6 / 18
6・あの夜を思い出して
しおりを挟む
矢嶋の後に続き黙々と歩きながら、私は彼の背中をにらんでいた。
仕事場なのだから、さすがに彼も社会人として真っ当な態度で接してくるだろうと思っていた。それなのに、あのおかしな呼び方をするなんてと、怒りがむくむくと沸き起こっていた。辻がいたあの場では恥ずかしさの方が先に立って黙ってしまったが、やはり文句の一つも言わないと収まらない気分だ。
その気持ちが念となって届いたのか、私の前を歩いていた矢嶋が不意に立ち止まった。ついさっきまでの不機嫌そうな顔はどこへ行ったのか。振り返った彼は私の顔をしげしげと見てにやりと笑った。
「いつにも増して、ますますいい感じの大きなたこ焼きが乗っかってるじゃないか」
この前は無駄にいい声で私の名前を呼んだくせに、とさらに腹が立つ。
「いい加減に……!」
その先の言葉は飲み込んだ。廊下の向こう側から、局内の人と思われる一団がやってきたのだ。すれ違いざまに矢嶋と挨拶を交わしていくその中に、ぽうっと熱に浮かされたような目で矢嶋を見ている女性がいた。通りすがりに彼女は私に怪訝な目を向けたが、そこにあったのは敵意かあるいは嫉妬のようなものだったと思う。
そういう視線を向けられたのは、その時だけではなかった。スタジオに着くまでの間に出会った妙齢の女性たちのほとんどが、矢嶋の後ろを着いて歩く私をじろじろと見ては顔をしかめた。その表情は皆こう言っていた。
―― どうしてあんなのが矢嶋さんと一緒にいるのよ。
しかし私は心の中でふふんと嗤う。
黙ってさえいれば、この人、かっこいいものね。でも残念でした、性格がとっても悪いんだから――。
私はそんな風に思いながら、彼女たちの視線をやり過ごした。
人とすれ違うことがなくなり、しばらく行った一画で矢嶋が足を止めた。
「たこ焼きちゃん、着いたぞ。ここだ」
「私、そんな名前じゃありませんってば!」
「そんなに怒った顔するなよ。俺がいじめてでもいるみたいじゃないか」
「人が嫌がることを言ったりするのは、れっきとしたいじめですよ」
「ふぅん」
「ふぅん、って……」
飲み会の席でしかしたことのないようなやり取りを、まさか職場でもすることになるとは思っていなかった。
手応えのない反応に呆れていると、矢嶋は見るからに重たそうなドアを開けて、私を中へ促した。
「入って」
「はい……」
薄暗い部屋に恐る恐る足を踏み入れた私は、きょろきょろと辺りに目をやった。
続いて入って来た矢嶋は扉を閉めて私のすぐ後ろに立ち、壁際にあるスイッチを押した。部屋の中がぱっと明るくなる。彼は私の傍を通り抜けて、もう一枚の扉を開け、奥の部屋へ向かった。
「こっち」
彼に促されて入った部屋は窓が大きく切られていて、そこから外の景色が見えた。楕円形のテーブルがあって、その周りに座り心地の良さそうな椅子が数客置かれている。廊下側と思われる壁の一部には分厚そうなガラスが入っていて、その向こう側からスタジオ内の様子を見ることができるようだ。
「ここがスタジオ。今入ってきた方がマスタールームだ。あそこにある機材を使って放送するわけだな。技術さんの仕事だ。ディレクターもあそこから色々と指示を出したりする。仕事内容は、辻さんからもう聞いたんだよな。バイトの子も一緒だし、大丈夫だろう。分からないことがあったら、その場でバイトの子か辻さんに聞いてくれ。――マスタールームに戻ろうか」
そう言って彼は私の先に立って、ラジオスタジオを出た。
「ここでリクエストの電話を取ってもらって、メモしたそれを辻さんが目を通す。で、あとはアトランダムに選んで流すって感じだな。何か質問はあるか?」
辻の説明を聞いた時もそうだったが、これはもう実際にやってみるしかないと思っている。
「今のところは特にありません。とりあえずは、よろしくお願いします」
仕事の話だからだろう。矢嶋が真面目に説明してくれたから、私も真面目な顔で答えて頭を下げた。いつもこうなら彼に苛立つこともないのに、と心の中で思う。
「ところで、今日はこれでもう終わりでしょうか?私、もう戻ってもいいですよね?」
「まぁ、そう言わず、もう少し話そうぜ」
「話?」
二人きりなのをいいことに、いつものようにまた色々と、私をからかおうとでも言うのか。
「仕事の話なら聞きますが」
「仕事以外の話はだめなのか?」
「その場合は、また飲み会の時にでも、ということで。あぁ、でも、先輩の傍にはいつものように、できるだけ近寄らないように気を付けるつもりですけどね。じゃあ、私、失礼します」
くるりと背を向けて、出入り口の扉に手をかけた。ノブを回そうとした時、背後に矢嶋が立った。
「俺と二人になるのは嫌?」
頭の上から降って来た彼の声にどきりとした。突然何を言い出したのかと困惑する。私は振り返ることなく、大きくため息をついた。
「この前は不可抗力でしたけど、できれば二人きりになんて、なりたくないですね。だって、先輩はいつだって私をからかうだけだから」
矢嶋は私の進路をふさぐかのようにすっとドアの前に移動した。
いつものように意地悪なことでも言い出すのだろう身構えた。
しかし、彼が口にしたのは、私がここで働き始めたことへの疑問だった。
「この前はものすごく驚いたよ。あんな所でたこ焼きちゃんに会うなんて思っていなかったから。なぁ、いつからここで働き始めたんだ?この前市川から初めて聞いたけど、お前、派遣で働いているんだってな。俺がここにいるってことは、知っていたはずだよな。それなのに、ここの仕事を受けたのか?嫌いな俺に会ってしまうかもしれないって思わなかったのか?」
どうしていちいちそんなことを聞くのかと苛立ち、反発心が生まれた。そのせいで、ここが職場だということを忘れてしまい、私は反抗的な態度を取る。
「それはもちろん思いましたよ。だけど、背に腹は代えられないっていうか、ここのお給料、他と比べると断然いいんです。だから決めただけです。ところで、わざわざ私を番組の手伝いになんて言い出したのは、私をからかって職場でのストレスを解消しようとでも考えたからですか?それとも後輩の私なら、自分の言うことを何でも聞くだろうと思ったから?いずれにしても、仕事ならきちんとやらせていただきますけど、先輩も社会人としてちゃんと常識的な態度で私に接してくださいね」
気づけば私はつらつらと思いつくままに、しかもけんか腰で言葉を並べてしまっていた。一時的にせよ、これから定期的に仕事で顔を会わせることになるのに、そんな言い方をすべきではなかったと後悔する。
私の態度に驚いたのか、それとも腹を立てたのか、恐る恐る見た矢嶋の表情は固まっていた。
低い声が自嘲気味に言う。
「お前にとっての俺って、相当イヤなやつなんだな」
これまでの私なら間髪入れずに、その通りだと返していただろう。しかし、いっとき気持ちが揺らいだことがあったその時を思い出し、言葉が濁る。
「でも先輩だって、私のことが嫌いですよね。だからいつも名前も呼んでくれない……」
「それは……」
矢嶋は苦々しい声で言った。
「嫌いだったら、お前を俺の番組になんて、考えるわけがないだろ」
「は……?」
私は矢嶋の顔をまじまじと見た。
「嫌いだったら、あの時の飲み会で、泥酔したお前をわざわざ部屋まで運んだりもしない」
「でも、あれは……。誰かに頼まれて仕方なくですよね?それに後輩だから……」
「違う。仕方なくじゃないし、後輩だからっていう理由だけじゃない」
矢嶋が私を真っすぐに見た。
よそ見は許されないような気がして、私はやむを得ずその目を見返した。彼と視線を合わせながら、前にもこんなことがあったと思い出し、急に落ち着かない気分になった。
「たこ焼きちゃんは、俺に『お前のことは嫌いだ』って言わせたいのか?」
「言わせたいのかって、そんな……。言いたいのなら、そう言えばいいじゃないですか」
「言えるわけないだろ」
矢嶋は私から視線を外そうとしない。
意味深なその視線をまともに受けて、私の鼓動は騒ぎ出した。小刻みな音の響きを持て余しながら、彼の言葉の意味を考えた。答えのようなものが浮かび上がってきそうになったが、そんなはずがないとそれを意識の底の方に沈める。いつの間にか会話がおかしな方向に流れている。それを止めたいと思った私は、あえて淡々として言った。
「とにかく、私のことは、ちゃんと名前で呼んでください。記憶力が悪い先輩のために改めて言いますけど、私の名前は川口夏貴ですから」
矢嶋は目を瞬いた。
「この流れを切るのか……。まぁ、いい」
愉快そうにくくっと笑い、彼は私の前に軽く身をかがめた。
「お前の名前、覚えているに決まってるだろ。この前の夜だってちゃんと呼んでやったじゃないか。夏貴って」
「あんなのは……」
ただの気まぐれでしょ――。
そう言おうとして結局口をつぐむ私の頭に、矢嶋はぽんと手を乗せた。
「とりあえず、明後日から早速よろしくな、夏貴。いや、川口さん。これから少しずつ仲良くなろうぜ。それと、ここでは俺のことも、『先輩』をつけて呼ばなくいい。辻さんと同じようにな」
彼が目元をゆるめて私を見た。その瞬間、いつもは憎たらしいとしか思えなかった彼の整った顔立ちが急に甘いものに見えて、心が揺れた。
「さて、そろそろ戻るか」
矢嶋は扉を開けて私が動き出すのを待っている。
その顔に浮かぶ微笑みに、どきりとした。動揺したのを悟られたくなくて、私はうつむき加減で彼の前を通り抜けた。その時、覚えのある香りが鼻先をふわりとかすめる。彼に部屋まで運んでもらった夜に嗅いだ香りだと思ったら、鼓動が再びうるさくなり始めた。
ここには仕事をしに来ているのにーー。
八つ当たりだと分かっていながらも、私は自分を動揺させる矢嶋に腹が立った。
仕事場なのだから、さすがに彼も社会人として真っ当な態度で接してくるだろうと思っていた。それなのに、あのおかしな呼び方をするなんてと、怒りがむくむくと沸き起こっていた。辻がいたあの場では恥ずかしさの方が先に立って黙ってしまったが、やはり文句の一つも言わないと収まらない気分だ。
その気持ちが念となって届いたのか、私の前を歩いていた矢嶋が不意に立ち止まった。ついさっきまでの不機嫌そうな顔はどこへ行ったのか。振り返った彼は私の顔をしげしげと見てにやりと笑った。
「いつにも増して、ますますいい感じの大きなたこ焼きが乗っかってるじゃないか」
この前は無駄にいい声で私の名前を呼んだくせに、とさらに腹が立つ。
「いい加減に……!」
その先の言葉は飲み込んだ。廊下の向こう側から、局内の人と思われる一団がやってきたのだ。すれ違いざまに矢嶋と挨拶を交わしていくその中に、ぽうっと熱に浮かされたような目で矢嶋を見ている女性がいた。通りすがりに彼女は私に怪訝な目を向けたが、そこにあったのは敵意かあるいは嫉妬のようなものだったと思う。
そういう視線を向けられたのは、その時だけではなかった。スタジオに着くまでの間に出会った妙齢の女性たちのほとんどが、矢嶋の後ろを着いて歩く私をじろじろと見ては顔をしかめた。その表情は皆こう言っていた。
―― どうしてあんなのが矢嶋さんと一緒にいるのよ。
しかし私は心の中でふふんと嗤う。
黙ってさえいれば、この人、かっこいいものね。でも残念でした、性格がとっても悪いんだから――。
私はそんな風に思いながら、彼女たちの視線をやり過ごした。
人とすれ違うことがなくなり、しばらく行った一画で矢嶋が足を止めた。
「たこ焼きちゃん、着いたぞ。ここだ」
「私、そんな名前じゃありませんってば!」
「そんなに怒った顔するなよ。俺がいじめてでもいるみたいじゃないか」
「人が嫌がることを言ったりするのは、れっきとしたいじめですよ」
「ふぅん」
「ふぅん、って……」
飲み会の席でしかしたことのないようなやり取りを、まさか職場でもすることになるとは思っていなかった。
手応えのない反応に呆れていると、矢嶋は見るからに重たそうなドアを開けて、私を中へ促した。
「入って」
「はい……」
薄暗い部屋に恐る恐る足を踏み入れた私は、きょろきょろと辺りに目をやった。
続いて入って来た矢嶋は扉を閉めて私のすぐ後ろに立ち、壁際にあるスイッチを押した。部屋の中がぱっと明るくなる。彼は私の傍を通り抜けて、もう一枚の扉を開け、奥の部屋へ向かった。
「こっち」
彼に促されて入った部屋は窓が大きく切られていて、そこから外の景色が見えた。楕円形のテーブルがあって、その周りに座り心地の良さそうな椅子が数客置かれている。廊下側と思われる壁の一部には分厚そうなガラスが入っていて、その向こう側からスタジオ内の様子を見ることができるようだ。
「ここがスタジオ。今入ってきた方がマスタールームだ。あそこにある機材を使って放送するわけだな。技術さんの仕事だ。ディレクターもあそこから色々と指示を出したりする。仕事内容は、辻さんからもう聞いたんだよな。バイトの子も一緒だし、大丈夫だろう。分からないことがあったら、その場でバイトの子か辻さんに聞いてくれ。――マスタールームに戻ろうか」
そう言って彼は私の先に立って、ラジオスタジオを出た。
「ここでリクエストの電話を取ってもらって、メモしたそれを辻さんが目を通す。で、あとはアトランダムに選んで流すって感じだな。何か質問はあるか?」
辻の説明を聞いた時もそうだったが、これはもう実際にやってみるしかないと思っている。
「今のところは特にありません。とりあえずは、よろしくお願いします」
仕事の話だからだろう。矢嶋が真面目に説明してくれたから、私も真面目な顔で答えて頭を下げた。いつもこうなら彼に苛立つこともないのに、と心の中で思う。
「ところで、今日はこれでもう終わりでしょうか?私、もう戻ってもいいですよね?」
「まぁ、そう言わず、もう少し話そうぜ」
「話?」
二人きりなのをいいことに、いつものようにまた色々と、私をからかおうとでも言うのか。
「仕事の話なら聞きますが」
「仕事以外の話はだめなのか?」
「その場合は、また飲み会の時にでも、ということで。あぁ、でも、先輩の傍にはいつものように、できるだけ近寄らないように気を付けるつもりですけどね。じゃあ、私、失礼します」
くるりと背を向けて、出入り口の扉に手をかけた。ノブを回そうとした時、背後に矢嶋が立った。
「俺と二人になるのは嫌?」
頭の上から降って来た彼の声にどきりとした。突然何を言い出したのかと困惑する。私は振り返ることなく、大きくため息をついた。
「この前は不可抗力でしたけど、できれば二人きりになんて、なりたくないですね。だって、先輩はいつだって私をからかうだけだから」
矢嶋は私の進路をふさぐかのようにすっとドアの前に移動した。
いつものように意地悪なことでも言い出すのだろう身構えた。
しかし、彼が口にしたのは、私がここで働き始めたことへの疑問だった。
「この前はものすごく驚いたよ。あんな所でたこ焼きちゃんに会うなんて思っていなかったから。なぁ、いつからここで働き始めたんだ?この前市川から初めて聞いたけど、お前、派遣で働いているんだってな。俺がここにいるってことは、知っていたはずだよな。それなのに、ここの仕事を受けたのか?嫌いな俺に会ってしまうかもしれないって思わなかったのか?」
どうしていちいちそんなことを聞くのかと苛立ち、反発心が生まれた。そのせいで、ここが職場だということを忘れてしまい、私は反抗的な態度を取る。
「それはもちろん思いましたよ。だけど、背に腹は代えられないっていうか、ここのお給料、他と比べると断然いいんです。だから決めただけです。ところで、わざわざ私を番組の手伝いになんて言い出したのは、私をからかって職場でのストレスを解消しようとでも考えたからですか?それとも後輩の私なら、自分の言うことを何でも聞くだろうと思ったから?いずれにしても、仕事ならきちんとやらせていただきますけど、先輩も社会人としてちゃんと常識的な態度で私に接してくださいね」
気づけば私はつらつらと思いつくままに、しかもけんか腰で言葉を並べてしまっていた。一時的にせよ、これから定期的に仕事で顔を会わせることになるのに、そんな言い方をすべきではなかったと後悔する。
私の態度に驚いたのか、それとも腹を立てたのか、恐る恐る見た矢嶋の表情は固まっていた。
低い声が自嘲気味に言う。
「お前にとっての俺って、相当イヤなやつなんだな」
これまでの私なら間髪入れずに、その通りだと返していただろう。しかし、いっとき気持ちが揺らいだことがあったその時を思い出し、言葉が濁る。
「でも先輩だって、私のことが嫌いですよね。だからいつも名前も呼んでくれない……」
「それは……」
矢嶋は苦々しい声で言った。
「嫌いだったら、お前を俺の番組になんて、考えるわけがないだろ」
「は……?」
私は矢嶋の顔をまじまじと見た。
「嫌いだったら、あの時の飲み会で、泥酔したお前をわざわざ部屋まで運んだりもしない」
「でも、あれは……。誰かに頼まれて仕方なくですよね?それに後輩だから……」
「違う。仕方なくじゃないし、後輩だからっていう理由だけじゃない」
矢嶋が私を真っすぐに見た。
よそ見は許されないような気がして、私はやむを得ずその目を見返した。彼と視線を合わせながら、前にもこんなことがあったと思い出し、急に落ち着かない気分になった。
「たこ焼きちゃんは、俺に『お前のことは嫌いだ』って言わせたいのか?」
「言わせたいのかって、そんな……。言いたいのなら、そう言えばいいじゃないですか」
「言えるわけないだろ」
矢嶋は私から視線を外そうとしない。
意味深なその視線をまともに受けて、私の鼓動は騒ぎ出した。小刻みな音の響きを持て余しながら、彼の言葉の意味を考えた。答えのようなものが浮かび上がってきそうになったが、そんなはずがないとそれを意識の底の方に沈める。いつの間にか会話がおかしな方向に流れている。それを止めたいと思った私は、あえて淡々として言った。
「とにかく、私のことは、ちゃんと名前で呼んでください。記憶力が悪い先輩のために改めて言いますけど、私の名前は川口夏貴ですから」
矢嶋は目を瞬いた。
「この流れを切るのか……。まぁ、いい」
愉快そうにくくっと笑い、彼は私の前に軽く身をかがめた。
「お前の名前、覚えているに決まってるだろ。この前の夜だってちゃんと呼んでやったじゃないか。夏貴って」
「あんなのは……」
ただの気まぐれでしょ――。
そう言おうとして結局口をつぐむ私の頭に、矢嶋はぽんと手を乗せた。
「とりあえず、明後日から早速よろしくな、夏貴。いや、川口さん。これから少しずつ仲良くなろうぜ。それと、ここでは俺のことも、『先輩』をつけて呼ばなくいい。辻さんと同じようにな」
彼が目元をゆるめて私を見た。その瞬間、いつもは憎たらしいとしか思えなかった彼の整った顔立ちが急に甘いものに見えて、心が揺れた。
「さて、そろそろ戻るか」
矢嶋は扉を開けて私が動き出すのを待っている。
その顔に浮かぶ微笑みに、どきりとした。動揺したのを悟られたくなくて、私はうつむき加減で彼の前を通り抜けた。その時、覚えのある香りが鼻先をふわりとかすめる。彼に部屋まで運んでもらった夜に嗅いだ香りだと思ったら、鼓動が再びうるさくなり始めた。
ここには仕事をしに来ているのにーー。
八つ当たりだと分かっていながらも、私は自分を動揺させる矢嶋に腹が立った。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】育てた後輩を送り出したらハイスペになって戻ってきました
藤浪保
恋愛
大手IT会社に勤める早苗は会社の歓迎会でかつての後輩の桜木と再会した。酔っ払った桜木を家に送った早苗は押し倒され、キスに翻弄されてそのまま関係を持ってしまう。
次の朝目覚めた早苗は前夜の記憶をなくし、関係を持った事しか覚えていなかった。
契約結婚のはずなのに、冷徹なはずのエリート上司が甘く迫ってくるんですが!? ~結婚願望ゼロの私が、なぜか愛されすぎて逃げられません~
猪木洋平@【コミカライズ連載中】
恋愛
「俺と結婚しろ」
突然のプロポーズ――いや、契約結婚の提案だった。
冷静沈着で完璧主義、社内でも一目置かれるエリート課長・九条玲司。そんな彼と私は、ただの上司と部下。恋愛感情なんて一切ない……はずだった。
仕事一筋で恋愛に興味なし。過去の傷から、結婚なんて煩わしいものだと決めつけていた私。なのに、九条課長が提示した「条件」に耳を傾けるうちに、その提案が単なる取引とは思えなくなっていく。
「お前を、誰にも渡すつもりはない」
冷たい声で言われたその言葉が、胸をざわつかせる。
これは合理的な選択? それとも、避けられない運命の始まり?
割り切ったはずの契約は、次第に二人の境界線を曖昧にし、心を絡め取っていく――。
不器用なエリート上司と、恋を信じられない女。
これは、"ありえないはずの結婚"から始まる、予測不能なラブストーリー。
この溺愛は契約外です~恋焦がれた外科医から愛し愛されるまで~
水羽 凛
恋愛
不幸な境遇を生きる健気な女性花名は母親の治療費と引き換えに外科医である純正の身の回りの世話をすることになる。恋心を隠せない花名に純正は……。
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
同期の姫は、あなどれない
青砥アヲ
恋愛
社会人4年目を迎えたゆきのは、忙しいながらも充実した日々を送っていたが、遠距離恋愛中の彼氏とはすれ違いが続いていた。
ある日、電話での大喧嘩を機に一方的に連絡を拒否され、音信不通となってしまう。
落ち込むゆきのにアプローチしてきたのは『同期の姫』だった。
「…姫って、付き合ったら意彼女に尽くすタイプ?」
「さぁ、、試してみる?」
クールで他人に興味がないと思っていた同期からの、思いがけないアプローチ。動揺を隠せないゆきのは、今まで知らなかった一面に翻弄されていくことにーーー
【登場人物】
早瀬ゆきの(はやせゆきの)・・・R&Sソリューションズ開発部第三課 所属 25歳
姫元樹(ひめもといつき)・・・R&Sソリューションズ開発部第一課 所属 25歳
◆表紙画像は簡単表紙メーカー様で作成しています。
◆他にエブリスタ様にも掲載してます。
定時で帰りたい私と、残業常習犯の美形部長。秘密の夜食がきっかけで、胃袋も心も掴みました
藤森瑠璃香
恋愛
「お先に失礼しまーす!」がモットーの私、中堅社員の結城志穂。
そんな私の天敵は、仕事の鬼で社内では氷の王子と恐れられる完璧美男子・一条部長だ。
ある夜、忘れ物を取りに戻ったオフィスで、デスクで倒れるように眠る部長を発見してしまう。差し入れた温かいスープを、彼は疲れ切った顔で、でも少しだけ嬉しそうに飲んでくれた。
その日を境に、誰もいないオフィスでの「秘密の夜食」が始まった。
仕事では見せない、少しだけ抜けた素顔、美味しそうにご飯を食べる姿、ふとした時に見せる優しい笑顔。
会社での厳しい上司と、二人きりの時の可愛い人。そのギャップを知ってしまったら、もう、ただの上司だなんて思えない。
これは、美味しいご飯から始まる、少し大人で、甘くて温かいオフィスラブ。
俺と結婚してくれ〜若き御曹司の真実の愛
ラヴ KAZU
恋愛
村藤潤一郎
潤一郎は村藤コーポレーションの社長を就任したばかりの二十五歳。
大学卒業後、海外に留学した。
過去の恋愛にトラウマを抱えていた。
そんな時、気になる女性社員と巡り会う。
八神あやか
村藤コーポレーション社員の四十歳。
過去の恋愛にトラウマを抱えて、男性の言葉を信じられない。
恋人に騙されて借金を払う生活を送っていた。
そんな時、バッグを取られ、怪我をして潤一郎のマンションでお世話になる羽目に......
八神あやかは元恋人に騙されて借金を払う生活を送っていた。そんな矢先あやかの勤める村藤コーポレーション社長村藤潤一郎と巡り会う。ある日あやかはバッグを取られ、怪我をする。あやかを放っておけない潤一郎は自分のマンションへ誘った。あやかは優しい潤一郎に惹かれて行くが、会社が倒産の危機にあり、合併先のお嬢さんと婚約すると知る。潤一郎はあやかへの愛を貫こうとするが、あやかは潤一郎の前から姿を消すのであった。
シンデレラは王子様と離婚することになりました。
及川 桜
恋愛
シンデレラは王子様と結婚して幸せになり・・・
なりませんでした!!
【現代版 シンデレラストーリー】
貧乏OLは、ひょんなことから会社の社長と出会い結婚することになりました。
はたから見れば、王子様に見初められたシンデレラストーリー。
しかしながら、その実態は?
離婚前提の結婚生活。
果たして、シンデレラは無事に王子様と離婚できるのでしょうか。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる