アンダンテ・メトロノーム

古城乃鸚哥

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 青井茉白あおいましろは、相変わらずまた一人でキャンパス内をうろうろしていた。先日オーケストラ部の新歓コンサートに行った後、心の中では即入部を決めていた。今夜は初めて練習日に部室に行く日だ。
 あの日、抜群の存在感を放っていたオーボエ奏者と、楽器体験の時に話をした。楽器が上手い、という印象が強いせいか、演奏していなくても、どことなく佇まいが毅然として見えていた。
 それでも、話してみると口調は穏やかで、とても丁寧に接してくれる人だった。人見知りで、初対面のしかも異性と話すことに苦手意識をもっていた茉白だが、その緊張を解すような優しさがあった。
『練習は週三日、月水金の夜六時半からやっているよ』
 いつでも来られる時に来てほしい。
 彼はにこやかに言っていた。それが一昨日の月曜日のことだ。
 その彼を、キャンパス内で見かけた。カフェテリアで、食器を下げる集まりの中で談笑している。
 あの人だ、と思って惚けていたら、目があった。よもや気づくまいと思って、それでも反射的に目を逸らしてしまった。相手がこちらのことを気づいていれば失礼かもしれないが、たった一度、楽器体験で話しただけだ。しかも向こうにしてみれば、茉白は何人もいた体験希望者のうちの一人でしかない。
 顔を上げないように、茉白はテラス席へ出ようとした。お昼は食費を浮かせるために弁当を作って持ってきている。テーブルと椅子のある食事をとっていい場所は、テラス席しか茉白はまだ知らない。
「青井さん」
 心臓が跳ね上がった。声をかけられたこと、その声に聞き覚えがあることに驚いた。食堂のざわめきの中、一瞬どこから呼ばれたのかわからず、顔を上げ声の主を探して挙動不審になる。
「青井さんだよね、名前、間違ってないよね」
 見つけた彼は、斜め後ろにいた。向けられる微笑みに同じものを返せる自信がない。それでも、愛想悪くならないように、できるだけ口角を上げた。
「青井です、まちがってないです」
 それよりも、よく名前を覚えてましたね。
 なんて、そんなことまで言えるはずもない。
「突然ごめんね。俺はオケ部の黒川です。覚えているかな」
 丁寧に名乗られた。柔らかな微笑み付きで。茉白はもちろんです、と大きく頷く。
「オーボエの」
 しかし、言葉はつっかえてそれ以上出てこない。
「そう、覚えていてくれてよかった。危うくただのナンパになるところだった」
 冗談めかして黒川は言うが、茉白は何も気の利いた言葉は返せなかった。
「ところで、今日は練習日なんだけど、青井さん来る?」
 もちろん行きます。
 心の中では即答したが、口は素直に動かない。
「行きたいと、思ってます」
「そうか、よかった。うち、部室は一番端の区画のさらに端だから、ちょっと不便だと思うけど。俺は六時くらいにはいると思うから、早めに来てくれても大丈夫だよ。もちろん遅れても大丈夫だけど」
そう言う黒川は、一瞬茉白を通り越した遠くを見た。何か、もしくは誰か見つけたようだ。だが、すぐに茉白に視線を戻した。
「ダブルリードとしては、俺と、あとファゴットに二回生の子がいるだけなんだ。経験者が入部してくれるとすごく嬉しいよ。まあ、小さな楽団だけどね」
 茉白はやっぱり返す言葉に詰まる。黒川はそれに困るでもなく、気を悪くするでもない。
「青井さん、これからお昼かな」
「そうです」
「そうか。呼び止めてごめんね。それじゃあまた、夜に」
 軽やかに手を上げて、黒川はテラス席の方へ去って行った。
 茉白は、彼についていくような形になるのが憚られて、行くつもりのなかったトイレへと足を向けた。
 誰もいないトイレで手を洗って、鏡を見て、大きく息をつく。
 緊張、した。
 まさか、話しかけられるとは思ってもみなかったうえに、名前まで覚えてくれていた。そのことに感激して茉白は、まだ黒川のことをよく知りもしないのに、この大学生活では彼についていこう、などと一人奮起した。
 そうこうしてテラスへ出る。午後の講義がそろそろ始まる時間のためか、席はだいぶ空いていた。だからこそ、黒川が誰かと話しているのをまた見つけてしまったが、今度こそは見つからないように、と茉白は黒川から離れた場所に座った。
 自分も、あとどれくらいかしたら、一緒にご飯を食べる友達ができるかな。
 などと思いながら、冷めてもおいしい具材を詰めた弁当を一人つつき始めた。
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