優しい君に恋をする~この関係、気にしないではいられない、だけど、それでも

芙月みひろ

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5.ご褒美がほしい

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 期末テストを数日後に控えたその日、理玖はいつも以上に熱心だった。教科書とノートを閉じ、シャープペンを置いた時には、二時間近くが経過していた。

「先生、ごめんね。いつもより遅くなっちゃった」
「大丈夫よ。気にしないで」

 筆記用具などを片づけ始めた私に、理玖が心配そうな声で訊ねる。

「この後、用事があったりしなかった?」
「いつもと同じく帰るだけよ。それよりも、今日はずいぶんと頑張ったわね」
「だって周りに証明しないといけないでしょ」
「証明って何を?」 

 理玖はにっと笑う。

「塾に行かなくても、先生が教えてくれているから大丈夫だってこと」
「そう思ってもらえて光栄だわ」

 苦笑する私に理玖はあははと笑い、両腕を上げてぐんと体を伸ばした。

「でも、さすがにちょっと疲れたかな」

 そこへ控えめなノックの音と理玖の名を呼ぶ声が聞こえてきた。

「母さんだ。いつもより遅いから様子を見に来たんだな」
「私、すぐに帰るわね」

 カバンをつかんで私はそそくさと椅子から立ち上がろうとした。しかしそれを理玖が止める。

「そんなに急がなくても大丈夫だよ」

 彼は私に笑いかけ、ドアの所まで立って行く。
 開けたドアの向こうから、友恵の声が聞こえた。

「あぁ、理玖。今終わったの?」
「うん。たった今終わったとこ。教えてもらいたいことが色々あったから。気づいたら、だいぶ時間オーバーしちゃってた」
「そうだろうなとは思ったんだけどね。もう少しかかるのかしらと思って、一応ね、様子を見に来たのよ」

 二人の会話を背中で聞いていた私は、荷物を手にして理玖の傍まで行く。

「あの、遅くなって申し訳ありませんでした。すぐに帰りますので」

 頭を下げる私に、友恵はおっとりと微笑んだ。

「お疲れ様でした。理玖は先生の言うことをちゃんと聞いて、真面目に勉強しているかしら」
「はい。いつも、とても集中して取り組んでいます」
「そうですか。ありがとうございます。前回の中間テストなんて、それまでと比べてはるかに良かったものねぇ」

 友恵はしみじみと言う。
 その様子にほっとして、私は改めて暇乞いを告げる。

「それでは、これで失礼します。理玖君、また来週」

 しかし友恵に引き留められる。

「先生、ちょっと待って。あのね、今日この後ですけど、急いで帰らなきゃいけませんか?」
「いえ、特には……」

 いつも乗って帰る電車は、実はすでに行ってしまった後で、駅で少々時間を潰すことになりそうだった。
 友恵が笑顔を浮かべる。

「もし良かったらなんだけど、晩御飯、うちで食べて行きませんか?」
「えっ。いえ、それは申し訳ありませんので……」
 
 土屋家に来るようになってから、理玖だけではなく、彼の母である友恵ともそれなりに親しくなった。しかし誘われたからと言って、夕食に同席するのは図々しいだろうと遠慮が先に立つ。
 私の心の中を読んだらしく、理玖がにこにこしながら言った。

「遠慮はいらないよ。うちの普段の夕飯って、父さんが仕事で遅いから、俺と母さんの二人なんだ。だから、たまにはいつもと違う顔ぶれで食事するのは、俺たちも嬉しいんだよ。そうだよね、母さん?」

 理玖の言葉に友恵は大きく頷く。

「えぇ。この子ったら、晩ご飯を食べ終えた後はいつもさっさと部屋に入っちゃってね。全然私の話相手になってくれないから、つまらないの。だから先生、もしこの後はお家に帰るだけなら、ぜひ一緒にどうぞ」

 両親はこの春から家を離れていた。父の転勤先に母も着いて行ったのだ。そのため現在は、大学生の私と弟の二人で一軒家に暮らしている。普段からそれぞれ適当に作って食べることにしていたから、弟には連絡さえ入れておけば問題はない。しかし本当にお邪魔していいのかと迷う。

「家の方が大丈夫なら、ぜひ食べて行ってよ。帰りは駅までちゃんと送るからさ」

 理玖と友恵は、期待に満ちた顔で私の返事を待っている。
 あまり頑なに断るのも失礼かと思い直し、私はその誘いをありがたく受けることにした。

「それじゃあ、お言葉に甘えて」

 理玖たちは嬉しそうに顔を見合わせた。
 そのまま皆で階下に降りて、ダイニングらしい部屋に向かった。

「私もお手伝いします」
 
 しかしそれはすぐに却下された。

「いいからいいから。先生はこっちに座ってて」

 理玖が私のために椅子を引いて待っている。
 申し訳ないと恐縮しながら、私は椅子に腰を下ろした。
 今日は和食なのよと言いながら、友恵は理玖に手伝わせてテーブルに料理を並べ始めた。
 料理を運び終えた理玖と友恵が席に着く。

「それじゃあ、頂きましょうか」

 母が父の転勤に着いて行ってからの我が家の食卓は、地味だった。久しぶりに味わう彩のいい手料理はとても美味しく、私の目とお腹は十二分に満たされた。
 食べ終えた後、せめて後片付けくらいはさせてほしいと申し出たが、受け入れてもらえなかった。ゆっくりしていてと二人に口々に言われ、浮かしかけた腰を再び椅子の上に戻した。
 結局食後のお茶まで頂いてしまい、私は時計を見てはっとした。さすがにもう帰宅すべき頃合いだ。私は食事の礼を言って席を立つ。
 理玖が友恵に言う。

「先生のこと、駅まで送ってくる」
「そうね、もう暗いからね。少し長くお引き止めしちゃったわね」
「じゃあ、このまま行ってくる」
「あの、一人で大丈夫なので」

 私に気を使わせないようにとの心遣いなのか、理玖は笑顔を見せる。

「腹ごなしに少し歩きたいんです」

 友恵がダイニングテーブルの脇に立ち、にっこりと笑う。

「先生、私はここで失礼しますね。また来週お待ちしています」

 私はもう一度丁寧に礼を言い、廊下に出ていた理玖の後を追った。
 玄関を出た私たちは肩を並べて歩きながら、家の前の通りに出た。
 駅に向かって歩き出し、彼の家が見えなくなった辺りで、私は少し長めのため息をつく。
 それを聞きつけた理玖が申し訳なさそうに言う。

「いきなり一緒にご飯だなんて、緊張したよね」
「あっ、ち、違うの」

 私は慌てて説明する。

「そうじゃなくて、お母様のお料理が本当に美味しくて、大満足だったっていう意味のため息だから」
「ほんとに?それならいいんだけど……」

 理玖は気遣うように続ける。

「うちの母さん、料理とかお菓子作りとか好きなんだけど、お客さんをもてなすのも大好きなんだ。だから、無理に付き合わせることになったんじゃないかと思ってさ。母さんだけじゃなくて、俺までぐいぐい引き留めちゃったから、本当は断りにくかったんじゃない?」

 街灯の灯りだけの中、私は首を大きく横に振る。

「付き合わされたなんて思っていないわ。それに、本当に無理ならはっきり断っていたもの。それにね、本当に美味しかった。誘って頂いてありがたかったです」
「なら良かった。まど香先生、すごくおいしそうに食べてたよね。母さんも嬉しそうだったな。ってことは、また誘われるかもしれないけど大丈夫?」
「それは嬉しいわ」

 お世辞ではなく心からの言葉である。言ってから私は足を止めた。駅はもう目の前だ。

「もうここで大丈夫よ。わざわざ送ってくれてありがとう。また来週ね。期末の勉強、頑張って」
「うん」
「それじゃあ。理玖君も気をつけて帰るのよ」

 くるりと背を向けて歩き出そうとした時、理玖が言った。

「まど香先生にお願いがあるんだけど」
「お願い?」
「うん。あのさ、今度のテストでいい点が取れたら、まど香先生からのご褒美がほしいんだ」
「ご褒美?」
「ほら、誕生日プレゼント代わりってことで」
「誕生日プレゼント?」

 理玖の誕生日は二月十四日だ。その頃はまだ、今のように気楽な関係ではなかったから、祝いの言葉を伝えて終わりだった。

「もうずいぶんと時間がたったけど」
「理由はなんでもいいんだよ。頑張るためのニンジンがほしいってこと」
「ふぅん……」

 その先にあるご褒美を楽しみにして、いっそうモチベーションが上がるというなら悪くはないとは思う。しかしそれなら、私からの褒美ではなくてもいいような気がする。

「自分でほしいものを買うんじゃだめなの?」
「さっき言ったでしょ?まど香先生からのご褒美がほしい、って」
「まぁ、いいけど……」

 理玖の強い口調に押されたようになり、結局私は頷く。
 
「それなら条件を出さないとね。五教科全科目で七十点以上だったら、っていうのはどう?」
「え、五教科全科目?それはちょっとハードル高くない?」

 私は小首を傾げて彼を見上げた。

「そうでもないと思うけどな。全教科全科目じゃないし、七十点以上だよ?最近の理玖君なら、問題なくクリアできると思うのよね。本当は、目標を八十点以上に設定したいところを我慢して、七十点って言ったの。ご褒美を求めるんなら、それくらいは頑張ってほしいな」
「えぇ……」

 理玖は不満そうに顔をしかめたが、私はその目標値を下げるつもりはない。

「どうする?」

 私に問いかけられて、理玖は諦めたように深々と息を吐いた。私が示した条件を飲むことにしたらしい。駅から届いてくる灯りの中でもそれと分かる程、彼は真剣な顔で言う。

「分かった、その目標で頑張る。だから、先生は俺へのご褒美、絶対約束してよ?」
 いったい何を欲しいと言われるのかと、その表情に思わず身構えてしまう。

「可能な範囲内で、だからね」
「もちろんさ。で、それはいいってことだよね?約束だよ」
「分かった。約束する」

 私はこくんと頷き、続いて彼に念を押した。

「五教科全科目、七十点以上だからね」
「うん。俺、頑張るから」

 決意を表すかのように理玖は胸元で拳を握り、ふと何かを思いついたような顔をする。
 
「もしもだけど、八十点以上取れたらご褒美二倍もらえる?」

 私は目を瞬いた。

「二倍?二つっていう意味?」
「そう」
「五教科全科目で、ってこと?」
「ん~、そこは要相談ってことで」
「そうねぇ。じゃあ全教科の平均が八十点以上っていうのはどう?」

 彼の現在の成績では少し難しいかもしれないと思いつつ、そんな条件を出す。
 渋るだろうと思っていたが、理玖は力強く頷いた。
 
「分かった。まだ時間はあるから頑張ってみる」

 やる気に満ちた理玖が微笑ましい。私は笑顔で彼を励ました。

「テストまであともう少しだけど頑張って。健闘を祈ってるわ。それじゃあ、私、もう行くね。理玖君も家まで気をつけて帰るのよ」
「うん、ありがとう。じゃあ、また……」

 私たちは笑顔で手を振り合い、それぞれの行くべき方向に足を向けた。
 私は駅舎に向かい、改札を抜ける。人の流れに合わせてホームに向かう途中で、バッグの中でスマホが鳴った。急いで壁の方に寄り、バッグの中からスマホを取り出す。恋人の岡部俊一からメッセージが入っていた。

『明日、友達が遊びに来ることになったから会えない。だから別の日に変更で』

 その文面を見た途端に、気持ちが萎んだ。明日は俊一の誕生日。お祝をしようと、夕方から会う約束をしていたのだ。
 同い年の俊一とは昨年の秋頃に、アルバイト先のファーストフード店で出会った。
 気づいた時には一緒にいる時間が多くなっていた。彼を好きだと自覚した頃に彼から告白され、もちろん迷わず頷いた。あの時の照れくさそうな俊一の顔は、今でもはっきりと思い出せる。
 交際当初は頻繁に会い、外でのデートを重ねた。次第に一人暮らしの俊一の部屋で過ごす時間が増え、肌を合わせるようになっていった。蜜月ともいえるその頃、彼に対する不安など微塵も感じることはなかった。ところが二か月ほど前から、約束をしていても「急に会えなくなった」とキャンセルのメッセージを送ってくることが多くなった。理由は「友達と急に会うことになった」とか、「急用ができた」だった。あまりの多さに怪しまなかったわけじゃない。けれど俊一を信じたかった私はその連絡を受ける度に、友達というのは男友達だ、急用だって仕方がないのだと、自分に言い聞かせてきた。
 しかし、明日は彼の誕生日。恋人同士にとって互いの誕生日は特別な日だと思っていたのは、私だけだったのか。その特別な日に会う予定の友達は、本当にただの友達なのか。まさか彼に限ってと打ち消そうとする一方で、一度浮かび上がった疑念が大きくなるのを止められなくなる。
 私は最近も訪ねたばかりの彼の部屋の様子を思い浮かべた。記憶にある限り、そこに私以外の女の痕跡らしいものはなかったはずだ。そこでようやく、どうやら考えすぎだったらしいと胸を撫で下ろし、彼のアルバイトのシフトを思い出しながらメッセージに返信する。

『土曜日は?』

 さほど待つことなく「大丈夫だ」と返事が返ってきた。それを見てほっとする。

『夕方から行くね』

 メッセージを送り終えた時、アナウンスが入った。間もなく電車がホームに入ってくるようだ。私はスマホを握り締めたまま、駆け足でホームに向かった。
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