀はそんな事を考えていた。
「お父さんが入院している理由はね、過労で倒れたからじゃないの……お父さんね、自分で手首を切っちゃったの……自殺しようとして……」
 突然、胸が締め付けられる様に痛み出した。美紀の頬を、温かい雫が伝う。やがて涙が、留処なく溢れ出した。
「……ごめんなさい……本当にごめんなさい……お母さん……お父さん……」
 両手で顔を覆い、蹲ったまま、美紀は泣きながら謝り続けた。
「大丈夫よ、お父さん助かったから。頑張ろうね、これから一生懸命」
 優子も釣られて涙を流したが、気丈に振る舞って美紀の事を励ました。

 優子と夫の明は知人の伝手で四街道の平屋に身を置いていたが、お互いに自分の部屋を確保して極力顔を合わせない生活を続けていた。家庭内別居を続けている場合ではない事は二人共分かっているのだが、長年続けてしまった習慣とも言えるこの生活環境を早急に打開するだけの意気地いきじがなかった。
 その日、優子が明の部屋のドアを開けたのは、話し合う意思を明確に持っていたからではなかった。虫の知らせか、何故ドアを開けたのかは本当に自分でも分からなかった。
「……あなた、何してるの……」
 それが優子の第一声だった。
 明は部屋のソファーに座ったまま、左手首から多量の出血をし、朦朧としていたが、まだ少しだけ意識があった。机の上には、血糊が付いた果物ナイフと遺書が置かれていた。明の衣服、ソファー、カーペットは既に血塗れだった。リストカットと言われている様な自傷行為とは明らかに違う。明らかに死の意思を持って実行された行為だ。その夥しい量の出血を見た時、優子はもう手遅れかも知れないと思った。しかし優子は、決して泣き崩れたりはしなかった。明の命を救う為に、考えるより先に体が動いた。
 救急車を呼んだ後、優子は明の左隣に座った。そして明の左手首にタオルを巻き付け、両手で高く持ち上げた。その行動が正しい処置なのか、考える余地はなかった。
「ねえあなた、大丈夫だからね。絶対に助かるから」
「……優子、すまなかった……」
「何を言っているのよ。今救急車呼んだから、もうすぐ来るからね」
 優子は救急車が到着するまでの間、何度も声を掛けて明を励ました。優子の手にも血が付いていたが、全く気にも留めなかった。

 医師に依る賢明な処置の結果、明は一命を取り留めた。手首の傷は静脈を切断したが、動脈には届いていなかった。
 しかし、精神科医によるカウンセリングを受ける必要があった。助かったとはいえ、一度は自殺しようとした人間だ。不安定な精神状態のままでは、もう一度実行しようとする可能性もある。
 カウンセリングが終わり、病室へ移動する為に明を乗せた担架が集中治療室から出て来た。担架の上で眠っている明の顔は、疲れ果ててやつれていた。明は移動中に一度だけ目を覚ましたが、一言「今日はもう誰にも会いたくない」とだけ呟き、精神安定剤を飲んで再び眠りに就いた。救急車で病院に運ばれたのは夕方の四時頃だったが、時間は既に夜の十字を過ぎていた。
 優子は明の元に居合わせず、廊下に出て長椅子に座っていた。そこで初めて、血が付着した遺書を開いた。その内容は咄嗟に書いた物らしく、非常に簡潔に書かれていた。

 美紀へ
 父親らしい事ができなくてすいません
 辛い思いさせてすいません
 会社の皆様へ
 迷惑を掛けてすいません
 だめな社長ですいません
 優子へ
 幸せにできなくてすいません
 最後まで一緒にいてくれてありがとう

 それを読んだ優子は、真夜中の病院の廊下で、声を抑えて泣いた。涙が流れる理由も分からなかったが、それでも涙は止まらなかった。
 翌日、優子は明の容態を確認した後、美紀を学校まで迎えに行く為に車で大宮に向かった。

「……俺は生きててもいいのか……」
 目を覚まし、明は先ず最初にそう言った。
「そうよ。そんなの当たり前じゃない。辛いからと言って、一人だけ逃れようとしても駄目なのよ。ちゃんと生きて、これから私達を支えてくれないと。ねえ、美紀」
「……美紀、お前も来てくれたのか……」
「大体の事は、私から話しました」
「そうか……美紀、お前にも迷惑掛けたな。辛い思いをさせて、本当にすまなかった。そ分の埋め合わせはこれから時間を掛けてして行くから、もう二度と黙って家を出て行ったりしないでくれ……そんな事をされたら、もう本当に生きて行けないよ……いや、今度そんな事をしたら、俺は全力で連れ戻すよ」
 美紀はなかなか明と目を合わせる事ができず、俯いたまま、首を縦に振った。
「それより随分と目が腫れてるな……嫁入り前の綺麗な顔が台無しじゃないか……」
「……あたしお嫁になんか行かないから、大丈夫だよ」
 美紀はようやく顔を上げて、笑顔で精一杯の強がりを言った。明も優子も、久し振りに親子三人で顔を合わせて笑っていた。
「それは複雑な気分だな……」
 明の笑顔を見て安堵した美紀は、廊下の長椅子で眠ってしまった。

「美紀はちゃんと、優しい子に育ってくれてたんだな。優子のおかげだよ」
「きっと友達に恵まれたんじゃないかな」
「……優子は当に大丈夫なのか?」
「何がです?」
「今回の件で俺は優子に全部押し付けて逃げようとした……その事実は変えられない」
「生きてたんだから結果オーライじゃない?寧ろ『あなたの命を救ったのは私だ』くらいに思ってるけど」
「それは間違いない」
「ちなみに遺書だったら、美紀には見せずに捨てましたからね」
「……何か優子、急に逞しくなった?」
「それはそうよ。あれだけの事を経験したんだから、少しは強くならいと。これからも辛い事なんてまだまだあるわ」
「それはそうだな」
 言っている事に偽りはないが、長年の確執が終わって当たり前の様に会話をしている事が矢も楯もたまらなかった。
「それからもう自宅の私達の部屋は、二人でひとつにしないと……美紀の部屋を作ってあげなくちゃ」
「そうだな」
「それじゃ私は美紀を送ってくるから」
 優子は名残惜しそうに明の頬にキスをして病室を去った。

 美紀は一度、一人で大宮に帰る為に四街道駅まで優子に車で送って貰った。明の付き添いを優先した結果、もう少しだけ卯月のお世話にならざるを得なかった。明の容態が落ち着き次第、優子は改めて卯月の家に挨拶に行く事になった。
「ねえ、美紀。学校、どうしようか?」
「辞めるよ」
「やっぱり美紀には合わなかったのかな?」
「ううん、別にそういう分けじゃないよ。最近は学校に行くのが楽しいし」
「……ねえ、美紀。こっちの高校に転校する事になってもいい?」
 非常に申し訳なさそうな優子の顔を見て、美紀の胸が痛んだ。
「……いいよ。でもあたしが高校に行っててお金は大丈夫なの?」
「お金だったらちゃんとあるから、大丈夫よ。いつお父さんと別れてもいいように、一人でこっそり貯めておいたの。まさかこういう形で役に立つとは、思ってもみなかったけど。それに就職する上でも高校は卒業しておいた方がいいわよ」
「そのお金は、これから生活するのに使った方がいいよ」
 優子の臍繰り金が今後の生活の為、如何に貴重な物かは美紀にも分かっていた。明の入院費用も考慮すると、自分だけが安穏と学校に通ってていいものだろうかと考えずにはいられなかった。
「私達は大丈夫よ。これからは少しずつだけど、私も働くから。それにこんな親でも、美紀には少しでも幸せになって欲しいの。私達の一番の幸せは、美紀が幸せになってくれる事だから」
「あたし前にお母さんに、随分酷い事したよ。もう愛想つかされても、しょうがないと思ってるよ」
「あなたに子供ができて、お母さんになれば分かるわ」

 駅周辺は道路が混雑しているので、美紀は手前の道路で車を降りる事になった。
「それじゃ、気を付けて」
「うん、お母さんも」
 美紀はそう言ってドアを閉めて車を離れ、やや前方で立ち止まった。そこでポケットの中から、ハンカチを取り出して広げてみせた。それは優子に貰った、ごみ箱に捨ててしまった筈の、黒色のリボンとフリルの付いたハンカチだった。優子はそれを見て、照れ臭そうに笑っていた。
 頬を指で掻いた後、優子は車を走らせた。車は、やがて街の雑踏に消えて行った。

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