鳥籠の中の幸福

岩永みやび

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鳥籠の中

3 ふたりだけの合図

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 結局、この日ジェイクは訪れなかった。次に彼が来るのはいつ頃だろうか。翌日、家にある食料を思い浮かべながら、フィリは考える。

 そろそろ本当に尽きてしまいそうな心もとない在庫に、思わずため息が漏れた。

 飢えるのは、あまり好きではない。
 仕方がないので、自力で食料を確保しなければならない。

 キッチンの隅に無造作に置かれていた短剣を手にした。これで兎でも仕留めようか。鞘を抜くと、鈍く光る銀色が現れる。これはフィリのためにとジェイクが用意してくれたものだ。時折、ジェイクが丁寧に手入れをしてくれる。ジェイクはフィリに短剣を渡したくせに、フィリがこれを使うことに難色を示す。とても苦い顔で、フィリの細腕を眺めるのだ。そのくせ手入れは怠らないジェイクの矛盾した行動に、フィリはいつも首を捻っていた。

 なんにせよ兎を狩るのは最終手段だ。フィリは狩りが苦手であった。獲物が姿を現すのをじっと待つのは苦痛ではない。けれども獲物に向けて短剣を振り下ろすのが苦痛だった。それはこの狭い鳥籠の中において、フィリが唯一「死」を強く意識する瞬間だからだ。短剣を通して伝わる肉を切り裂く感触。暴れる獲物。息絶える瞬間の痙攣。すべてが不快だった。

 初めて顔を合わせた兎の死でさえ、こんなにも不快なのだ。人間の死が溢れているという外の世界は、さぞかし不快に違いない。そう思いながらも、フィリはどこかで外の世界に興味を抱いていた。けれどもそれは許されないこと。

 短剣をもとの場所に戻して、フィリはぼんやりとした時間を過ごす。フィリの人生、時間だけは無限にあった。

 薪を集めて、部屋を掃除して、スープを作って。
 やることはいつも一緒だ。やるべき事を済ませると、途端に暇になる。そんなとき、フィリはぼんやり窓の外を眺める。ちょうど窓を眺めることのできる位置に、椅子が置いてある。特に変わり映えのしない風景を眺めて、時間を潰す。時折、鳥や虫が窓の外を通過していく。その些細な変化を期待して、今日もぼんやり外を眺めた。

 徐々に太陽が傾き始めて、夕刻を知らせる。洗濯物をさっと取り込んで、ひと息つく。

 夕食のスープを完成させて、また窓の外を眺める。すっかり暗くなった頃、フィリは窓の外に揺れ動く光を見た。髪紐で素早くひとつに銀糸を括って、立ち上がる。玄関扉の前で待機していれば、ギイッと不快な音と共に開け放たれた。

「ただいま」

 久しぶりに見るジェイクは、相変わらず綺麗な格好をしていた。無言で頷くフィリは、鍋に寄る。ちらりと横から鍋を覗き込んできたジェイクが「パンもあるぞ」と片手に抱えた布を見せてきた。

 テーブル上で布を広げるジェイク。言葉通り、パンが出てきた。

「一緒に煮るか?」

 保存用なのだろう。乾燥しきったパンは、そのまま齧るのには不向きだ。ジェイクの提案に、フィリは無言でパンに手を伸ばす。ちょっと考えた末に、力技でパンをふたつに折ろうとするが、硬くてままならない。苦戦していると、ジェイクが横からパンを奪い去ってしまった。

「ほら」

 あっさりパンをふたつに分けて見せたジェイクは、それを鍋に放り込むと椅子に座った。籠に詰め込まれた洗濯物に苦笑して、「皺になるぞ」と困ったように指摘してくる。

「二階にクローゼットがあるだろう。服はそこに仕舞うといい」
「面倒なので、このままでいいです」
「皺がひどいぞ」
「誰も見ませんから」

 肩をすくめるジェイクは、それ以上の文句は言ってこない。鍋に視線を戻したフィリは、水分を吸って柔らかくなっていくパンをじっと観察する。用意していた皿にスープをよそって、ジェイクの前に置いた。

「ありがとう」

 短く礼を言ったジェイクは、どこか上機嫌にも見えた。

 スープを無言で完食して、フィリは向かいに座るジェイクの精悍な顔立ちを眺めていた。凛々しい眉に、すっとした鼻筋。髭は綺麗に剃ってしまうのが習慣らしく、いつも身綺麗だ。短い黒髪に、同じ色の制服も相まって非常に堅苦しい雰囲気を纏っている。ジェイクが騎士をやっているということ以外、フィリは彼の詳しい生い立ちを知らない。

 戦争の最中である。呑気にお喋りしているような暇はないのだろう。おまけにジェイクは騎士である。あまり前線に赴くことはないらしいが、忙しい身の上だった。ジェイクは指揮官のような立場にいると、フィリに伝えていた。なかなかによろしい立場ゆえ、この非常時でも彼は比較的物を入手しやすい。そうして得た物資を、こっそりフィリに持ってきている。フィリがいつも清潔な服や布を手に入れられるのは、ジェイクのおかげ。

 フィリの生活は、ジェイクがいないと成り立たないのは自明のことであった。

 空になった皿を囲んで、無言の時が流れていた。

 それに終止符を打ったのはジェイク。

「フィリ」

 短く呼ばれて、フィリは自然と背筋を伸ばしていた。ジェイクはいつも、フィリのことを「きみ」と呼ぶ。名前で呼ぶのは、彼らにとっては一種の合図であった。

 無言のままに立ち上がったフィリは、ジェイクのすぐ隣に立つ。黒い上着を脱いでテーブルの隅に置いたジェイクが、座ったままにフィリを見上げた。

 フィリの細い腰に、ジェイクの逞しい腕が回される。

「フィリ。君はとても綺麗だ」

 そんな褒め言葉を吐くとき、ジェイクは決まって少々苦しそうな顔をする。眉間に皺を寄せて、なにかを堪えるように唇を噛む。しかし手つきは本当に優しくて、フィリのことを心底大事にしていることが伝わってくる。

 ジェイクの腕が、フィリを抱き寄せる。
 されるがままに寄ったフィリは、ジェイクの肩に手を置いた。互いに見つめあった後、ジェイクがふっと微笑んだ。これは上に行こうという合図だ。二階には、フィリの寝室がある。簡素なベッドと、小さなクローゼットがあるだけの飾り気のない部屋だ。

 ジェイクの先導で、二階に上がる。ギシギシと軋む階段が、このときばかりは妙に気になってしまう。

 寝室には、ベッドがひとつ。
 少し手狭ではあるが、ふたりで寝られないこともない。

 カーテンの開け放たれた窓から、月明かりが差し込んでいる。周囲には他に建物もなく、人もいない。フィリにとってのカーテンは日除けの意味しか持たない。なので夜間は開け放っているのだが、どういうわけか。ジェイクはこういうとき、やたらとカーテンを閉めたがる。ジェイクにとってのカーテンは、目隠しの意味が大きかった。もちろんここに人は来ない。頭ではそうわかっていても、ジェイクはカーテンをきっちり閉めねば落ち着かない質であった。

 暗くなった室内で、フィリは目を凝らす。

 先にベッドへ腰掛けたジェイクが、シャツを脱いでしまう。鍛え抜かれた上半身を惜しげもなく晒したジェイクは、「フィリ」と口にした。

「君の髪は綺麗だな」

 控えめに、ちょこんと隣に腰掛けたフィリの髪を撫でながら、ジェイクが言う。また苦い顔。

 フィリは、ジェイクが無理矢理に褒め言葉を捻り出しているのだと思っていた。だからそんなに苦しそうな顔をするのだと。

 けれどもジェイクは、いつも直情のままを吐露していた。表情が曇るのには、彼なりの理由があった。フィリの知らない理由が。

 細い銀糸は、さらさらとジェイクの手からこぼれていく。ほうと息を吐くジェイクは、しばらくフィリの髪を弄ぶ。髪紐は、ジェイクの手によっていつの間にか解かれていた。

「フィリ。君は綺麗な顔をしている。美人だ」

 毎度そう言われても、フィリはいまいちピンとこない。フィリは、鏡に映った自分の顔と、ジェイクの顔しか見たことがない。その他大勢の人間がどんな顔をしているのか知らない。だから綺麗と言われても、首を傾げる。平均的な人間の顔を知らないので、仕方のないことだ。

 髪を弄っていた指が、すっと下におりていく。

 フィリの白い頬をなぞり、顎先まで。

 くいと顎を持ち上げられて、ジェイクの静かに燃える瞳と視線がかちあった。ジェイクの黒い瞳の中に、フィリは確かに熱情を見た。

 薄い瞼が、黒い瞳を覆い隠した。顔に影が差す。
 つられてフィリも目を閉じた。唇に噛みつくようなキスをされる。

 角度を変えて何度も喰んでいたジェイクであるが、やがて舌先をフィリの唇の間に押し込んできた。小さく唇を開けたフィリ。熱い舌が、フィリの口内を好き勝手に蹂躙する。

 溢れた唾液が、フィリの顎を伝っていく。貪るようなキスに、ふたりは夢中になった。

 ジェイクは、フィリの育ての親である。

 それと同時に、ふたりはこの爛れた関係を少し前から続けていた。
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