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14 目が覚めると、手切れ金代わりの国宝級財宝と共に、人里に放り出されていました
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小鳥のさえずりと、湿った土の匂い。
肌を撫でる風は、あの標高数千メートルの、肺が凍りつくような鋭い冷気ではない。
生ぬるくて、酸素が濃くて、どこか物足りない風だ。
「……ん」
ゆっくりと重たい瞼を持ち上げる。
視界に映ったのは、見慣れない――いいえ、かつて見慣れていたはずの、王国の森の景色だった。
木々の隙間から差し込む木漏れ日が、やけに眩しい。
私は森の入り口にある、柔らかな苔のむした広場に横たえられていた。
「ここ……王都の近くの森?」
ガバッと上半身を起こす。
体の痛みは嘘のように消えていた。魔力による侵食の熱さも、呼吸の苦しさも、内臓が焼け付くような感覚もない。
まるで、ただぐっすりと眠った後のように体が軽い。
健康だ。あまりにも健康すぎて、逆に涙が出そうになる。
だってこの「健康」は、私の体からネロの魔力が完全に抜けきってしまった証拠なのだから。
「……ネロ?」
名前を呼んでみる。
けれど、返ってくるのは風の音だけ。
いつもならすぐに「どうした」と甘く答えてくれる低い声も、私を包み込む大きな体温も、ここにはない。
代わりに私の目に飛び込んできたのは、私の隣に置かれた、あまりにも異様な光景だった。
「な、なにこれ……」
そこには、私の愛用していたボロボロの登山用リュックと――それがゴミに見えるほどの、山のような財宝が積まれていた。
麻袋から溢れ出す、眩いばかりの金貨。
かつて失われたとされる古王国の王冠。
竜の瞳よりも大きな、拳大の最高級宝石が散りばめられた首飾りや工芸品。
どれも一つ売れば、遊んで暮らすどころか、小さな城が建つレベルの品々だ。
それが、まるでピクニックの荷物のように無造作に積み上げられている。
周囲には強力な「人払い」と「認識阻害」の結界が張られており、私以外にはこの宝の山が見えないよう配慮までされていた。
『幸せになれ、エルマ』
手紙はなかった。
けれど、この財宝の山が、どんな言葉よりも雄弁に彼の意志を語っていた。
これは手切れ金だ。
これだけの金があれば、お前は一生苦労しない。好きな研究をして、おいしいものを食べて、安全な人間の男と結婚して、幸せに暮らせるだろう。
俺のことは忘れて、人間として生きろ。
そんな、彼なりの不器用で、最大限の、そして残酷すぎる愛の形。
「……バカ」
視界が涙で滲んで、金貨の輝きが歪む。
昨夜、私が意識を失った後、彼はどんな思いで私をここまで運んだのだろう。
自分の愛が私を殺すと知って、身を引き裂かれるような思いで、眠る私にキスをして、私を手放したのだ。
「私が死なないように……守ってくれたのね」
彼の優しさが痛い。
もし私が普通の女性だったら、ここで泣き崩れて、彼の愛に感謝しながら新しい人生を歩んだかもしれない。
「竜王様との恋は、美しくて悲しい思い出だった」と、胸にしまって生きていったかもしれない。
――でも。
残念ながら、彼の番になった女は、ただの「守られるお姫様」ではなかった。
「……ふざけないでよ」
私は涙を袖で乱暴に拭うと、金貨の山を睨みつけた。
「勝手に連れ去って、勝手に抱いて、勝手に愛させておいて……最後は『人間の幸せ』を押し付けてサヨナラ? そんな理屈、私の論文じゃ通らないわよ!」
幸せの定義を、勝手に決めないでほしい。
私の幸せは、安全なベッドで寝ることじゃない。あの硬くて熱い竜の腕の中で、窒息しそうなほどの愛に溺れることなのに。
私は自分の登山リュックをひっ掴み、中身を確認した。
フィールドノート、筆記用具、着替え。中身はそのままだった。
そして――震える手で内ポケットを探る。
「……あった」
厳重に封印された、小さな試験管たち。
赤く発光する彼の血液。
濃厚な魔力を宿す彼の精液。
そして、巣の掃除で集めた、彼の硬い鱗や鋭い爪の欠片。
ネロは私の荷物をそのまま返してくれた。
彼にとっては「ガラクタ」でも、私にとっては「希望」そのものだ。
あるいは、私を遠ざけることに必死すぎて、この危険物の存在を忘れていたのかもしれない。
私は立ち上がり、森の木々の隙間から、遥か彼方に霞むアードラ山脈を見上げた。
雲を突き抜けたその先。白銀の頂。
人間には到達不可能な、神々の領域。
今の私の体では、あそこに戻ることはできない。登山道の結界に阻まれるか、辿り着く前に魔力酔いで死ぬのがオチだ。
「人間には、行けない場所。……人間には、耐えられない愛」
口に出すと、それは絶望的な響きを持っていた。
でも、不思議と涙は止まっていた。
代わりに、腹の底からふつふつと、黒くて熱い感情が湧き上がってくる。
私の口元に、自然と笑みが浮かんだ。
それは悲劇のヒロインの儚い微笑みではない。難解な数式を前にした、マッドサイエンティストの獰猛な笑みだ。
「だったら、簡単じゃない」
人間だからダメだと言うなら。
人間を、辞めてしまえばいい。
私は目の前の財宝の山を見下ろした。
彼が「人間としての幸せ」のためにくれたこの莫大な富。
皮肉なことに、これだけの資金があれば、どんなに希少な魔法素材も、禁忌とされる文献も、すべて手に入る。
「待っていなさい、ネロ。この財宝(けんきゅうひ)、ありがたく使わせてもらうわ」
私は金貨の袋を一つ掴み、残りの財宝に高度な隠蔽魔法をかけた。
まずは王都の研究所に戻ろう。
そして、この世界最高の設備と、彼がくれた莫大な資金と、私の頭脳のすべてを懸けて。
『人間を、竜の番に適合する種へと作り変える』禁断の研究を完成させるのだ。
倫理規定? 人道? そんなものは知ったことではない。
私はただ、愛する夫の元へ帰るだけなのだから。
「絶対に、諦めてあげないんだから」
私は一度だけ山に向かって強く手を振ると、迷いのない足取りで王都への道を歩き始めた。
背筋を伸ばし、一歩踏み出すたびに、弱い「人の子」の顔を捨てていく。
次に会う時は、もう守られるだけの脆い存在ではない。
貴方を組み敷いて、貴方の子供を孕んでも壊れない、最強の「番」になって会いに行く。
愛と執念の研究生活が、今、幕を開けた。
肌を撫でる風は、あの標高数千メートルの、肺が凍りつくような鋭い冷気ではない。
生ぬるくて、酸素が濃くて、どこか物足りない風だ。
「……ん」
ゆっくりと重たい瞼を持ち上げる。
視界に映ったのは、見慣れない――いいえ、かつて見慣れていたはずの、王国の森の景色だった。
木々の隙間から差し込む木漏れ日が、やけに眩しい。
私は森の入り口にある、柔らかな苔のむした広場に横たえられていた。
「ここ……王都の近くの森?」
ガバッと上半身を起こす。
体の痛みは嘘のように消えていた。魔力による侵食の熱さも、呼吸の苦しさも、内臓が焼け付くような感覚もない。
まるで、ただぐっすりと眠った後のように体が軽い。
健康だ。あまりにも健康すぎて、逆に涙が出そうになる。
だってこの「健康」は、私の体からネロの魔力が完全に抜けきってしまった証拠なのだから。
「……ネロ?」
名前を呼んでみる。
けれど、返ってくるのは風の音だけ。
いつもならすぐに「どうした」と甘く答えてくれる低い声も、私を包み込む大きな体温も、ここにはない。
代わりに私の目に飛び込んできたのは、私の隣に置かれた、あまりにも異様な光景だった。
「な、なにこれ……」
そこには、私の愛用していたボロボロの登山用リュックと――それがゴミに見えるほどの、山のような財宝が積まれていた。
麻袋から溢れ出す、眩いばかりの金貨。
かつて失われたとされる古王国の王冠。
竜の瞳よりも大きな、拳大の最高級宝石が散りばめられた首飾りや工芸品。
どれも一つ売れば、遊んで暮らすどころか、小さな城が建つレベルの品々だ。
それが、まるでピクニックの荷物のように無造作に積み上げられている。
周囲には強力な「人払い」と「認識阻害」の結界が張られており、私以外にはこの宝の山が見えないよう配慮までされていた。
『幸せになれ、エルマ』
手紙はなかった。
けれど、この財宝の山が、どんな言葉よりも雄弁に彼の意志を語っていた。
これは手切れ金だ。
これだけの金があれば、お前は一生苦労しない。好きな研究をして、おいしいものを食べて、安全な人間の男と結婚して、幸せに暮らせるだろう。
俺のことは忘れて、人間として生きろ。
そんな、彼なりの不器用で、最大限の、そして残酷すぎる愛の形。
「……バカ」
視界が涙で滲んで、金貨の輝きが歪む。
昨夜、私が意識を失った後、彼はどんな思いで私をここまで運んだのだろう。
自分の愛が私を殺すと知って、身を引き裂かれるような思いで、眠る私にキスをして、私を手放したのだ。
「私が死なないように……守ってくれたのね」
彼の優しさが痛い。
もし私が普通の女性だったら、ここで泣き崩れて、彼の愛に感謝しながら新しい人生を歩んだかもしれない。
「竜王様との恋は、美しくて悲しい思い出だった」と、胸にしまって生きていったかもしれない。
――でも。
残念ながら、彼の番になった女は、ただの「守られるお姫様」ではなかった。
「……ふざけないでよ」
私は涙を袖で乱暴に拭うと、金貨の山を睨みつけた。
「勝手に連れ去って、勝手に抱いて、勝手に愛させておいて……最後は『人間の幸せ』を押し付けてサヨナラ? そんな理屈、私の論文じゃ通らないわよ!」
幸せの定義を、勝手に決めないでほしい。
私の幸せは、安全なベッドで寝ることじゃない。あの硬くて熱い竜の腕の中で、窒息しそうなほどの愛に溺れることなのに。
私は自分の登山リュックをひっ掴み、中身を確認した。
フィールドノート、筆記用具、着替え。中身はそのままだった。
そして――震える手で内ポケットを探る。
「……あった」
厳重に封印された、小さな試験管たち。
赤く発光する彼の血液。
濃厚な魔力を宿す彼の精液。
そして、巣の掃除で集めた、彼の硬い鱗や鋭い爪の欠片。
ネロは私の荷物をそのまま返してくれた。
彼にとっては「ガラクタ」でも、私にとっては「希望」そのものだ。
あるいは、私を遠ざけることに必死すぎて、この危険物の存在を忘れていたのかもしれない。
私は立ち上がり、森の木々の隙間から、遥か彼方に霞むアードラ山脈を見上げた。
雲を突き抜けたその先。白銀の頂。
人間には到達不可能な、神々の領域。
今の私の体では、あそこに戻ることはできない。登山道の結界に阻まれるか、辿り着く前に魔力酔いで死ぬのがオチだ。
「人間には、行けない場所。……人間には、耐えられない愛」
口に出すと、それは絶望的な響きを持っていた。
でも、不思議と涙は止まっていた。
代わりに、腹の底からふつふつと、黒くて熱い感情が湧き上がってくる。
私の口元に、自然と笑みが浮かんだ。
それは悲劇のヒロインの儚い微笑みではない。難解な数式を前にした、マッドサイエンティストの獰猛な笑みだ。
「だったら、簡単じゃない」
人間だからダメだと言うなら。
人間を、辞めてしまえばいい。
私は目の前の財宝の山を見下ろした。
彼が「人間としての幸せ」のためにくれたこの莫大な富。
皮肉なことに、これだけの資金があれば、どんなに希少な魔法素材も、禁忌とされる文献も、すべて手に入る。
「待っていなさい、ネロ。この財宝(けんきゅうひ)、ありがたく使わせてもらうわ」
私は金貨の袋を一つ掴み、残りの財宝に高度な隠蔽魔法をかけた。
まずは王都の研究所に戻ろう。
そして、この世界最高の設備と、彼がくれた莫大な資金と、私の頭脳のすべてを懸けて。
『人間を、竜の番に適合する種へと作り変える』禁断の研究を完成させるのだ。
倫理規定? 人道? そんなものは知ったことではない。
私はただ、愛する夫の元へ帰るだけなのだから。
「絶対に、諦めてあげないんだから」
私は一度だけ山に向かって強く手を振ると、迷いのない足取りで王都への道を歩き始めた。
背筋を伸ばし、一歩踏み出すたびに、弱い「人の子」の顔を捨てていく。
次に会う時は、もう守られるだけの脆い存在ではない。
貴方を組み敷いて、貴方の子供を孕んでも壊れない、最強の「番」になって会いに行く。
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