6 / 10
1-5
しおりを挟む
憂鬱な面持ちを隠しもせず、瀬尾はファゴットを吹いていた。オーケーストラ部の楽器ごとの練習は、講義後の空き教室を使っている。ダブルリード楽器として同じパートに属するオーボエとファゴットは、202教室を宛てがわれていた。
そして、瀬尾の後ろでは、黒川がオーボエの入部希望生にオケ部の諸事を話して聞かせているところだ。
瀬尾も去年は、黒川から最初に部費や練習場所などの説明を受けた。当時からオーボエは一人しかおらず、入部希望者も瀬尾以外いなかった。
瀬尾は、後ろの二人を気にしないように、と思っていたが、音に集中すると意外と自分の世界に入り込めた。
瀬尾の課題はたくさんあった。
音がまっすぐ伸ばせないこと。
音が長く伸ばせないこと。
音がきれいに切れないこと。
すぐ口が疲れること。
どれも黒川の教えを受けているが、暦の長い彼のようにすんなりとはいかない。
これまでは、付きっきりでいろいろ教えてもらえていたが、新入部員が来れば、しかもそれがオーボエならなおさら、黒川はきっとそちらに時間を割く。瀬尾はそれが、嫌だった。
「裕翔」
はっとして吹くのをやめ、瀬尾は振り返った。やっと気づいた、と黒川が笑いながら手招きする。
「裕翔、おまえ、新人さんの名前、覚えてないだろう?」
部室から教室に移動する前に、顔合わせ程度に名前を交わしたが、指摘された通り瀬尾は彼女の名前を覚えていなかった。覚える気がなかった、というほうが正しい。もしかしたら、ボロの部室を見て入部を辞退するかもしれないし、そうしたら人一人の名前を覚えるために使うニューロンを別の何かに使える。特に当てはないけれど。
「おれのだって、覚えてないでしょ」
当然そうだよねという目で、奈摘が小動物みたいと称した入部希望の女子を見た。わからなくはない。ざっくりとした栗毛を無造作に後ろで束ねている垢抜けない風貌は、なるほど、両手でひまわりの種でも回してかじってそうな印象だ。
「瀬尾さん、ですよね。確か」
彼女はか細い声で答えた。
覚えてるのかよ、という心の悪態が露骨に顔に出たのか、一瞬ひるんだ表情を見せた小動物女子だが、それ以上の反応はない。
「瀬尾さんですよ。あってるよ。覚えてなくてごめんなさい」
棘のないように、努めて平坦に瀬尾は答えた。触れたら壊れそうな儚げ女子は、苦手だった。
「あの、青井です。よろしくお願いします」
よろしくお願いするの。入部、するの。
勢いよく頭を下げて、瀬尾の第二波をかわした彼女に、瀬尾は浅い会釈を返す。
「よろしくおねがいされました」
「青井茉白さんというんだ。茉白って、いい名前だよな」
安穏と黒川は瀬尾に微笑んで見せる。茉白の隣に立っている彼からは、瀬尾の歓迎しているとは言い難い表情が見て取れるはずだが、特に指摘されるでもないことを瀬尾は意外に思った。
「青井さんは高校でもオーボエを吹いていたんだっけ」
「はい。でも、高校では吹奏楽部で……オーケストラは初めてです」
「そうか。オケといっても、普段はアンサンブルみたいな活動規模だから、そうかしこまらなくても大丈夫さ」
なあ、と黒川から同意を求められても、瀬尾の表情は動かない。
「そういうものかな、おれにはよくわからないけど」
「裕翔はこう見えても、大学からオケを始めたんだ。まだ一年経つか経たないかくらい」
「オケどころか、楽器も初心者だし」
終始にこやかな黒川に、瀬尾は変わらず憮然としていた。そこへ茉白が目を丸くして口元に手をやる。
「そうなんですか。すごく綺麗な音だから、経験者の方かと」
なんだか、調子が狂う。
いつもは黒川と二人だった空間に、きらきらとした目の小動物が紛れ込んでいる。これから先、この空気感が日常になるかと思うと、背筋が冷え固まって動けなくなりそうだ。
「きれいって、おれ音伸ばしてただけなんだけど」
茉白の目から顔を背けて、瀬尾は呟く。
「ロングトーンだけでも、良し悪しはあるさ。裕翔は良い音だよ、本当に」
音は、と強くもう一度付言した黒川に、「念押ししなくてもわかってるよ」と弱く噛みついた。
「でもまあ、そういうことだから。おれ、あんまりいろいろ知らないから。音楽のセオリーみたいなの」
自分でも何の意図でそんなことを言ったのかよくわからなかったが、茉白も何と返答したものかわからないのか黙ったままだった。
そんなふうにどこか噛み合わない世間話をしながらその日の練習を終え、部室に帰る足で茉白は入部を宣言した。
そして、瀬尾の後ろでは、黒川がオーボエの入部希望生にオケ部の諸事を話して聞かせているところだ。
瀬尾も去年は、黒川から最初に部費や練習場所などの説明を受けた。当時からオーボエは一人しかおらず、入部希望者も瀬尾以外いなかった。
瀬尾は、後ろの二人を気にしないように、と思っていたが、音に集中すると意外と自分の世界に入り込めた。
瀬尾の課題はたくさんあった。
音がまっすぐ伸ばせないこと。
音が長く伸ばせないこと。
音がきれいに切れないこと。
すぐ口が疲れること。
どれも黒川の教えを受けているが、暦の長い彼のようにすんなりとはいかない。
これまでは、付きっきりでいろいろ教えてもらえていたが、新入部員が来れば、しかもそれがオーボエならなおさら、黒川はきっとそちらに時間を割く。瀬尾はそれが、嫌だった。
「裕翔」
はっとして吹くのをやめ、瀬尾は振り返った。やっと気づいた、と黒川が笑いながら手招きする。
「裕翔、おまえ、新人さんの名前、覚えてないだろう?」
部室から教室に移動する前に、顔合わせ程度に名前を交わしたが、指摘された通り瀬尾は彼女の名前を覚えていなかった。覚える気がなかった、というほうが正しい。もしかしたら、ボロの部室を見て入部を辞退するかもしれないし、そうしたら人一人の名前を覚えるために使うニューロンを別の何かに使える。特に当てはないけれど。
「おれのだって、覚えてないでしょ」
当然そうだよねという目で、奈摘が小動物みたいと称した入部希望の女子を見た。わからなくはない。ざっくりとした栗毛を無造作に後ろで束ねている垢抜けない風貌は、なるほど、両手でひまわりの種でも回してかじってそうな印象だ。
「瀬尾さん、ですよね。確か」
彼女はか細い声で答えた。
覚えてるのかよ、という心の悪態が露骨に顔に出たのか、一瞬ひるんだ表情を見せた小動物女子だが、それ以上の反応はない。
「瀬尾さんですよ。あってるよ。覚えてなくてごめんなさい」
棘のないように、努めて平坦に瀬尾は答えた。触れたら壊れそうな儚げ女子は、苦手だった。
「あの、青井です。よろしくお願いします」
よろしくお願いするの。入部、するの。
勢いよく頭を下げて、瀬尾の第二波をかわした彼女に、瀬尾は浅い会釈を返す。
「よろしくおねがいされました」
「青井茉白さんというんだ。茉白って、いい名前だよな」
安穏と黒川は瀬尾に微笑んで見せる。茉白の隣に立っている彼からは、瀬尾の歓迎しているとは言い難い表情が見て取れるはずだが、特に指摘されるでもないことを瀬尾は意外に思った。
「青井さんは高校でもオーボエを吹いていたんだっけ」
「はい。でも、高校では吹奏楽部で……オーケストラは初めてです」
「そうか。オケといっても、普段はアンサンブルみたいな活動規模だから、そうかしこまらなくても大丈夫さ」
なあ、と黒川から同意を求められても、瀬尾の表情は動かない。
「そういうものかな、おれにはよくわからないけど」
「裕翔はこう見えても、大学からオケを始めたんだ。まだ一年経つか経たないかくらい」
「オケどころか、楽器も初心者だし」
終始にこやかな黒川に、瀬尾は変わらず憮然としていた。そこへ茉白が目を丸くして口元に手をやる。
「そうなんですか。すごく綺麗な音だから、経験者の方かと」
なんだか、調子が狂う。
いつもは黒川と二人だった空間に、きらきらとした目の小動物が紛れ込んでいる。これから先、この空気感が日常になるかと思うと、背筋が冷え固まって動けなくなりそうだ。
「きれいって、おれ音伸ばしてただけなんだけど」
茉白の目から顔を背けて、瀬尾は呟く。
「ロングトーンだけでも、良し悪しはあるさ。裕翔は良い音だよ、本当に」
音は、と強くもう一度付言した黒川に、「念押ししなくてもわかってるよ」と弱く噛みついた。
「でもまあ、そういうことだから。おれ、あんまりいろいろ知らないから。音楽のセオリーみたいなの」
自分でも何の意図でそんなことを言ったのかよくわからなかったが、茉白も何と返答したものかわからないのか黙ったままだった。
そんなふうにどこか噛み合わない世間話をしながらその日の練習を終え、部室に帰る足で茉白は入部を宣言した。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる