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研究室
しおりを挟むとにかく広い、陳腐だか単純にそんな感想しか出てこないほどにワーズ研究所は大規模な施設だった。
現実で目の当たりにして思うのは、もはや欠片も知りもしない場所だということ。『MLS』の粗末なグラフィックや背景画では表現しきれなかった、全くの別物といえる。
自分が蟻にでもなったような気になる。造形豊かであるのも起因して、エマはソワソワと落ち着かないでいた。
見事な回廊を歩きながら、辺りを見回す。
王宮のような派手な煌びやかさはないが、重厚感の中に繊細な装飾が施された造り。
どこか陰鬱とした雰囲気が漂うのは、太陽が昇る時間ではないからか。はたまた、学者という人種の集まる場は、自ずとそんな雰囲気を纏うのか。
なんにせよ全体を把握するまでかなり時間が掛かりそうだ。
宿舎棟と食堂は通り掛かりに案内されたが、今いる場所から一人で迎えと言われても簡単にはいかないだろう。
はぐれたら一巻の終わりだとエマは必死にフェリクスに付いて歩いた。
彼の脚の長さたるや。忌々しいほどの歩幅の差を、トテトテと必死で埋めるエマであった。
/
「ここが造形科の研究室──なんだけど…」
弱々しく語尾を窄めたフェリクスの言いたいことは明白だった。
汚い。
すこぶる、汚い。
辿り着いたのは魔法造形科の研究室──跡地である。
今日はもう借部屋で休んだ方がと言われたが、どうにも好奇心が先走るので案内してもらったのだ。
吹き抜け構造になっている大部屋で、更に小部屋へ続くのだろう扉が幾つかある。
広さだけなら申し分ない。
しかし、一面埃だらけで天井には蜘蛛の巣の飾り付けがこれでもかと施され、側面に並ぶ大窓はどれもくすんで外が見えない。
水場を横断していった黒い虫は見なかったことにしたい。
枯れた魔法植物、放置された実験容器なども散乱している。
つまるところ、目も当てられない汚部屋だった。
「はぁ……ここまで手付かずだとは……」
フェリクスは呆れたように言う。
「すみません、一先ず違う部屋を──」
そう言いかけた彼の肩に、手が掛かった。
ぎょっとするエマを他所に、フェリクスは振り返らずとも何事かわかった様子で、瞬時に顔を青ざめさせた。
「先生、溜まってます。溜まってますよ、お仕事が」
彼の背後にゴーストのように纏わりついたのは、恐らく彼の下で働く研究員なのだろう。
薬を必要としているのは彼自身なのでは、と思うほどの顔色である。
「まずは来週の講義資料の最終確認からお願いします」
「やります、やりますよ、やりますけどぉ……」
「はいお願いします」
「あ~~~」
あまりの暗々とした雰囲気にエマが後退っている間に、フェリクスはズリズリと引き摺られ、強制連行されていった。
「ごめんなさいエマさん、僕はここまでのようです……こちら、宿舎の鍵です」
キン、と音を立てて投げ渡されたのは、二本の鍵が通った鍵束。
「詳しいことはまたお伝えしますので」
それでは~、という言葉を最後に、彼の姿は見えなくなった。
一人取り残されたエマは呆然と立ち尽くしたまま、どうしたものかと思う。
キョロキョロと辺りを見回してみるが、各研究室間にはたっぷりと距離が取られているそうで、人っ子一人いない。
エマは途端に地面から数センチ浮いたような気になった。
不安である。
しばらくの間俯いてから、意を決したように顔を上げ、
「まぁ、まずは、掃除」
そうして、埃の絨毯が敷き詰められた大部屋へと、足を踏み入れた。
/
掃除は得意な方だ。
なんたって前世、雑用事務として働いた経験がある。
「おりゃーーーーー!」
エマはモヤモヤとした雑念やら不安やらから逃げるように掃除に没頭していた。
吸引と圧縮の魔法を繰り返して部屋の埃を一掃すれば、淀み切っていた部屋の空気が正常なものになった。
窓という窓を開け放ち、
「どりゃーーーーー!」
隅々にまでモップを掛け、
「《洗浄》ーーー!」
水場は流水を駆使してピカピカに洗い上げた。
大部屋一帯が生まれ変わるまでノンストップで動き続けたエマは、掃除が終わる頃には電池が切れたように机に突っ伏していた。
少し張り切りすぎてしまったかもしれない。全身を襲う疲労感から、そんなことを思う。
ぺたりと部屋の真ん中に置かれた大机に頬を付け、その冷たさにほっと息を吐いた。
本来の艶を取り戻したアンティークテーブルは上質な木材で作られた一級品で、よくよく見れば本棚も、作業台も、ガラス瓶の一つ一つでさえ、放置しておくには勿体ないほどのものだった。
そして、どれも年季の入った代物だ。
元の住人のこだわりや物持ちの良さなどが、触れるもの全てから伝わってくるようで、何だか心地が良かった。
「今度は私が使わせてもらうね」
テーブルを撫でながら小さく呟き、そのままうとうとと微睡んだ。
あまりの汚さに即刻取り掛かってしまったが、思えばもう夜も深くなる。
『一応部屋はあるけど、僕は研究室に篭ることがほとんどですね』
というフェリクスの言葉を聞いて、自分もそうなるだろうなぁ、と思ったエマである。
来て早々だが、もうここで寝てしまおうか。
幸いなことに浴室もある。缶詰め上等といった設計だ。
それはエマにとって僥倖であった。
(色々、買い揃えよう……)
閉じこもる気満々なのである。
物語に関わらないように、主役たちの邪魔をしないように。
──自分が死んでしまわないように。
エマは抗うことなく目蓋を落として眠りについた。
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