鳥籠の中の幸福

岩永みやび

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鳥籠の外

26 信頼

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 外の世界は、ネイトにとって数々の衝撃が待ち受けていた。

 何より一番衝撃だったのは、ネイトのことを当然のように受け入れるフィリップとクラリスの存在であった。

 ネイトを強く抱きしめて涙していたフィリップは、ネイトを自宅に連れ帰った。誰もそれに異を唱えなかった。まるでネイトがフィリップの家に帰るのが当然と言わんばかりの周囲の態度に、ネイトは内心でおおいに戸惑っていた。けれども他にあてはない。森の中にあった家が燃えたため、ネイトは住む家を失っていた。だからフィリップに「うちへ帰ろう」と言われて、特に拒絶する必要はなかった。

 ジェイクは、無関係を貫いている。
 しきりにフィリップへ「大丈夫か?」とか「手伝うことはあるか?」とか。声をかけていたが、その優しい目がネイトに向けられることはなかった。それをちょっとモヤモヤした気分で眺めるネイトは、どこか夢を見ているような心地であった。

 現実を、ネイトはまだ受け入れられていない。

 しかし彼が現実を受け入れなくとも、時は流れていく。ネイトが現状を整理し理解するのを、誰も待ってはくれないのだ。

 ネイトが連れて来られた家は、立派なものだった。「狭くてごめんね」とフィリップは控えめに言ったが、全然狭くはない。ネイトがこれまで過ごした森の家よりも随分と立派な家であった。

「疲れただろう。そこに座って。クラリスを呼んでくるから」

 フィリップに言われるがまま、ネイトはソファに腰掛けた。もう夜遅い。おそらくとっくに日付は変わっている。真っ暗な家の中に、蝋燭の灯りがゆらゆらと揺れていた。その炎を無言で眺めるネイトを残して、フィリップは二階へと上がっていく。家の中は、またもやネイトの知らないもので溢れていた。

 間を置いてから、バタバタと忙しない足音が響いてきた。二階から駆け降りてくる足音だ。

「ネイトっ……!」

 女の人だ。薄いワンピースのようなものに身を包んだ女は、ソファに座るネイトの隣に飛び乗るような勢いでやって来ると、両手でネイトの頬を包んだ。

「あぁ……! 本当にネイトなの? ネイトなのね!」

 間近で見ると、女は整った顔をしていた。蝋燭の灯りに照らされた金髪が乱れていた。どうやら慌てて起きてきたらしいとわかる。

「ネイト! ネイトっ!」

 繰り返しネイトを呼ぶ女の背後に、フィリップが立った。直後、フィリップがソファの前に膝を突いて、ネイトと女を一緒に抱きしめた。三人で身を寄せあうような姿勢に、ネイトはただただ困惑していた。しかし感動に咽び泣いている二人を前にして、その困惑を口に出せるネイトではなかった。結果、ネイトは無言で時が過ぎるのを待った。

 フィリップが、女をクラリスと呼んだ。
 フィリップとクラリス、それにネイト。三人は家族なのだと、みんなが言う。

 突然できた家族という存在を、ネイトはどのように受け止めるべきか考えた。考えたが、わからなかった。家族と言われてネイトの脳裏に浮かぶのは、ジェイクなのだ。ジェイクと同じような関係を、築けばいいのだろうか。

 ネイトは、ここで自分がどのように振る舞うべきなのか必死に考えた。二人の息子として振る舞うべきなのだろうが、ネイトは親子という関係性がいまいち理解できていなかった。

 だからとりあえず、無言を貫いた。何をやればいいのか、ネイトにはまったくわからなかったのだ。

 口を開かないネイトであるが、泣き崩れるクラリスは「よかった」と繰り返すばかりで、ネイトに対する不満を口にする気配はない。森から出てきて、フィリップの自宅に連れ込まれるこの短い時間の間に、ネイトはもう数え切れないくらいの「よかった」という言葉を貰った。それはもうたくさんの人から。

 一体何がよかったのだろうか。

 ネイトはぼんやりと考えた。たしかにネイトは、ずっと森の外に出てみたいと思っていた。けれども森の外に出てから、ネイトはずっと不安を抱えていた。手放しで「よかった!」と喜べないことが、自分でも不思議であった。

 一番は、ジェイクの存在が大きい。
 森の外に出てから、ジェイクはネイトの知っているジェイクではなくなってしまった。ジェイクの視線の先にいるのは、ネイトではなくフィリップなのだ。それが無性にモヤモヤした。

 ひとしきり泣いたクラリスは、今度はネイトの顔を眺め始めた。「こんなに大きくなって」とか。「戻ってきてくれて嬉しい」とか。一体誰に向けた言葉なのかよくわからない発言を繰り返す。いや、発言自体はネイトに向けられたものなのだろう。しかしそのネイトとは、はたして本当に自分のことなのだろうか。

 考えてみれば、おかしなことだ。
 ネイトはクラリスとフィリップのことを初めて見たのだ。それなのに、二人は彼をネイトだと信じて疑わない。たしかにネイトは、フィリップと髪の色が同じである。しかしネイトにしてみれば、それだけだ。

「……僕は、ネイトじゃない」

 考えた末に、そんな言葉を吐き出していた。自分はネイトではない。フィリなのだ。そう続けたかったが、フィリという名前はもう捨てたのだ。口にはできなかった。

 ネイトの絞り出すような主張に、フィリップが「いいんだよ」と言った。

「記憶がないのだろう? 大丈夫、君はたしかに僕らの息子だ。間違いない」

 その確信めいた言葉に、クラリスも必死で同意した。

「そうよ。あなたは私たちの息子よ。こんなにそっくりなんですもの。遠慮なんてする必要ないのよ」

 別にネイトは、遠慮しているわけではなかった。
 いつの間にか、ネイトは記憶喪失という扱いになっていた。ネイトは別に記憶がないわけではない。

 ジェイクとの暮らしは、きちんと覚えている。ネイトの記憶に、欠けた部分などない。

 しかし、わざわざ訂正するようなことでもない。それに、記憶がないという方向に誘導したのはジェイクだ。ジェイクとしては、ネイトは記憶喪失ということにするのが一番だと考えたのだろう。だったら、ネイトはそれに従うまでだ。

 もう遅いからと言われて、ネイトは二階に案内された。二階の一室を自由に使っていいと言われた。

「もともとネイトのために用意していた部屋だから。好きに使って。また明日、必要な物を買いに行こう」

 部屋にはベッドとテーブル、それに棚が置いてあった。フィリップとクラリスは、いなくなった息子のために部屋まで用意していたらしい。もう存在しない息子の部屋を維持していたのは、どういう気分なのだろうか。そしてその大事であろう部屋を、本当に自分が使っていいものなのか。部屋の入口で立ち尽くして考えるネイトのことを、先に入室していたフィリップが手招いた。静かに足を向ければ、ベッドを整えたフィリップが「ごめんね」と言った。

「突然知らない人たちに囲まれて、困ったよね。ごめんね」
「……」

 独り言にも近い呟きに、ネイトは無言を返した。

「でもね、やっぱり君は僕の息子だよ。不思議だね。僕は生まれたばかりのネイトの姿しか知らないのに、それでも君が間違いなく自分の息子だと断言できる」

 ネイトは、生まれて数ヶ月後に何者かによって連れ去られたらしい。それが真実であり、なおかつ本当にネイトが自分なのであれば、犯人は一人しかいない。

 頭に浮かんだ犯人の顔。ジェイクの無表情を思い出して、ネイトは唇を固く閉じた。

 ジェイクが自分をここから連れ出した犯人であると、ネイトはほとんど確信していた。だからネイトをフィリと呼んで、森の中に隠していたのだろうと納得できてしまった。ジェイクが吐いた嘘の数々に、納得がいった。

 けれどもそれをフィリップに教えるつもりはなかった。だってネイトは、現時点においてフィリップよりもジェイクを信頼していたから。
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