7 / 18
7・お仕事スタート
しおりを挟む
「それじゃあ川口さん。金曜日からよろしく」
「は、はい。こちらこそよろしくお願いします」
階段の所で簡単な言葉を交わして私は矢嶋と別れた。
偶然にもこの時そこにいたのは私たちだけだったが、それでも彼は私を名字で呼んだ。呼ばれ慣れなくて背中がざわざわしたが、もうあの変な呼び名に悩まされることはないと思っていいのだろうかと、ちらと期待が浮かぶ。
彼の後ろ姿が見えなくなってから、なんとなく物足りなさを感じた。どうしてそんな気持ちになるのかと、自分自身を訝しむ。まさか例の呼び名になじんだわけでもあるまいと自分に呆れた。これからはちゃんと名前で呼んでくれるのならそれでいい。
戻ろう――。
私は階段に足をかけ、編成広報局のあるフロアに向かった。自分の席に戻るか戻らないかのタイミングで佐竹に呼ばれる。
「川口さん、お帰りなさい。戻って早々でごめんなさい。B社向けの原稿なんですけど、今日中に作って先方に送ってもらえるかな?いつも通りいったん私がチェックするので、五時までお願いします」
「分かりました」
佐竹から原稿用の資料を受け取り、今度こそ席に着こうとした時、彼女に引き留められた。
「川口さんって、今度から矢嶋さんの番組のお手伝いをするんですってね。私、今朝は用があっていなかったから、さっき局長から聞いたばかりなのよ」
「はい。しばらくの間ということでお話がありまして、担当の方たちと打ち合わせをしてきました」
「へぇ、そうなんだ」
佐竹の眉が寄せられ、その顔がわずかに歪んだように見えて、私は緊張した。
私がラジオの手伝いをする間、仕事の配分を考え直すと局長が言っていたから、そのことに不満があるのかもしれない。普段の私は佐竹の手伝いをすることが多かったから、その分彼女に負担がかかる可能性があった。
私は彼女に詫びるように言った。
「すみません。その間は今までのように、佐竹さんのお仕事を手伝えないこともあるかもしれませんが……」
しかし佐竹は笑いながら肩をすくめた。
「だけど、そんなに長いことじゃないんでしょ?代わりのバイトさんが見つかるまでって聞いているわ。それよりも、川口さんの方があっちもこっちもで大変そうね。頑張ってね」
そう言って彼女はにっこりと笑う。
そんな彼女の様子にほっとして、私も笑みを返した。
「この金曜日から午前中抜けることになりますが、よろしくお願いします」
そうしていよいよその第一日目がやってきた。
今日から矢嶋の番組を手伝うわけだが、朝目覚めた時からそわそわして落ち着かなかった。
仕事の内容についてはすでに説明を受けている。一緒に番組を手伝うことになるアルバイトの子とは、昨日の夕方のうちに顔を合わせることができていて、自己紹介がすんでいた。それでもどきどきするのは、今まで経験したことのない初めての仕事だからだろう。
番組開始は十時。その三十分前までには、マスタールームに来るようにと言われていた。
私は局長や佐竹をはじめとする周りのメンバーに断りを入れて、急ぎ足でスタジオのあるフロアに向かった。恐る恐るマスタールームのドアを開けて顔を覗かせると、辻が振り返った。
「夏貴ちゃん、おはよう。今日からよろしくね」
「よろしくお願いします」
私は緊張した面持ちで、部屋の中に足を踏み入れた。
「緊張してるの?」
「はい、少し」
すると辻は傍までやって来ると、安心させようとしてか私の背中をぽんぽんと軽くたたいた。
「大丈夫だって。そんなに構えなくて大丈夫だよ」
「はい」
強張った笑みを浮かべたところに、明るい声が聞こえてきた。
「おはようございます!」
首を回して見たそこに、顔合わせ済みのアルバイトスタッフの大学生、早坂梨乃の姿があった。彼女はにこにこしながら私たちの方へと近づいてきた。
その人懐こい笑顔に、私の気持ちは一気に軽くなった。
「梨乃ちゃん、今日からよろしくお願いします。色々と教えて下さい」
言ってから機材の前に座る男性に気がついた。「技術さん」と呼ばれる人なのだろう、私は彼にも改めて挨拶をする。その後、梨乃に促されて電話の置かれたテーブルに足を向けようとした時、矢嶋が入って来た。
「おはようございます。やぁ梨乃ちゃん、今日もよろしくね」
「はい!よろしくお願いします!」
「お疲れ。矢嶋、今日から予定通り、夏貴ちゃんが入るからな」
辻の言葉に矢嶋は私を見ると、目元を緩めてにこりと笑った。こんな柔和な顔を見せられたのは初めてで、驚きと動揺で顔が引きつりそうになる。
「川口さん、おはよう。今日からよろしく」
私は慌てて会釈した。
私と矢嶋の様子を眺めていた梨乃が、不思議そうな顔をした。
「もしかして、お二人ってお知り合いですか?」
「え、どうしてそう思うの?」
私と矢嶋の間に親し気だとか仲が良さげだとかの雰囲気は、特には漂っていないはずだ。
苦笑する私に梨乃はちょっと小首を傾げる。
「だって、矢嶋さんの夏貴さんに対する口調が他となんだか違って聞こえて、気を許した感じだなって思ったんですよね。だから、もしかしてって。当たりですか?」
肯定していいのか迷い、私はちらっと矢嶋を見た。しかし彼は今、辻と共に機材担当の男性と話している。
「えぇと……」
私が言葉を濁したのをどう勘違いしたのか、梨乃は声を潜めた。
「私、口は堅いですから。安心してください」
「えっ、いや……」
戸惑ったその時、辻が私たちの会話に入ってきた。今までは私たちから離れた所にいたはずなのに、ちゃっかりと聞き耳は立てていたらしい。
「二人は大学の先輩後輩なんだよ。そして実は、彼女は俺の後輩でもあるんだ」
「へぇ、そうなんですね」
さらりとした反応の梨乃に、辻は不満そうな顔をした。
「あれ?俺に関しては何も言わないの?」
「だって、辻さんはいつもこんな感じで、誰にでもフランクでしょ?だけど矢嶋さんはそういうタイプじゃないじゃないですか。初めて矢嶋さんに会った時なんて、私、すごく緊張したんですよ。すごくびしっとしていて、テレビのまんまの人だと思ったから。少し前くらいまでは挨拶一つするにしても、すごく緊張してたんです。でも、一緒に仕事をするのは今日からのはずの夏貴さんには、そういう感じじゃなかったですもん。だからもしかして、って思ったんですけど、ついでに言うと実はお二人の間には何かあったりして……なぁんて、つい妄想が膨らんじゃいまして。あはは」
笑っている梨乃に私は苦笑した。
「何もありませんから」
「何の話してるんだ?」
辻に遅れて話を終えたらしい矢嶋が、私たちの傍にやって来た。三人の顔をぐるりと見回す。
「いえ、矢嶋さんと夏貴さんの関係について聞いていたんです」
あっけらかんと答える梨乃に、矢嶋はにやりとした笑みを見せた。
「関係ね……。ここだけの話、後輩の川口さんとは色々あってね」
「色々って?」
「それは梨乃ちゃんのご想像にお任せするよ」
「ちょっと……!誤解を生むような言い方やめてください」
「あ、お二人ってやっぱり仲が良いんですね」
梨乃の目が輝いたと同時に辻の声が割って入ってきた。
「皆さん、そろそろスタンバイしようか」
「はい」
「了解です」
私たちは返事をして、各自自分の持ち場へ移動する。
「それでは皆さん、一時間半、よろしくお願いします」
辻の声に緊張して背筋を伸ばした私に、梨乃がにっと笑いかける。
「夏貴さん、楽しく頑張りましょう!」
「あはは。頑張ります……」
私はぎこちなく梨乃に笑い返した。
「あ、始まりますよ」
梨乃が声を潜めた。
番組の始まりだ。しばし音楽が流れた後、辻の合図で矢嶋がマイクに向かった。穏やかな響きの声が爽やかに話し出す。
「リスナーの皆さん、おはようございます。今日は私、矢嶋彬がパーソナリティを務めさせていただきます。よろしくお願いします。ところで、話は変わりますが……。今朝はずいぶんと冷え込みましたよね。ダイヤモンドダストが見られた地域もあったようですが、皆さんのお住いの場所ではいかがでしたか?……」
仕事をしている矢嶋の様子を直接見るのは初めてだったから、とても新鮮に思えた。
ガラス越しに彼を見て、こっそり思う。悔しいけれど、やはり彼はイケメンという部類の人種だと認めざるを得ない。持って生まれたものなのだろうが、声もいい。
夏貴――。
あの夜、私の名前を優しく呼んだ彼の声が思い出されて、そわそわする。仕事に集中しなくては思いながら、口元を引き締めるように唇を噛んだ時、目の前の電話が優しい音を鳴らした。私にとってのリクエスト電話、第一号だ。
私はごくりと生唾を飲み、梨乃を見た。
彼女は胸の前に拳を二つ作り、私に向かって小さく振った。頑張れというエールなのだろう。
私は彼女に向かってこくりと頷き、すうっとひと呼吸ついてから受話器を取る。そして、自分の中では一番だと思っている声で言った。
「おはようございます。お電話ありがとうございます。リクエスト、承ります」
その後は、梨乃と一緒になって一体何本の電話を取っただろう。最初のうちは確かに緊張してどきどきしていた。しかし聞き取る内容は難しくなく、また、視聴者電話のように困った問い合わせがあるわけでもなかったから、思っていたよりも慣れるのは早かったと思う。番組終了の十分ほど前にはリクエストの受付は終了となったから、後はのんびりと矢嶋のトークと流れる音楽に耳を傾けていればいいような状態だった。
こんなに楽でいいのかしら――。
などと少し申し訳ないような気になる。
「――金曜日の今日は、矢嶋がお送りしました。また来週お会いしましょう」
矢嶋が締めくくりの言葉を述べるのが聞こえた。そこにかぶるように音楽が流れて徐々にフェイドアウトしていき、番組は終わる。
「お疲れ様!」
辻が私たちに労いの言葉をかけた。
ほっとしていると、梨乃が感心したような目を私に向けながら言った。
「夏貴さんはやっぱりもともとお仕事してる人だから、電話を取るのも話を聞き取るのも、慣れるの早かったですよね。私、初日でここまではできなかったなぁ」
褒められて私は照れ笑いを浮かべ、その後には真面目な顔を作る。
「そう見えたのなら良かった。ただ、話の長いリスナーさんがいたのは少しだけ困っちゃったかな。嬉しそうにお話しされてるから、どこで切り上げていいのかが難しくて」
「あぁ、南風さんですよね。あの方は毎週のようにかけてきてくれるんです。それはありがたいことなんですけど、話が長いんですよねぇ。こんなこと言うのはアレですけど、あの方の電話を取っちゃった時は、失敗したって思います。あんまり長い時は、強引に終わらせるしかないですね。他にもリクエストをお待ちの方がいるからとかなんとか言って。まぁ、そこの加減みたいなものは、そのうち分かって来ると思いますけど」
「そうなのね」
梨乃の話にふむふむと頷いているところに、矢嶋がスタジオから出てきた。
「二人ともありがとう。次回もまたよろしく頼むね」
「お疲れ様でした!」
「お、お疲れ様でした」
梨乃に倣って私も彼に頭を下げる。
彼女は顔を上げると、足元に置いていた荷物を手に持った。
「私はこれから大学なんで、これで失礼します。また来週!」
梨乃は元気に言って私たちに片手を挙げて見せ、パタパタと足早にマスタールームを出て行った。
その背中を何気なく見送り、そろそろ私も戻ろうかと思っていると、辻が傍までやって来て私の頭にぽんと手を乗せた。機材担当の男性はいつの間にか出て行ったらしく、もう姿が見えなかった。
「夏貴ちゃん、本当にありがとね。やってみてどうだった?そんなに難しいことはなかっただろ?」
「うぅん、まぁ、そうですね。でも、うまく聞き取りできていない所もあった思うし、お話の聞き方とか難しいところもありましたけど……」
辻は私の肩に手を回して続けた。
「それは数をこなしているうちに、うまくできるようになると思うよ。しかしさ、手伝ってもらえてほんと助かったよ。な、矢嶋?」
辻に話を振られた矢嶋は不快そうな顔で私を見た。
さっきまでは至って普通、いやむしろ優しい顔をしていたはずなのに、いったいどうしたと言うのか。そう言えば少し前にも似たようなことがあったと思い出しつつ、私は彼の急変に戸惑う。
「たこ焼きちゃんも電話くらいは取れるでしょうからね」
私はキュッと下唇を噛んだ。
その呼び名を聞くことはもうないと思っていたのに――。
辻が呆れたような顔で矢嶋を見た。
「お前はまた、そういう呼び方して……。ほんとに、夏貴ちゃんから嫌われるぜ」
「別に。こいつに嫌われたところで、痛くもかゆくもありませんから」
「ふぅん?」
辻の顔に意地悪な笑みが浮かぶ。
「そんなこと言って、今日のお前、朝からずっとなんとなくそわそわしてなかったっけ?」
「いつもと変わりませんよ」
「そうかぁ?」
矢嶋は辻に肩をすくめてみせる。
「俺、もう戻ります。取材したやつ、編集しないといけないんで。それじゃ、たこ焼きちゃん、また次回よろしくな。それから辻さん。前にも言ったはずですけど、いくら仲のいい後輩だからって、気安く女性に触れるもんじゃないですよ。それじゃ、お先します」
「はいはい」
辻は苦笑しながら矢嶋を見送り、それから思い出したように私の肩から手を離した。
「俺って他人と距離感近いみたいでさ。ごめんね。それにしても矢嶋ってさ、なんだかんだ言って夏貴ちゃんの保護者みたいだよな」
「あんな保護者、いらないんですけど」
「あはは。ま、とにかく、次回もよろしく頼むね。というか、このまま手伝ってもらうわけにはいかないのかなぁ」
「どうなんでしょうね?もしそうなっても、私の方は別に構わないんですけど。楽しかったから。ただ……」
「ただ?」
できれば本当は矢嶋の番組じゃなければ、なおいいのだけれど――。
喉から出かかった言葉を飲み込み、私は笑って首を横に振った。
「いえ、なんでもありません」
「そう?しかし、矢嶋のあれ、なんなんだろうな。照れ隠しかなんかなのかね」
「照れ隠し?」
「うん。夏貴ちゃんが可愛くて、そう思っていること隠すためにわざわざあんなこと言ったりしてるんじゃないの?」
私は眉根を寄せた。
「あり得ませんよ。なんにせよ、あの呼び方は失礼だと思いません?」
「まぁな。確かに女性に対して言うような言葉じゃないよな。俺からも言っておこう。だから夏貴ちゃんも、この番組の手伝いは嫌だなんて言わないでね」
「あ、ははは……」
さっき思ったことを見透かされていたようだ。私は笑ってごまかした。
「は、はい。こちらこそよろしくお願いします」
階段の所で簡単な言葉を交わして私は矢嶋と別れた。
偶然にもこの時そこにいたのは私たちだけだったが、それでも彼は私を名字で呼んだ。呼ばれ慣れなくて背中がざわざわしたが、もうあの変な呼び名に悩まされることはないと思っていいのだろうかと、ちらと期待が浮かぶ。
彼の後ろ姿が見えなくなってから、なんとなく物足りなさを感じた。どうしてそんな気持ちになるのかと、自分自身を訝しむ。まさか例の呼び名になじんだわけでもあるまいと自分に呆れた。これからはちゃんと名前で呼んでくれるのならそれでいい。
戻ろう――。
私は階段に足をかけ、編成広報局のあるフロアに向かった。自分の席に戻るか戻らないかのタイミングで佐竹に呼ばれる。
「川口さん、お帰りなさい。戻って早々でごめんなさい。B社向けの原稿なんですけど、今日中に作って先方に送ってもらえるかな?いつも通りいったん私がチェックするので、五時までお願いします」
「分かりました」
佐竹から原稿用の資料を受け取り、今度こそ席に着こうとした時、彼女に引き留められた。
「川口さんって、今度から矢嶋さんの番組のお手伝いをするんですってね。私、今朝は用があっていなかったから、さっき局長から聞いたばかりなのよ」
「はい。しばらくの間ということでお話がありまして、担当の方たちと打ち合わせをしてきました」
「へぇ、そうなんだ」
佐竹の眉が寄せられ、その顔がわずかに歪んだように見えて、私は緊張した。
私がラジオの手伝いをする間、仕事の配分を考え直すと局長が言っていたから、そのことに不満があるのかもしれない。普段の私は佐竹の手伝いをすることが多かったから、その分彼女に負担がかかる可能性があった。
私は彼女に詫びるように言った。
「すみません。その間は今までのように、佐竹さんのお仕事を手伝えないこともあるかもしれませんが……」
しかし佐竹は笑いながら肩をすくめた。
「だけど、そんなに長いことじゃないんでしょ?代わりのバイトさんが見つかるまでって聞いているわ。それよりも、川口さんの方があっちもこっちもで大変そうね。頑張ってね」
そう言って彼女はにっこりと笑う。
そんな彼女の様子にほっとして、私も笑みを返した。
「この金曜日から午前中抜けることになりますが、よろしくお願いします」
そうしていよいよその第一日目がやってきた。
今日から矢嶋の番組を手伝うわけだが、朝目覚めた時からそわそわして落ち着かなかった。
仕事の内容についてはすでに説明を受けている。一緒に番組を手伝うことになるアルバイトの子とは、昨日の夕方のうちに顔を合わせることができていて、自己紹介がすんでいた。それでもどきどきするのは、今まで経験したことのない初めての仕事だからだろう。
番組開始は十時。その三十分前までには、マスタールームに来るようにと言われていた。
私は局長や佐竹をはじめとする周りのメンバーに断りを入れて、急ぎ足でスタジオのあるフロアに向かった。恐る恐るマスタールームのドアを開けて顔を覗かせると、辻が振り返った。
「夏貴ちゃん、おはよう。今日からよろしくね」
「よろしくお願いします」
私は緊張した面持ちで、部屋の中に足を踏み入れた。
「緊張してるの?」
「はい、少し」
すると辻は傍までやって来ると、安心させようとしてか私の背中をぽんぽんと軽くたたいた。
「大丈夫だって。そんなに構えなくて大丈夫だよ」
「はい」
強張った笑みを浮かべたところに、明るい声が聞こえてきた。
「おはようございます!」
首を回して見たそこに、顔合わせ済みのアルバイトスタッフの大学生、早坂梨乃の姿があった。彼女はにこにこしながら私たちの方へと近づいてきた。
その人懐こい笑顔に、私の気持ちは一気に軽くなった。
「梨乃ちゃん、今日からよろしくお願いします。色々と教えて下さい」
言ってから機材の前に座る男性に気がついた。「技術さん」と呼ばれる人なのだろう、私は彼にも改めて挨拶をする。その後、梨乃に促されて電話の置かれたテーブルに足を向けようとした時、矢嶋が入って来た。
「おはようございます。やぁ梨乃ちゃん、今日もよろしくね」
「はい!よろしくお願いします!」
「お疲れ。矢嶋、今日から予定通り、夏貴ちゃんが入るからな」
辻の言葉に矢嶋は私を見ると、目元を緩めてにこりと笑った。こんな柔和な顔を見せられたのは初めてで、驚きと動揺で顔が引きつりそうになる。
「川口さん、おはよう。今日からよろしく」
私は慌てて会釈した。
私と矢嶋の様子を眺めていた梨乃が、不思議そうな顔をした。
「もしかして、お二人ってお知り合いですか?」
「え、どうしてそう思うの?」
私と矢嶋の間に親し気だとか仲が良さげだとかの雰囲気は、特には漂っていないはずだ。
苦笑する私に梨乃はちょっと小首を傾げる。
「だって、矢嶋さんの夏貴さんに対する口調が他となんだか違って聞こえて、気を許した感じだなって思ったんですよね。だから、もしかしてって。当たりですか?」
肯定していいのか迷い、私はちらっと矢嶋を見た。しかし彼は今、辻と共に機材担当の男性と話している。
「えぇと……」
私が言葉を濁したのをどう勘違いしたのか、梨乃は声を潜めた。
「私、口は堅いですから。安心してください」
「えっ、いや……」
戸惑ったその時、辻が私たちの会話に入ってきた。今までは私たちから離れた所にいたはずなのに、ちゃっかりと聞き耳は立てていたらしい。
「二人は大学の先輩後輩なんだよ。そして実は、彼女は俺の後輩でもあるんだ」
「へぇ、そうなんですね」
さらりとした反応の梨乃に、辻は不満そうな顔をした。
「あれ?俺に関しては何も言わないの?」
「だって、辻さんはいつもこんな感じで、誰にでもフランクでしょ?だけど矢嶋さんはそういうタイプじゃないじゃないですか。初めて矢嶋さんに会った時なんて、私、すごく緊張したんですよ。すごくびしっとしていて、テレビのまんまの人だと思ったから。少し前くらいまでは挨拶一つするにしても、すごく緊張してたんです。でも、一緒に仕事をするのは今日からのはずの夏貴さんには、そういう感じじゃなかったですもん。だからもしかして、って思ったんですけど、ついでに言うと実はお二人の間には何かあったりして……なぁんて、つい妄想が膨らんじゃいまして。あはは」
笑っている梨乃に私は苦笑した。
「何もありませんから」
「何の話してるんだ?」
辻に遅れて話を終えたらしい矢嶋が、私たちの傍にやって来た。三人の顔をぐるりと見回す。
「いえ、矢嶋さんと夏貴さんの関係について聞いていたんです」
あっけらかんと答える梨乃に、矢嶋はにやりとした笑みを見せた。
「関係ね……。ここだけの話、後輩の川口さんとは色々あってね」
「色々って?」
「それは梨乃ちゃんのご想像にお任せするよ」
「ちょっと……!誤解を生むような言い方やめてください」
「あ、お二人ってやっぱり仲が良いんですね」
梨乃の目が輝いたと同時に辻の声が割って入ってきた。
「皆さん、そろそろスタンバイしようか」
「はい」
「了解です」
私たちは返事をして、各自自分の持ち場へ移動する。
「それでは皆さん、一時間半、よろしくお願いします」
辻の声に緊張して背筋を伸ばした私に、梨乃がにっと笑いかける。
「夏貴さん、楽しく頑張りましょう!」
「あはは。頑張ります……」
私はぎこちなく梨乃に笑い返した。
「あ、始まりますよ」
梨乃が声を潜めた。
番組の始まりだ。しばし音楽が流れた後、辻の合図で矢嶋がマイクに向かった。穏やかな響きの声が爽やかに話し出す。
「リスナーの皆さん、おはようございます。今日は私、矢嶋彬がパーソナリティを務めさせていただきます。よろしくお願いします。ところで、話は変わりますが……。今朝はずいぶんと冷え込みましたよね。ダイヤモンドダストが見られた地域もあったようですが、皆さんのお住いの場所ではいかがでしたか?……」
仕事をしている矢嶋の様子を直接見るのは初めてだったから、とても新鮮に思えた。
ガラス越しに彼を見て、こっそり思う。悔しいけれど、やはり彼はイケメンという部類の人種だと認めざるを得ない。持って生まれたものなのだろうが、声もいい。
夏貴――。
あの夜、私の名前を優しく呼んだ彼の声が思い出されて、そわそわする。仕事に集中しなくては思いながら、口元を引き締めるように唇を噛んだ時、目の前の電話が優しい音を鳴らした。私にとってのリクエスト電話、第一号だ。
私はごくりと生唾を飲み、梨乃を見た。
彼女は胸の前に拳を二つ作り、私に向かって小さく振った。頑張れというエールなのだろう。
私は彼女に向かってこくりと頷き、すうっとひと呼吸ついてから受話器を取る。そして、自分の中では一番だと思っている声で言った。
「おはようございます。お電話ありがとうございます。リクエスト、承ります」
その後は、梨乃と一緒になって一体何本の電話を取っただろう。最初のうちは確かに緊張してどきどきしていた。しかし聞き取る内容は難しくなく、また、視聴者電話のように困った問い合わせがあるわけでもなかったから、思っていたよりも慣れるのは早かったと思う。番組終了の十分ほど前にはリクエストの受付は終了となったから、後はのんびりと矢嶋のトークと流れる音楽に耳を傾けていればいいような状態だった。
こんなに楽でいいのかしら――。
などと少し申し訳ないような気になる。
「――金曜日の今日は、矢嶋がお送りしました。また来週お会いしましょう」
矢嶋が締めくくりの言葉を述べるのが聞こえた。そこにかぶるように音楽が流れて徐々にフェイドアウトしていき、番組は終わる。
「お疲れ様!」
辻が私たちに労いの言葉をかけた。
ほっとしていると、梨乃が感心したような目を私に向けながら言った。
「夏貴さんはやっぱりもともとお仕事してる人だから、電話を取るのも話を聞き取るのも、慣れるの早かったですよね。私、初日でここまではできなかったなぁ」
褒められて私は照れ笑いを浮かべ、その後には真面目な顔を作る。
「そう見えたのなら良かった。ただ、話の長いリスナーさんがいたのは少しだけ困っちゃったかな。嬉しそうにお話しされてるから、どこで切り上げていいのかが難しくて」
「あぁ、南風さんですよね。あの方は毎週のようにかけてきてくれるんです。それはありがたいことなんですけど、話が長いんですよねぇ。こんなこと言うのはアレですけど、あの方の電話を取っちゃった時は、失敗したって思います。あんまり長い時は、強引に終わらせるしかないですね。他にもリクエストをお待ちの方がいるからとかなんとか言って。まぁ、そこの加減みたいなものは、そのうち分かって来ると思いますけど」
「そうなのね」
梨乃の話にふむふむと頷いているところに、矢嶋がスタジオから出てきた。
「二人ともありがとう。次回もまたよろしく頼むね」
「お疲れ様でした!」
「お、お疲れ様でした」
梨乃に倣って私も彼に頭を下げる。
彼女は顔を上げると、足元に置いていた荷物を手に持った。
「私はこれから大学なんで、これで失礼します。また来週!」
梨乃は元気に言って私たちに片手を挙げて見せ、パタパタと足早にマスタールームを出て行った。
その背中を何気なく見送り、そろそろ私も戻ろうかと思っていると、辻が傍までやって来て私の頭にぽんと手を乗せた。機材担当の男性はいつの間にか出て行ったらしく、もう姿が見えなかった。
「夏貴ちゃん、本当にありがとね。やってみてどうだった?そんなに難しいことはなかっただろ?」
「うぅん、まぁ、そうですね。でも、うまく聞き取りできていない所もあった思うし、お話の聞き方とか難しいところもありましたけど……」
辻は私の肩に手を回して続けた。
「それは数をこなしているうちに、うまくできるようになると思うよ。しかしさ、手伝ってもらえてほんと助かったよ。な、矢嶋?」
辻に話を振られた矢嶋は不快そうな顔で私を見た。
さっきまでは至って普通、いやむしろ優しい顔をしていたはずなのに、いったいどうしたと言うのか。そう言えば少し前にも似たようなことがあったと思い出しつつ、私は彼の急変に戸惑う。
「たこ焼きちゃんも電話くらいは取れるでしょうからね」
私はキュッと下唇を噛んだ。
その呼び名を聞くことはもうないと思っていたのに――。
辻が呆れたような顔で矢嶋を見た。
「お前はまた、そういう呼び方して……。ほんとに、夏貴ちゃんから嫌われるぜ」
「別に。こいつに嫌われたところで、痛くもかゆくもありませんから」
「ふぅん?」
辻の顔に意地悪な笑みが浮かぶ。
「そんなこと言って、今日のお前、朝からずっとなんとなくそわそわしてなかったっけ?」
「いつもと変わりませんよ」
「そうかぁ?」
矢嶋は辻に肩をすくめてみせる。
「俺、もう戻ります。取材したやつ、編集しないといけないんで。それじゃ、たこ焼きちゃん、また次回よろしくな。それから辻さん。前にも言ったはずですけど、いくら仲のいい後輩だからって、気安く女性に触れるもんじゃないですよ。それじゃ、お先します」
「はいはい」
辻は苦笑しながら矢嶋を見送り、それから思い出したように私の肩から手を離した。
「俺って他人と距離感近いみたいでさ。ごめんね。それにしても矢嶋ってさ、なんだかんだ言って夏貴ちゃんの保護者みたいだよな」
「あんな保護者、いらないんですけど」
「あはは。ま、とにかく、次回もよろしく頼むね。というか、このまま手伝ってもらうわけにはいかないのかなぁ」
「どうなんでしょうね?もしそうなっても、私の方は別に構わないんですけど。楽しかったから。ただ……」
「ただ?」
できれば本当は矢嶋の番組じゃなければ、なおいいのだけれど――。
喉から出かかった言葉を飲み込み、私は笑って首を横に振った。
「いえ、なんでもありません」
「そう?しかし、矢嶋のあれ、なんなんだろうな。照れ隠しかなんかなのかね」
「照れ隠し?」
「うん。夏貴ちゃんが可愛くて、そう思っていること隠すためにわざわざあんなこと言ったりしてるんじゃないの?」
私は眉根を寄せた。
「あり得ませんよ。なんにせよ、あの呼び方は失礼だと思いません?」
「まぁな。確かに女性に対して言うような言葉じゃないよな。俺からも言っておこう。だから夏貴ちゃんも、この番組の手伝いは嫌だなんて言わないでね」
「あ、ははは……」
さっき思ったことを見透かされていたようだ。私は笑ってごまかした。
10
あなたにおすすめの小説
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
Melty romance 〜甘S彼氏の執着愛〜
yuzu
恋愛
人数合わせで強引に参加させられた合コンに現れたのは、高校生の頃に少しだけ付き合って別れた元カレの佐野充希。適当にその場をやり過ごして帰るつもりだった堀沢真乃は充希に捕まりキスされて……
「オレを好きになるまで離してやんない。」
同期と私の、あと一歩の恋
松本ユミ
恋愛
同期の本田慧に密かに想いを寄せる広瀬紗世は、過去のトラウマから一歩踏み出せずにいた。
半年前、慧が『好きな人がいる』と言って告白を断る場面を目撃して以来、紗世は彼への想いを心の中に閉じ込めてしまう。
それでも同期として共に切磋琢磨する関係を続けていたが、慧の一言をきっかけに紗世の心が動き出す。
ドSでキュートな後輩においしくいただかれちゃいました!?
春音優月
恋愛
いつも失敗ばかりの美優は、少し前まで同じ部署だった四つ年下のドSな後輩のことが苦手だった。いつも辛辣なことばかり言われるし、なんだか完璧過ぎて隙がないし、後輩なのに美優よりも早く出世しそうだったから。
しかし、そんなドSな後輩が美優の仕事を手伝うために自宅にくることになり、さらにはずっと好きだったと告白されて———。
美優は彼のことを恋愛対象として見たことは一度もなかったはずなのに、意外とキュートな一面のある後輩になんだか絆されてしまって……?
2021.08.13
ワケあり上司とヒミツの共有
咲良緋芽
恋愛
部署も違う、顔見知りでもない。
でも、社内で有名な津田部長。
ハンサム&クールな出で立ちが、
女子社員のハートを鷲掴みにしている。
接点なんて、何もない。
社内の廊下で、2、3度すれ違った位。
だから、
私が津田部長のヒミツを知ったのは、
偶然。
社内の誰も気が付いていないヒミツを
私は知ってしまった。
「どどど、どうしよう……!!」
私、美園江奈は、このヒミツを守れるの…?
定時で帰りたい私と、残業常習犯の美形部長。秘密の夜食がきっかけで、胃袋も心も掴みました
藤森瑠璃香
恋愛
「お先に失礼しまーす!」がモットーの私、中堅社員の結城志穂。
そんな私の天敵は、仕事の鬼で社内では氷の王子と恐れられる完璧美男子・一条部長だ。
ある夜、忘れ物を取りに戻ったオフィスで、デスクで倒れるように眠る部長を発見してしまう。差し入れた温かいスープを、彼は疲れ切った顔で、でも少しだけ嬉しそうに飲んでくれた。
その日を境に、誰もいないオフィスでの「秘密の夜食」が始まった。
仕事では見せない、少しだけ抜けた素顔、美味しそうにご飯を食べる姿、ふとした時に見せる優しい笑顔。
会社での厳しい上司と、二人きりの時の可愛い人。そのギャップを知ってしまったら、もう、ただの上司だなんて思えない。
これは、美味しいご飯から始まる、少し大人で、甘くて温かいオフィスラブ。
甘過ぎるオフィスで塩過ぎる彼と・・・
希花 紀歩
恋愛
24時間二人きりで甘~い💕お仕事!?
『膝の上に座って。』『悪いけど仕事の為だから。』
小さな翻訳会社でアシスタント兼翻訳チェッカーとして働く風永 唯仁子(かざなが ゆにこ)(26)は頼まれると断れない性格。
ある日社長から、急ぎの翻訳案件の為に翻訳者と同じ家に缶詰になり作業を進めるように命令される。気が進まないものの、この案件を無事仕上げることが出来れば憧れていた翻訳コーディネーターになれると言われ、頑張ろうと心を決める。
しかし翻訳者・若泉 透葵(わかいずみ とき)(28)は美青年で優秀な翻訳者であるが何を考えているのかわからない。
彼のベッドが置かれた部屋で二人きりで甘い恋愛シミュレーションゲームの翻訳を進めるが、透葵は翻訳の参考にする為と言って、唯仁子にあれやこれやのスキンシップをしてきて・・・!?
過去の恋愛のトラウマから仕事関係の人と恋愛関係になりたくない唯仁子と、恋愛はくだらないものだと思っている透葵だったが・・・。
*導入部分は説明部分が多く退屈かもしれませんが、この物語に必要な部分なので、こらえて読み進めて頂けると有り難いです。
<表紙イラスト>
男女:わかめサロンパス様
背景:アート宇都宮様
デキナイ私たちの秘密な関係
美並ナナ
恋愛
可愛い容姿と大きな胸ゆえに
近寄ってくる男性は多いものの、
あるトラウマから恋愛をするのが億劫で
彼氏を作りたくない志穂。
一方で、恋愛への憧れはあり、
仲の良い同期カップルを見るたびに
「私もイチャイチャしたい……!」
という欲求を募らせる日々。
そんなある日、ひょんなことから
志穂はイケメン上司・速水課長の
ヒミツを知ってしまう。
それをキッカケに2人は
イチャイチャするだけの関係になってーー⁉︎
※性描写がありますので苦手な方はご注意ください。
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
※この作品はエブリスタ様にも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる