アンダンテ・メトロノーム

古城乃鸚哥

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 憂鬱な面持ちを隠しもせず、瀬尾はファゴットを吹いていた。オーケーストラ部の楽器ごとの練習は、講義後の空き教室を使っている。ダブルリード楽器として同じパートに属するオーボエとファゴットは、202教室を宛てがわれていた。
 そして、瀬尾の後ろでは、黒川がオーボエの入部希望生にオケ部の諸事を話して聞かせているところだ。
 瀬尾も去年は、黒川から最初に部費や練習場所などの説明を受けた。当時からオーボエは一人しかおらず、入部希望者も瀬尾以外いなかった。
 瀬尾は、後ろの二人を気にしないように、と思っていたが、音に集中すると意外と自分の世界に入り込めた。
 瀬尾の課題はたくさんあった。
 音がまっすぐ伸ばせないこと。
 音が長く伸ばせないこと。
 音がきれいに切れないこと。
 すぐ口が疲れること。
 どれも黒川の教えを受けているが、暦の長い彼のようにすんなりとはいかない。
 これまでは、付きっきりでいろいろ教えてもらえていたが、新入部員が来れば、しかもそれがオーボエならなおさら、黒川はきっとそちらに時間を割く。瀬尾はそれが、嫌だった。
「裕翔」
 はっとして吹くのをやめ、瀬尾は振り返った。やっと気づいた、と黒川が笑いながら手招きする。
「裕翔、おまえ、新人さんの名前、覚えてないだろう?」
 部室から教室に移動する前に、顔合わせ程度に名前を交わしたが、指摘された通り瀬尾は彼女の名前を覚えていなかった。覚える気がなかった、というほうが正しい。もしかしたら、ボロの部室を見て入部を辞退するかもしれないし、そうしたら人一人の名前を覚えるために使うニューロンを別の何かに使える。特に当てはないけれど。
「おれのだって、覚えてないでしょ」
 当然そうだよねという目で、奈摘が小動物みたいと称した入部希望の女子を見た。わからなくはない。ざっくりとした栗毛を無造作に後ろで束ねている垢抜けない風貌は、なるほど、両手でひまわりの種でも回してかじってそうな印象だ。
「瀬尾さん、ですよね。確か」
 彼女はか細い声で答えた。
 覚えてるのかよ、という心の悪態が露骨に顔に出たのか、一瞬ひるんだ表情を見せた小動物女子だが、それ以上の反応はない。
「瀬尾さんですよ。あってるよ。覚えてなくてごめんなさい」
 棘のないように、努めて平坦に瀬尾は答えた。触れたら壊れそうな儚げ女子は、苦手だった。
「あの、青井です。よろしくお願いします」
 よろしくお願いするの。入部、するの。
 勢いよく頭を下げて、瀬尾の第二波をかわした彼女に、瀬尾は浅い会釈を返す。
「よろしくおねがいされました」
「青井茉白さんというんだ。茉白って、いい名前だよな」
 安穏と黒川は瀬尾に微笑んで見せる。茉白の隣に立っている彼からは、瀬尾の歓迎しているとは言い難い表情が見て取れるはずだが、特に指摘されるでもないことを瀬尾は意外に思った。
「青井さんは高校でもオーボエを吹いていたんだっけ」
「はい。でも、高校では吹奏楽部で……オーケストラは初めてです」
「そうか。オケといっても、普段はアンサンブルみたいな活動規模だから、そうかしこまらなくても大丈夫さ」
 なあ、と黒川から同意を求められても、瀬尾の表情は動かない。
「そういうものかな、おれにはよくわからないけど」
「裕翔はこう見えても、大学からオケを始めたんだ。まだ一年経つか経たないかくらい」
「オケどころか、楽器も初心者だし」
 終始にこやかな黒川に、瀬尾は変わらず憮然としていた。そこへ茉白が目を丸くして口元に手をやる。
「そうなんですか。すごく綺麗な音だから、経験者の方かと」
 なんだか、調子が狂う。
 いつもは黒川と二人だった空間に、きらきらとした目の小動物が紛れ込んでいる。これから先、この空気感が日常になるかと思うと、背筋が冷え固まって動けなくなりそうだ。
「きれいって、おれ音伸ばしてただけなんだけど」
 茉白の目から顔を背けて、瀬尾は呟く。
「ロングトーンだけでも、良し悪しはあるさ。裕翔は良い音だよ、本当に」
 音は、と強くもう一度付言した黒川に、「念押ししなくてもわかってるよ」と弱く噛みついた。
「でもまあ、そういうことだから。おれ、あんまりいろいろ知らないから。音楽のセオリーみたいなの」
 自分でも何の意図でそんなことを言ったのかよくわからなかったが、茉白も何と返答したものかわからないのか黙ったままだった。
 そんなふうにどこか噛み合わない世間話をしながらその日の練習を終え、部室に帰る足で茉白は入部を宣言した。
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