意地悪な美声は愛を囁く~簡単には堕ちたくありません~

芙月みひろ

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7・お仕事スタート

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「それじゃあ川口さん。金曜日からよろしく」
「は、はい。こちらこそよろしくお願いします」

 階段の所で簡単な言葉を交わして私は矢嶋と別れた。
 偶然にもこの時そこにいたのは私たちだけだったが、それでも彼は私を名字で呼んだ。呼ばれ慣れなくて背中がざわざわしたが、もうあの変な呼び名に悩まされることはないと思っていいのだろうかと、ちらと期待が浮かぶ。
 彼の後ろ姿が見えなくなってから、なんとなく物足りなさを感じた。どうしてそんな気持ちになるのかと、自分自身を訝しむ。まさか例の呼び名になじんだわけでもあるまいと自分に呆れた。これからはちゃんと名前で呼んでくれるのならそれでいい。

 戻ろう――。

 私は階段に足をかけ、編成広報局のあるフロアに向かった。自分の席に戻るか戻らないかのタイミングで佐竹に呼ばれる。

「川口さん、お帰りなさい。戻って早々でごめんなさい。B社向けの原稿なんですけど、今日中に作って先方に送ってもらえるかな?いつも通りいったん私がチェックするので、五時までお願いします」
「分かりました」

 佐竹から原稿用の資料を受け取り、今度こそ席に着こうとした時、彼女に引き留められた。

「川口さんって、今度から矢嶋さんの番組のお手伝いをするんですってね。私、今朝は用があっていなかったから、さっき局長から聞いたばかりなのよ」
「はい。しばらくの間ということでお話がありまして、担当の方たちと打ち合わせをしてきました」
「へぇ、そうなんだ」

 佐竹の眉が寄せられ、その顔がわずかに歪んだように見えて、私は緊張した。
 私がラジオの手伝いをする間、仕事の配分を考え直すと局長が言っていたから、そのことに不満があるのかもしれない。普段の私は佐竹の手伝いをすることが多かったから、その分彼女に負担がかかる可能性があった。
 私は彼女に詫びるように言った。

「すみません。その間は今までのように、佐竹さんのお仕事を手伝えないこともあるかもしれませんが……」

 しかし佐竹は笑いながら肩をすくめた。

「だけど、そんなに長いことじゃないんでしょ?代わりのバイトさんが見つかるまでって聞いているわ。それよりも、川口さんの方があっちもこっちもで大変そうね。頑張ってね」

 そう言って彼女はにっこりと笑う。
 そんな彼女の様子にほっとして、私も笑みを返した。

「この金曜日から午前中抜けることになりますが、よろしくお願いします」

 そうしていよいよその第一日目がやってきた。
 今日から矢嶋の番組を手伝うわけだが、朝目覚めた時からそわそわして落ち着かなかった。
 仕事の内容についてはすでに説明を受けている。一緒に番組を手伝うことになるアルバイトの子とは、昨日の夕方のうちに顔を合わせることができていて、自己紹介がすんでいた。それでもどきどきするのは、今まで経験したことのない初めての仕事だからだろう。
 番組開始は十時。その三十分前までには、マスタールームに来るようにと言われていた。
 私は局長や佐竹をはじめとする周りのメンバーに断りを入れて、急ぎ足でスタジオのあるフロアに向かった。恐る恐るマスタールームのドアを開けて顔を覗かせると、辻が振り返った。

「夏貴ちゃん、おはよう。今日からよろしくね」
「よろしくお願いします」

 私は緊張した面持ちで、部屋の中に足を踏み入れた。

「緊張してるの?」
「はい、少し」

 すると辻は傍までやって来ると、安心させようとしてか私の背中をぽんぽんと軽くたたいた。

「大丈夫だって。そんなに構えなくて大丈夫だよ」
「はい」

 強張った笑みを浮かべたところに、明るい声が聞こえてきた。

「おはようございます!」

 首を回して見たそこに、顔合わせ済みのアルバイトスタッフの大学生、早坂梨乃の姿があった。彼女はにこにこしながら私たちの方へと近づいてきた。
 その人懐こい笑顔に、私の気持ちは一気に軽くなった。

「梨乃ちゃん、今日からよろしくお願いします。色々と教えて下さい」

 言ってから機材の前に座る男性に気がついた。「技術さん」と呼ばれる人なのだろう、私は彼にも改めて挨拶をする。その後、梨乃に促されて電話の置かれたテーブルに足を向けようとした時、矢嶋が入って来た。

「おはようございます。やぁ梨乃ちゃん、今日もよろしくね」
「はい!よろしくお願いします!」
「お疲れ。矢嶋、今日から予定通り、夏貴ちゃんが入るからな」

 辻の言葉に矢嶋は私を見ると、目元を緩めてにこりと笑った。こんな柔和な顔を見せられたのは初めてで、驚きと動揺で顔が引きつりそうになる。

「川口さん、おはよう。今日からよろしく」

 私は慌てて会釈した。
 私と矢嶋の様子を眺めていた梨乃が、不思議そうな顔をした。

「もしかして、お二人ってお知り合いですか?」
「え、どうしてそう思うの?」

 私と矢嶋の間に親し気だとか仲が良さげだとかの雰囲気は、特には漂っていないはずだ。
 苦笑する私に梨乃はちょっと小首を傾げる。

「だって、矢嶋さんの夏貴さんに対する口調が他となんだか違って聞こえて、気を許した感じだなって思ったんですよね。だから、もしかしてって。当たりですか?」

 肯定していいのか迷い、私はちらっと矢嶋を見た。しかし彼は今、辻と共に機材担当の男性と話している。

「えぇと……」

 私が言葉を濁したのをどう勘違いしたのか、梨乃は声を潜めた。

「私、口は堅いですから。安心してください」
「えっ、いや……」

 戸惑ったその時、辻が私たちの会話に入ってきた。今までは私たちから離れた所にいたはずなのに、ちゃっかりと聞き耳は立てていたらしい。

「二人は大学の先輩後輩なんだよ。そして実は、彼女は俺の後輩でもあるんだ」
「へぇ、そうなんですね」

 さらりとした反応の梨乃に、辻は不満そうな顔をした。

「あれ?俺に関しては何も言わないの?」
「だって、辻さんはいつもこんな感じで、誰にでもフランクでしょ?だけど矢嶋さんはそういうタイプじゃないじゃないですか。初めて矢嶋さんに会った時なんて、私、すごく緊張したんですよ。すごくびしっとしていて、テレビのまんまの人だと思ったから。少し前くらいまでは挨拶一つするにしても、すごく緊張してたんです。でも、一緒に仕事をするのは今日からのはずの夏貴さんには、そういう感じじゃなかったですもん。だからもしかして、って思ったんですけど、ついでに言うと実はお二人の間には何かあったりして……なぁんて、つい妄想が膨らんじゃいまして。あはは」

 笑っている梨乃に私は苦笑した。

「何もありませんから」
「何の話してるんだ?」

 辻に遅れて話を終えたらしい矢嶋が、私たちの傍にやって来た。三人の顔をぐるりと見回す。

「いえ、矢嶋さんと夏貴さんの関係について聞いていたんです」

 あっけらかんと答える梨乃に、矢嶋はにやりとした笑みを見せた。

「関係ね……。ここだけの話、後輩の川口さんとは色々あってね」
「色々って?」
「それは梨乃ちゃんのご想像にお任せするよ」
「ちょっと……!誤解を生むような言い方やめてください」
「あ、お二人ってやっぱり仲が良いんですね」

 梨乃の目が輝いたと同時に辻の声が割って入ってきた。

「皆さん、そろそろスタンバイしようか」
「はい」
「了解です」

 私たちは返事をして、各自自分の持ち場へ移動する。

「それでは皆さん、一時間半、よろしくお願いします」

 辻の声に緊張して背筋を伸ばした私に、梨乃がにっと笑いかける。

「夏貴さん、楽しく頑張りましょう!」
「あはは。頑張ります……」

 私はぎこちなく梨乃に笑い返した。

「あ、始まりますよ」

 梨乃が声を潜めた。
 番組の始まりだ。しばし音楽が流れた後、辻の合図で矢嶋がマイクに向かった。穏やかな響きの声が爽やかに話し出す。

「リスナーの皆さん、おはようございます。今日は私、矢嶋彬がパーソナリティを務めさせていただきます。よろしくお願いします。ところで、話は変わりますが……。今朝はずいぶんと冷え込みましたよね。ダイヤモンドダストが見られた地域もあったようですが、皆さんのお住いの場所ではいかがでしたか?……」

 仕事をしている矢嶋の様子を直接見るのは初めてだったから、とても新鮮に思えた。
 ガラス越しに彼を見て、こっそり思う。悔しいけれど、やはり彼はイケメンという部類の人種だと認めざるを得ない。持って生まれたものなのだろうが、声もいい。

 夏貴――。

 あの夜、私の名前を優しく呼んだ彼の声が思い出されて、そわそわする。仕事に集中しなくては思いながら、口元を引き締めるように唇を噛んだ時、目の前の電話が優しい音を鳴らした。私にとってのリクエスト電話、第一号だ。
 私はごくりと生唾を飲み、梨乃を見た。
 彼女は胸の前に拳を二つ作り、私に向かって小さく振った。頑張れというエールなのだろう。
 私は彼女に向かってこくりと頷き、すうっとひと呼吸ついてから受話器を取る。そして、自分の中では一番だと思っている声で言った。

「おはようございます。お電話ありがとうございます。リクエスト、承ります」

 その後は、梨乃と一緒になって一体何本の電話を取っただろう。最初のうちは確かに緊張してどきどきしていた。しかし聞き取る内容は難しくなく、また、視聴者電話のように困った問い合わせがあるわけでもなかったから、思っていたよりも慣れるのは早かったと思う。番組終了の十分ほど前にはリクエストの受付は終了となったから、後はのんびりと矢嶋のトークと流れる音楽に耳を傾けていればいいような状態だった。

 こんなに楽でいいのかしら――。

 などと少し申し訳ないような気になる。

「――金曜日の今日は、矢嶋がお送りしました。また来週お会いしましょう」

 矢嶋が締めくくりの言葉を述べるのが聞こえた。そこにかぶるように音楽が流れて徐々にフェイドアウトしていき、番組は終わる。

「お疲れ様!」

 辻が私たちに労いの言葉をかけた。
 ほっとしていると、梨乃が感心したような目を私に向けながら言った。

「夏貴さんはやっぱりもともとお仕事してる人だから、電話を取るのも話を聞き取るのも、慣れるの早かったですよね。私、初日でここまではできなかったなぁ」

 褒められて私は照れ笑いを浮かべ、その後には真面目な顔を作る。

「そう見えたのなら良かった。ただ、話の長いリスナーさんがいたのは少しだけ困っちゃったかな。嬉しそうにお話しされてるから、どこで切り上げていいのかが難しくて」
「あぁ、南風さんですよね。あの方は毎週のようにかけてきてくれるんです。それはありがたいことなんですけど、話が長いんですよねぇ。こんなこと言うのはアレですけど、あの方の電話を取っちゃった時は、失敗したって思います。あんまり長い時は、強引に終わらせるしかないですね。他にもリクエストをお待ちの方がいるからとかなんとか言って。まぁ、そこの加減みたいなものは、そのうち分かって来ると思いますけど」
「そうなのね」

 梨乃の話にふむふむと頷いているところに、矢嶋がスタジオから出てきた。

「二人ともありがとう。次回もまたよろしく頼むね」
「お疲れ様でした!」
「お、お疲れ様でした」

 梨乃に倣って私も彼に頭を下げる。
 彼女は顔を上げると、足元に置いていた荷物を手に持った。

「私はこれから大学なんで、これで失礼します。また来週!」

 梨乃は元気に言って私たちに片手を挙げて見せ、パタパタと足早にマスタールームを出て行った。
 その背中を何気なく見送り、そろそろ私も戻ろうかと思っていると、辻が傍までやって来て私の頭にぽんと手を乗せた。機材担当の男性はいつの間にか出て行ったらしく、もう姿が見えなかった。

「夏貴ちゃん、本当にありがとね。やってみてどうだった?そんなに難しいことはなかっただろ?」
「うぅん、まぁ、そうですね。でも、うまく聞き取りできていない所もあった思うし、お話の聞き方とか難しいところもありましたけど……」

 辻は私の肩に手を回して続けた。

「それは数をこなしているうちに、うまくできるようになると思うよ。しかしさ、手伝ってもらえてほんと助かったよ。な、矢嶋?」

 辻に話を振られた矢嶋は不快そうな顔で私を見た。
 さっきまでは至って普通、いやむしろ優しい顔をしていたはずなのに、いったいどうしたと言うのか。そう言えば少し前にも似たようなことがあったと思い出しつつ、私は彼の急変に戸惑う。

「たこ焼きちゃんも電話くらいは取れるでしょうからね」

 私はキュッと下唇を噛んだ。

 その呼び名を聞くことはもうないと思っていたのに――。

 辻が呆れたような顔で矢嶋を見た。

「お前はまた、そういう呼び方して……。ほんとに、夏貴ちゃんから嫌われるぜ」
「別に。こいつに嫌われたところで、痛くもかゆくもありませんから」
「ふぅん?」

 辻の顔に意地悪な笑みが浮かぶ。

「そんなこと言って、今日のお前、朝からずっとなんとなくそわそわしてなかったっけ?」
「いつもと変わりませんよ」
「そうかぁ?」

 矢嶋は辻に肩をすくめてみせる。

「俺、もう戻ります。取材したやつ、編集しないといけないんで。それじゃ、たこ焼きちゃん、また次回よろしくな。それから辻さん。前にも言ったはずですけど、いくら仲のいい後輩だからって、気安く女性に触れるもんじゃないですよ。それじゃ、お先します」
「はいはい」

 辻は苦笑しながら矢嶋を見送り、それから思い出したように私の肩から手を離した。

「俺って他人と距離感近いみたいでさ。ごめんね。それにしても矢嶋ってさ、なんだかんだ言って夏貴ちゃんの保護者みたいだよな」
「あんな保護者、いらないんですけど」
「あはは。ま、とにかく、次回もよろしく頼むね。というか、このまま手伝ってもらうわけにはいかないのかなぁ」
「どうなんでしょうね?もしそうなっても、私の方は別に構わないんですけど。楽しかったから。ただ……」
「ただ?」

 できれば本当は矢嶋の番組じゃなければ、なおいいのだけれど――。

 喉から出かかった言葉を飲み込み、私は笑って首を横に振った。

「いえ、なんでもありません」
「そう?しかし、矢嶋のあれ、なんなんだろうな。照れ隠しかなんかなのかね」
「照れ隠し?」
「うん。夏貴ちゃんが可愛くて、そう思っていること隠すためにわざわざあんなこと言ったりしてるんじゃないの?」

 私は眉根を寄せた。

「あり得ませんよ。なんにせよ、あの呼び方は失礼だと思いません?」
「まぁな。確かに女性に対して言うような言葉じゃないよな。俺からも言っておこう。だから夏貴ちゃんも、この番組の手伝いは嫌だなんて言わないでね」
「あ、ははは……」

 さっき思ったことを見透かされていたようだ。私は笑ってごまかした。
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