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第一章 グラス越しの再会
2話 あなたを、口説きたかった夜
しおりを挟む──その言葉を聞いた瞬間、ケイの頭に、あの頃の光景が鮮やかによみがえった。
まだ玲奈が同じ部署にいた頃。
大手取引先との合同プロジェクトで、毎日が数字とスケジュールに追われる日々だった。
その中で、ケイは誰よりも冷静に状況を見て、必要な部分だけに声を出すタイプだった。
「風間くん、ここの仕様、あと一日で変えられる?」
夕方、会議室の白い蛍光灯の下、
資料を片手に玲奈が近づいてきた。
その声色はいつもと同じ落ち着きなのに、
近くで見ると瞳の奥がわずかに焦っている。
「……できます。少し残業になりますが」
ケイが答えると、玲奈はふっと安堵したように口元を緩めた。
「助かる」
──そう短く言っただけで、また前を向く。
それから数時間後。
残業組もまばらになったオフィスで、
ケイは一人、修正作業のキーボードを叩いていた。
背後から、軽い足音。
「……おつかれ」
紙コップのコーヒーを差し出す玲奈が立っていた。
「先輩、まだ帰ってなかったんですか」
「帰れるわけないでしょ。
私、これしかできないから……こういう時、そばにいることくらい」
冗談めかして笑ったけれど、
その声には微かに本音が混ざっていた。
ケイは何も返せず、ただカップを受け取った。
飲み口から立ち上る香りが、さっきの玲奈の香水と重なって、
胸の奥に熱を落とす。
「……風間くんて、こういう時、ほんと頼りになるよね」
玲奈が背中越しにそう言った。
オフィスの照明は半分落とされ、窓際には夜景がにじんでいた。
言葉の響きだけがやけに耳に残り、
作業画面に視線を戻しても、指がわずかに止まる。
そして──あの打ち上げの日。
大きなプロジェクトが終わり、
賑やかな居酒屋の座敷は熱気と笑い声でいっぱいだった。
ケイが席を立ち、店内奥のトイレへ向かうと、
ちょうど出入口で玲奈と鉢合わせた。
「あ……」
「風間くん」
玲奈は少し笑って、手にしたハンカチで指先を押さえていた。
「氷で冷やしてたの。グラス、思いきりぶつけちゃって」
「大丈夫ですか?」
ケイの声は落ち着いていたが、
彼女の指先に残る赤みが妙に気になった。
「平気よ。ほら、私って仕事終わってもドジだから」
軽く肩をすくめた玲奈が、冗談めかして笑う。
──でも、その目は、笑っていなかった。
ふわりと漂う香水の甘さ。
ほんの一歩分の距離。
意識した瞬間、急に空気が濃くなる。
玲奈はゆっくりとケイを見上げた。
ほんのわずか、目を細めて──
そのまま、静かに言う。
「……今日のあなた、ちょっとカッコよかった」
一拍の沈黙。
「え?」
返すケイの声は、わずかに掠れていた。
「いつも頼りにしてるけど、今日は特にね。
……ずっと落ち着いてて」
指先の氷がハンカチの中で小さく鳴る。
ケイは言葉を探して口を開きかけ──でも、やめた。
あの瞳の熱を、どう受け止めればいいのか分からなかった。
「……みんな、待ってるから」
玲奈は先に視線を逸らし、ひと呼吸おいてから言った。
踵を返すその動きに、ふわっと髪が揺れる。
すれ違いざま、ケイの肩に触れた玲奈の指が──
ほんの一瞬、そこに留まった。
「……ねえ、風間くん」
その背を向けたまま、玲奈がぽつりと呟く。
「たまには、そういう顔もしていいのよ」
振り返る前に、玲奈はすっと歩き出す。
その背中を見送りながら、ケイは動けずにいた。
──もし、あの時、言葉にしていたら。
何かは、確かに変わっていた。
でもケイはただ、あの“空気”を、
「気づかなかったふり」で通り過ぎた。
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