鳥籠の中の幸福

岩永みやび

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鳥籠の外

24 わからない

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 詰所の一室にポツンと座っていたフィリは、人がいなくなったのをいいことに首を伸ばして室内を観察していた。

 元々好奇心は旺盛な方である。やがて我慢のできなくなったフィリは、ゆっくりと立ち上がった。なるべく音を立てないように、慎重に移動する。なにかやましいことをする予定もなかったが、なんとなくコソコソしなければという気分であった。

 室内はフィリの腰掛けていた椅子とテーブル。あとは壁際に備えつけられた本棚に書類や本が乱雑に詰め込まれていた。

 文字だ。一度だけジェイクの持ってきた料理本を思い出して、フィリは本に手を伸ばしてみた。背表紙を指でなぞってみるが、そこに書かれた文字の意味は理解できない。

 この部屋には、フィリにとって初めての物が散乱していた。ひとつひとつに視線を注いで、確認していく。どこに視線をやっても、面白かった。しばらくそうして遊んでいたフィリであったが、部屋の外で足音がした。ビクッと肩を跳ねさせて、フィリは無言で椅子に戻る。

 背筋を伸ばして、前を見つめる。何も悪いことはしていませんと言わんばかりの態度を貫いた。

 やがて足音が近付いてきて、扉がノックされた。無言で扉を凝視していると、ノブが回った。

 隙間から覗いたのは、真っ黒な髪だった。

 あ、死んでなかった。

 はじめにフィリが思ったのは、そのひと言だった。あの炎に包まれて、ジェイクはてっきり死んだものだとばかり思っていた。でも彼は死んでいなかった。今、目の前にいるのだから間違いはない。

 無言で入室してきたジェイクは「他の奴らは?」と不思議そうに首を回した。

「……火事があったと言って、出て行きました」

 少し迷った末に、フィリはそう返した。ジェイクから、フィリとジェイクはもう赤の他人だと言われていたことを思い出していた。けれども赤の他人であっても、質問されたことに答えるくらいはするだろうと思った。だからフィリは答えた。「そうか」と短く応じたジェイクは、フィリと視線を交わす。

「第一部隊から呼ばれたんだ。フィリップを連れてこいと。フィリップももうすぐ来るはずだ」

 フィリにはよくわからないことを言って、ジェイクは息を吐いた。どうやらジェイクは、フィリのことを赤の他人として扱っているらしい。

 ジェイクによると、夜の街をフラフラ歩いていたところ、慌てた様子の第一部隊員に「副長はどこですか!?」と問い詰められたらしい。あまりに焦っているようだったので、副長のフィリップに代わり、一足先にジェイクがここへ来たのだという。隊員は今頃騎士団本部に到着した頃だろうと、ジェイクは言った。

「だから、もうすぐフィリップがここへ来る」

 ジェイクの言葉に、フィリは無表情を貫いた。フィリップが来ると言われても、ピンとこない。人の名前だということは理解できたが、それだけだ。そのフィリップという人が来たところで、フィリにどういう影響があるのか。フィリには理解できなかった。

 それよりも、フィリには言いたいことがたくさんあった。ジェイクに言いたいことが、たくさんあった。

 けれども実際にジェイクを前にして、フィリは言葉が出てこなかった。赤の他人のふりをしなければならないという制約のせいだけではない。ジェイクの顔を見て、無性に安心してしまった自分がいたのだ。

 知らない世界において、なんだか出会ってしまった知っている顔。フィリが安堵するのも、無理もない話であった。

 どっかりとフィリの向かいに腰を下ろしたジェイクは、無言で足を組んだ。どうにも家で夕食を囲んでいた時のような体勢に、フィリは視線を泳がせた。なんだか居心地が良いと思ってしまった自分がいた。

「腹は減っていないか」

 唐突に、ジェイクがそう言った。もちろん腹は減っていたので、フィリはぎこちなく「減っています」と答えた。ここまで歩いてきたのだ。こんなに長い距離を歩いたのは、フィリの人生で初の出来事であった。

 おもむろに立ち上がったジェイクは、何も言わずに部屋を出て行った。しかしそれも一瞬のことで、すぐにジェイクは戻ってきた。片手に皿を持って。

「こんな物しかない」

 そう言いつつも、ジェイクの片手にあったのは温かいスープだ。僅かに目を輝かせるフィリの前に、皿が置かれた。詰所にいた騎士たちの夜食である。いい匂いに前のめりとなったフィリであったが、中身を見て固まった。

「……これは、なんですか」
「うん?」

 いい匂いではあるが、初めて見る色であった。フィリの作るスープは、水に具材を適当に放り込み、塩で味付けしたものが多い。けれども目の前にあったのは白いスープである。なにを入れたら白くなるのか。疑問に思うフィリに、ジェイクは「あぁ」と短く頷いた。

「それはシチューだな。白いのはあれだ。ミルクだ」
「ミルク」
「あぁ」

 ちらりと周囲に視線を走らせたジェイクは、誰もいないことを確認している。そうして小声でフィリに「美味いぞ」と囁いた。その悪戯っぽい仕草に、フィリは小さく笑みを浮かべた。別にシチューを美味いと言うくらいの会話、他の人間に聞かれたところで不都合はない。添えられていたスプーンを手にして、フィリはシチューを口にした。

「美味しい。味があります」
「そうか」

 ひどく懐かしいと感じた。ジェイクとあの家で別れてから、まだほんの数時間程度だろう。それなのに、フィリはひどく懐かしいと感じた。

 ジェイクの素っ気ない相槌は、フィリにとっては心地よいものだと思った。これまでは、ジェイクの素っ気ない相槌が当たり前にあって、それに対して何かを特別思ったことはない。けれどもこの数時間の間にジェイク以外の人間と接してみて、フィリはジェイクの素っ気ない相槌を初めて心地よいと感じたのだ。

 夢中でシチューを食べるフィリの姿を、ジェイクが無言で眺めていた。場所は違えど、ここはフィリにとっての鳥籠のような居心地の良さがあった。

「……君、名前は?」

 視線を外したジェイクが、淡々と問うた。
 どうやら本当に赤の他人として振る舞うつもりらしいと確信したフィリは、打ち合わせ通りに「わかりません」と答えた。

 フィリという名は、捨てなければならなかった。けれどもフィリは、それに代わる名前を持っていなかった。

「あなたは。あなたの名前は?」

 フィリの質問に、ジェイクが顔を動かした。今度は真正面から黒い瞳がフィリを捉えた。

「ジェイクだ。第二部隊長」
「第、二?」

 聞き慣れない単語に首を傾げるフィリは、空になった皿を少し名残惜しそうに見つめていた。反射的に問い返したが、あまり興味ないことを露骨に表していた。今フィリの興味は、初めて食べたシチューに注がれていた。

「それで、君は。どうしてこんなところに?」
「どうして?」

 詰所にいる理由を訊かれているのだろうか。そんなのフィリの方が知りたかった。とりあえずここに居ろと言われたので、居るだけであった。

 考え込むフィリであったが、それはすぐに中断されることになる。バタバタと慌ただしい足音が響いてきて、部屋の扉が大きく開いた。

「っ!」

 入ってきた男を見て、フィリは同じだと思った。
 細い銀髪をひとつに括っていた。自分と同じだ、と。

 ふらりと。
 覚束ない足取りでこちらに寄ってきた男は、フィリのすぐ傍で膝から崩れ落ちた。

「……ネイト?」

 か細い声が、男の喉から絞り出された。と思った次の瞬間。

「ネイトっ!」

 男が急に大声を出すのと同時に、フィリに抱きついてきた。突然のことに、フィリは固まる。固まったまま、向かいに座っていたジェイクに視線をやった。助けを求めたつもりだったのだが、ジェイクは無表情で動かなかった。

「ネイト……っ」

 銀髪の男が、フィリのことを強く抱きしめた。男は、泣いていた。なぜ男が泣いているのか、フィリにはわからなかった。
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