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10・大切だから
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その日、いつものようにラジオの手伝いが終わって編成広報局に戻るとすぐに、佐竹が私を呼んだ。
「川口さん、お帰りなさい。早速で悪いんだけど、ちょっとこっちに来てもらえる?」
佐竹に促されて着いて行った先は、フロアの端の方にあるテーブルだった。椅子を四つ置いたそのテーブルは二つあって、それらの間はパーテーションで区切られている。
佐竹は手前側のテーブルの上を目で示しながら言った。
「この箱の中のグッズをね、今日中に袋詰めしてほしいの。お願いできるかしら?」
「グッズ、ですか?」
目の前には段ボール箱が二箱置かれている。大きさはミカン箱くらいだろうか。結構大きい。蓋を開けたその中には、ピンバッジと局のロゴ入りのシールが入っていた。相当な量である。私は確認を取るように、おずおずと佐竹に訊ねた。
「今日中に、これを全部、ですか?」
佐竹は当然のようにあっさりと頷いた。
「えぇ。この梱包用の袋にね、詰めてほしいの。明日使いたいと営業から言われてるのよ」
それならどうして営業でやらないのだろうかと思う。
私の疑問を察したらしく、佐竹は付け加えるように言った。
「こういうのを手配するのも広報の業務の範囲なので」
仕事の中身すべてを知っているわけではない私は、そういうものなのかと理解する。それにしても、私がまだ聞いていないだけなのか、それとも急遽決まったことなのか、明日何かのイベントがあるのだろうか。
私の質問に佐竹の目が一瞬ゆらりと揺れたように見えたが、彼女は淡々とした表情で私の問いに短く答えた。
「えぇ」
「……分かりました」
やらなければならないのなら、やるしかない。
「あの……。原稿が終わり次第でも大丈夫でしょうか?今日は締め切り分が二本ありまして」
佐竹は段ボール箱にちらりと目を走らせる。
「そうね。原稿の方が先ね。それが終わったらということで、お願いします」
「分かりました。それじゃあ、まずは原稿に取り掛かります」
席に戻った私は早速、締め切りが迫る番組紹介用の記事作成に取り掛かった。今日は珍しく佐竹のチェックがスムーズに終わり、締め切りの時間に余裕で間に合った。
少しは態度が和らいできているのかしら――。
佐竹の横顔をちらりと見てほっとしたのもつかの間、視聴者からの問い合わせが立て続けに入った。
一本は手元のデータベースを探して、折り返す必要なく答えることができた。しかしもう一本の問い合わせは、調べる必要がある内容だった。先週のとある番組の中盤頃に、旅館の外観が映し出されたのだが、その時に流れていた曲を知りたいのだという。
一度電話を切って折り返すことにした。土田に対応方法を訊ねたところ、番組のことだから制作部に聞けば分かるはずだと言う。制作部には辻がいるから聞きやすそうだとほっとして、彼に電話を入れると本人が出た。視聴者からこういう問い合わせがあってと話す私に、辻はすぐに答えをくれた。
「ありがとうございます!すぐに分かるなんてすごいです」
驚きながら感心する私に、辻は得意げに言った。
―― この時の選曲、俺だったからね。
「そうだったんですね。でもおかげで助かりました。ありがとうございました!」
私は丁重に礼を告げて電話を切り、折り返しを待っているはずの視聴者に急いで電話をかけた。彼が求めていた答えかどうか緊張したが、当たりだったらしい。その人はありがとうと嬉しそうに言って、電話を切った。視聴者から受け付けた内容をデータに入力し終えて、パソコンの時計を見て焦る。
「もうこんな時間……」
私の独り言が聞こえたらしく、土田が首を回す。
「仕事、まだ結構残ってる?」
「はい、グッズを詰める仕事が……」
「グッズ?」
「はい、あの」
私はちらりと土田のパソコン越しに佐竹の方を見た。
彼女は今、電話中だ。
「佐竹さんからの仕事です。これからやらないといけなくて」
なんとなく声を潜める私に、土田が言う。
「俺に手伝えることがあるなら手伝うよ」
ありがたい申し出だと思った。しかし、土田の前には資料と思しき紙が机一杯に広げられている。その様子を目の当たりにしてお願いできるはずはなく、また、私が直接頼まれた仕事のことで他の人を巻き込むのも申し訳ない。私は笑みを浮かべて首を横に振った。
「お気持ちだけ受け取っておきます。ありがとうございます」
私は自分の机の上を片づける。すぐに佐竹に頼まれた作業にとりかかろうと立ち上がった。
テーブルに着き、実際にその作業を始めてしばらくたった頃、今日中に終わるのだろうかと不安に思い始めた。一人でこれを全部やれというのは嫌がらせではないだろうかと、胸の中がもやもやしてくる。しかし、まさかそんな幼稚なことを佐竹がするはずはないとすぐに打ち消した。
とりあえずは、やれと言われたのだから、やるしかない。私は気持ちを切り替えて、黙々と手を動かし続けた。単調な作業が続いたせいだろうか、頭が少しぼんやりしてきた。暖房が効きすぎてでもいるのか、体も熱い気がする。水でも飲んでこようかと思った時、よく知る人の声が耳に飛び込んできた。
「川口さんはもう帰りましたか?」
矢嶋だった。
「あっ、矢嶋さん!お疲れ様です。川口さんは今作業中で手が離せないようで……。伝言なら私がお聞きしますけど」
佐竹が答えている。艶のある声だと思った。
彼女の言葉に対して矢嶋が何か言ったようだったが、私が座る場所に近い業務企画局でちょうど電話が鳴ったため、よく聞こえなかった。いずれにしてもたいした内容でもないだろうと、私は目の前の作業に集中する。ところが、突然矢嶋の声が降って来て驚いた。
「川口さん、お疲れ様。これ、今日中に全部やるの?」
私は手を止めて、目を瞬かせながら顔を上げた。
「えぇと、そうです。そう言われたので……」
佐竹が矢嶋の後を追って来た。その表情はどこか焦って見える。
「あの、矢嶋さん」
彼は佐竹の声を無視して、箱の中を覗き込んだ。
「まだまだ残ってるじゃないか。これ、ほんとに今日中?一人でやるには厳しい量だろう。手伝うよ」
私は勢いよく首を横に振った。
「だ、大丈夫です。アナウンサーの方にそんなこと、させられません!」
佐竹が笑顔で矢嶋の腕にそっと手を伸ばした。
「そうですよ。矢嶋さんはご自分のお仕事をしてください」
しかし彼女の手が届く前に、矢嶋がやんわりとそれをかわした。
「私の今日のメインの仕事は終わったので大丈夫ですよ。それにこの量、一人よりも二人でやった方が絶対に早い」
佐竹は宙ぶらりんになった手をもう一方の手で隠した。その顔はひどく動揺していた。
「あ、あの、それは川口さんにお願いした仕事ですので」
「でも、佐竹さん」
矢嶋は佐竹を見下ろした。
「これを一人でやるのは大変だと思いませんか?佐竹さんはお忙しいでしょうから、俺が手伝います。川口さん、これはどうすればいい?」
言いながら矢嶋は私が座る隣の椅子に腰を下ろし、箱の中身に手を伸ばした。
彼の頭越しに見えた佐竹は狼狽していた。
「あ、あら、いやだ、私、勘違いしていたみたい。ごめんなさい。これ、来週の中頃までで良かったんだわ。だから、今日はこんなに頑張ってもらったし、もう切り上げてもらって、続きは週明けで大丈夫だから」
私は困惑して彼女を見上げた。
「でも、佐竹さん、言いましたよね。これは明日使いたいからって……」
「ご、ごめんなさい。日程を勘違いしていたのね。急がせてしまって本当にごめんなさいね。だから、矢嶋さんもお手伝いいただかなくて大丈夫ですから」
普段の彼女らしくなく、佐竹はところどころつかえるようにしながら言った。
なんだ。嫌がらせではなかったのか。勘違いだったのなら仕方がない――。
私は佐竹の言葉を特には疑わなかった。それよりもこの作業の完了が、今日中ではなくなったことに安堵した。ちらりと腕時計を見れば、すでに契約上の終業時間がだいぶ過ぎている。疲れたのか、なんだか怠い。もう帰りたいと思っている傍で、矢嶋が佐竹に言うのが聞こえる。
「勘違いは誰にでもあることですからね。しかし、佐竹さんがスケジュールを勘違いするなんて珍しいですね」
「そ、そうでしたか?今日はバタバタして、忙しかったせいかもしれません」
「あえてお願いしなくても、佐竹さんなら誰にでも優しいとは思うんですけど……。川口さんは俺の大事な後輩なので、これからもよろしく頼みます」
そんなことをわざわざ今言わなくてもいいのにと、私は眉間に軽くしわを寄せながら矢嶋の横顔をそっと見上げた。その向こう側に立つ佐竹の笑顔はどこか引きつって見えた。
「え、えぇ、もちろん。川口さんのおかげで、いつも助かっているんです。あの、川口さん、申し訳なかったわ」
佐竹の眉がぴくぴくと動いて見えたのは、私の目の錯覚か。緊張しながら私は言った。
「い、いえ、全然」
そこに矢嶋が割って入る。
「それなら、川口さんの仕事はもう終わりということになりますか?」
「え、まぁ、そうですね。特に他に残っていないのなら……」
「それじゃあ、この後、彼女にお願いしたいことがあるので、お借りしたいんですが大丈夫ですよね?それが終わったら、あとは帰宅してもらっても?」
矢嶋は微笑みながら佐竹を見ている。
彼女は強張った表情のまま頷いた。
「え、えぇ、特に問題はありません」
「それなら、局長にも声をかけていきますね。川口さん、これ、片づけましょう」
「あの、一人でやりますから」
「二人でやった方が早いでしょう?」
矢嶋はにっこりと笑う。
間近にあるその笑顔にどきりとして、顔が熱くなった。これは絶対に暖房が強すぎるせいだと理由付けしながら、私は手早くテーブルの上を片づける。
「この続きは、また週明けにやりますので」
私の言葉に佐竹は我に返ったような顔をし、強張った笑みを浮かべた。
「えぇ、また来週、お願いします。お疲れ様でした」
佐竹は矢嶋に頭を下げ、そそくさと自分の席に戻って行った。口調は穏やかではあったが、その目には悔しそうな色が浮かんでいたように見えて憂鬱になる。
今のでまた風当たりが強くなったりしないよね――。
「局長にも挨拶して行きましょうか」
矢嶋は私を促し、先に立って中沢の席へと向かう。
「お疲れ様です、中沢局長。この後川口さんにお願いしたい作業がありますので、お借りします」
「やぁ、矢嶋君。川口さんに頼みたい作業って、例のラジオ絡み?」
「はい」
「川口さん、こちらの仕事は?」
「今日の分は終わりました」
「そう、それならいいけど……。一応彼女はうちでお願いしてるスタッフなんだからね。矢嶋君、川口さんをこき使わないように頼むよ」
「もちろん。心得ています。それで、その後はそのまま帰宅してもらっても構いませんよね?」
「あぁ、そうして。残業があんまり多いとさ、派遣会社から睨まれてしまうからね。しかし川口さん、引っ張りだこだねぇ。矢嶋君の手伝いが終わり次第帰宅でいいから。お疲れ様でした。また来週」
「お疲れ様でした」
「それじゃあ、川口さん。行きましょう」
私は自分の席を急いで片付ける。佐竹の視線を感じながら、周りにそそくさと頭を下げ、矢嶋の後を追いかけるようにそのフロアを後にした。
廊下に出てすぐの所で私を待っていた彼は、口調を素に戻して言った。
「荷物、持ってこいよ」
手伝いが終わったら、そのまま帰れるようにという配慮だと解釈した。矢嶋に断りを入れて、ロッカーに向かう。荷物を手に戻って来た私を見て、彼は笑みを浮かべた。
「行こうか」
どんな手伝いかと思いながら矢嶋の後を着いて行ったが、途中で彼の足が通用口の方へ向かっていることに気がついた。
「あの、何かお手伝いすることがあるんですよね?」
「ん?まぁな」
曖昧に言って、矢嶋はそのまま外に出た。
「会社、出ちゃいますけど。外でですか?」
「そうだな」
「矢嶋さん?」
「とにかく行くぞ」
すっきりしない気分で彼の後に続いて外に出た。途端に、寒さのせいか、体がぶるっと震え、同時に足元がふらついた。
「大丈夫か」
驚いた矢嶋が私の体を支える。
「す、すみません。大丈夫です」
彼の顎が額際に当たった。慌てて離れようとしたが、矢嶋の手に止められた。
「矢嶋さん、ちょっと……」
彼の体を押しやろうと両腕に力を入れたが、同時にくらりとめまいが起きた。そのせいで自分の意思とは関係なしに、私は彼の胸にもたれかかることになってしまった。
矢嶋の手が私の首筋に触れる。
「っ……」
思わず首をすくめると、矢嶋がため息交じりに言った。
「お前、やっぱり熱あるじゃないか」
「……え?」
「番組終わった時に、なんだか顔が赤いと思ったんだ。大丈夫か」
「暖房が効きすぎて熱いのかと思ってました」
「あのなぁ……」
矢嶋は呆れたようにため息をついた。
「俺んち、ここからすぐなんだよ。行くぞ」
「行くって、どうして」
「だってお前、一人暮らしだろう?このまま一人で帰すなんて、できないんだよ」
「大丈夫ですよ。タクシーつかまえるし」
矢嶋から離れようと私はもがく。
しかしそれを封じ込めるように、彼の腕が背中に回された。
「心配なんだよ。夏貴のことが大切だから」
耳元で囁かれて力が抜けたようになってしまい、私は彼の腕にしがみついた。今の囁きのせいで、ますます全身の熱が上がったような気がする。
矢嶋はこれ以上私が抵抗することはないと踏んだようだ。くすっと笑い、私の体を抱え直して支える。
「少しだけ頑張って歩いてくれな」
矢嶋の声はやけに優しい。
そのせいか、それとも熱のせいか、胸がきゅっと鳴った。
「川口さん、お帰りなさい。早速で悪いんだけど、ちょっとこっちに来てもらえる?」
佐竹に促されて着いて行った先は、フロアの端の方にあるテーブルだった。椅子を四つ置いたそのテーブルは二つあって、それらの間はパーテーションで区切られている。
佐竹は手前側のテーブルの上を目で示しながら言った。
「この箱の中のグッズをね、今日中に袋詰めしてほしいの。お願いできるかしら?」
「グッズ、ですか?」
目の前には段ボール箱が二箱置かれている。大きさはミカン箱くらいだろうか。結構大きい。蓋を開けたその中には、ピンバッジと局のロゴ入りのシールが入っていた。相当な量である。私は確認を取るように、おずおずと佐竹に訊ねた。
「今日中に、これを全部、ですか?」
佐竹は当然のようにあっさりと頷いた。
「えぇ。この梱包用の袋にね、詰めてほしいの。明日使いたいと営業から言われてるのよ」
それならどうして営業でやらないのだろうかと思う。
私の疑問を察したらしく、佐竹は付け加えるように言った。
「こういうのを手配するのも広報の業務の範囲なので」
仕事の中身すべてを知っているわけではない私は、そういうものなのかと理解する。それにしても、私がまだ聞いていないだけなのか、それとも急遽決まったことなのか、明日何かのイベントがあるのだろうか。
私の質問に佐竹の目が一瞬ゆらりと揺れたように見えたが、彼女は淡々とした表情で私の問いに短く答えた。
「えぇ」
「……分かりました」
やらなければならないのなら、やるしかない。
「あの……。原稿が終わり次第でも大丈夫でしょうか?今日は締め切り分が二本ありまして」
佐竹は段ボール箱にちらりと目を走らせる。
「そうね。原稿の方が先ね。それが終わったらということで、お願いします」
「分かりました。それじゃあ、まずは原稿に取り掛かります」
席に戻った私は早速、締め切りが迫る番組紹介用の記事作成に取り掛かった。今日は珍しく佐竹のチェックがスムーズに終わり、締め切りの時間に余裕で間に合った。
少しは態度が和らいできているのかしら――。
佐竹の横顔をちらりと見てほっとしたのもつかの間、視聴者からの問い合わせが立て続けに入った。
一本は手元のデータベースを探して、折り返す必要なく答えることができた。しかしもう一本の問い合わせは、調べる必要がある内容だった。先週のとある番組の中盤頃に、旅館の外観が映し出されたのだが、その時に流れていた曲を知りたいのだという。
一度電話を切って折り返すことにした。土田に対応方法を訊ねたところ、番組のことだから制作部に聞けば分かるはずだと言う。制作部には辻がいるから聞きやすそうだとほっとして、彼に電話を入れると本人が出た。視聴者からこういう問い合わせがあってと話す私に、辻はすぐに答えをくれた。
「ありがとうございます!すぐに分かるなんてすごいです」
驚きながら感心する私に、辻は得意げに言った。
―― この時の選曲、俺だったからね。
「そうだったんですね。でもおかげで助かりました。ありがとうございました!」
私は丁重に礼を告げて電話を切り、折り返しを待っているはずの視聴者に急いで電話をかけた。彼が求めていた答えかどうか緊張したが、当たりだったらしい。その人はありがとうと嬉しそうに言って、電話を切った。視聴者から受け付けた内容をデータに入力し終えて、パソコンの時計を見て焦る。
「もうこんな時間……」
私の独り言が聞こえたらしく、土田が首を回す。
「仕事、まだ結構残ってる?」
「はい、グッズを詰める仕事が……」
「グッズ?」
「はい、あの」
私はちらりと土田のパソコン越しに佐竹の方を見た。
彼女は今、電話中だ。
「佐竹さんからの仕事です。これからやらないといけなくて」
なんとなく声を潜める私に、土田が言う。
「俺に手伝えることがあるなら手伝うよ」
ありがたい申し出だと思った。しかし、土田の前には資料と思しき紙が机一杯に広げられている。その様子を目の当たりにしてお願いできるはずはなく、また、私が直接頼まれた仕事のことで他の人を巻き込むのも申し訳ない。私は笑みを浮かべて首を横に振った。
「お気持ちだけ受け取っておきます。ありがとうございます」
私は自分の机の上を片づける。すぐに佐竹に頼まれた作業にとりかかろうと立ち上がった。
テーブルに着き、実際にその作業を始めてしばらくたった頃、今日中に終わるのだろうかと不安に思い始めた。一人でこれを全部やれというのは嫌がらせではないだろうかと、胸の中がもやもやしてくる。しかし、まさかそんな幼稚なことを佐竹がするはずはないとすぐに打ち消した。
とりあえずは、やれと言われたのだから、やるしかない。私は気持ちを切り替えて、黙々と手を動かし続けた。単調な作業が続いたせいだろうか、頭が少しぼんやりしてきた。暖房が効きすぎてでもいるのか、体も熱い気がする。水でも飲んでこようかと思った時、よく知る人の声が耳に飛び込んできた。
「川口さんはもう帰りましたか?」
矢嶋だった。
「あっ、矢嶋さん!お疲れ様です。川口さんは今作業中で手が離せないようで……。伝言なら私がお聞きしますけど」
佐竹が答えている。艶のある声だと思った。
彼女の言葉に対して矢嶋が何か言ったようだったが、私が座る場所に近い業務企画局でちょうど電話が鳴ったため、よく聞こえなかった。いずれにしてもたいした内容でもないだろうと、私は目の前の作業に集中する。ところが、突然矢嶋の声が降って来て驚いた。
「川口さん、お疲れ様。これ、今日中に全部やるの?」
私は手を止めて、目を瞬かせながら顔を上げた。
「えぇと、そうです。そう言われたので……」
佐竹が矢嶋の後を追って来た。その表情はどこか焦って見える。
「あの、矢嶋さん」
彼は佐竹の声を無視して、箱の中を覗き込んだ。
「まだまだ残ってるじゃないか。これ、ほんとに今日中?一人でやるには厳しい量だろう。手伝うよ」
私は勢いよく首を横に振った。
「だ、大丈夫です。アナウンサーの方にそんなこと、させられません!」
佐竹が笑顔で矢嶋の腕にそっと手を伸ばした。
「そうですよ。矢嶋さんはご自分のお仕事をしてください」
しかし彼女の手が届く前に、矢嶋がやんわりとそれをかわした。
「私の今日のメインの仕事は終わったので大丈夫ですよ。それにこの量、一人よりも二人でやった方が絶対に早い」
佐竹は宙ぶらりんになった手をもう一方の手で隠した。その顔はひどく動揺していた。
「あ、あの、それは川口さんにお願いした仕事ですので」
「でも、佐竹さん」
矢嶋は佐竹を見下ろした。
「これを一人でやるのは大変だと思いませんか?佐竹さんはお忙しいでしょうから、俺が手伝います。川口さん、これはどうすればいい?」
言いながら矢嶋は私が座る隣の椅子に腰を下ろし、箱の中身に手を伸ばした。
彼の頭越しに見えた佐竹は狼狽していた。
「あ、あら、いやだ、私、勘違いしていたみたい。ごめんなさい。これ、来週の中頃までで良かったんだわ。だから、今日はこんなに頑張ってもらったし、もう切り上げてもらって、続きは週明けで大丈夫だから」
私は困惑して彼女を見上げた。
「でも、佐竹さん、言いましたよね。これは明日使いたいからって……」
「ご、ごめんなさい。日程を勘違いしていたのね。急がせてしまって本当にごめんなさいね。だから、矢嶋さんもお手伝いいただかなくて大丈夫ですから」
普段の彼女らしくなく、佐竹はところどころつかえるようにしながら言った。
なんだ。嫌がらせではなかったのか。勘違いだったのなら仕方がない――。
私は佐竹の言葉を特には疑わなかった。それよりもこの作業の完了が、今日中ではなくなったことに安堵した。ちらりと腕時計を見れば、すでに契約上の終業時間がだいぶ過ぎている。疲れたのか、なんだか怠い。もう帰りたいと思っている傍で、矢嶋が佐竹に言うのが聞こえる。
「勘違いは誰にでもあることですからね。しかし、佐竹さんがスケジュールを勘違いするなんて珍しいですね」
「そ、そうでしたか?今日はバタバタして、忙しかったせいかもしれません」
「あえてお願いしなくても、佐竹さんなら誰にでも優しいとは思うんですけど……。川口さんは俺の大事な後輩なので、これからもよろしく頼みます」
そんなことをわざわざ今言わなくてもいいのにと、私は眉間に軽くしわを寄せながら矢嶋の横顔をそっと見上げた。その向こう側に立つ佐竹の笑顔はどこか引きつって見えた。
「え、えぇ、もちろん。川口さんのおかげで、いつも助かっているんです。あの、川口さん、申し訳なかったわ」
佐竹の眉がぴくぴくと動いて見えたのは、私の目の錯覚か。緊張しながら私は言った。
「い、いえ、全然」
そこに矢嶋が割って入る。
「それなら、川口さんの仕事はもう終わりということになりますか?」
「え、まぁ、そうですね。特に他に残っていないのなら……」
「それじゃあ、この後、彼女にお願いしたいことがあるので、お借りしたいんですが大丈夫ですよね?それが終わったら、あとは帰宅してもらっても?」
矢嶋は微笑みながら佐竹を見ている。
彼女は強張った表情のまま頷いた。
「え、えぇ、特に問題はありません」
「それなら、局長にも声をかけていきますね。川口さん、これ、片づけましょう」
「あの、一人でやりますから」
「二人でやった方が早いでしょう?」
矢嶋はにっこりと笑う。
間近にあるその笑顔にどきりとして、顔が熱くなった。これは絶対に暖房が強すぎるせいだと理由付けしながら、私は手早くテーブルの上を片づける。
「この続きは、また週明けにやりますので」
私の言葉に佐竹は我に返ったような顔をし、強張った笑みを浮かべた。
「えぇ、また来週、お願いします。お疲れ様でした」
佐竹は矢嶋に頭を下げ、そそくさと自分の席に戻って行った。口調は穏やかではあったが、その目には悔しそうな色が浮かんでいたように見えて憂鬱になる。
今のでまた風当たりが強くなったりしないよね――。
「局長にも挨拶して行きましょうか」
矢嶋は私を促し、先に立って中沢の席へと向かう。
「お疲れ様です、中沢局長。この後川口さんにお願いしたい作業がありますので、お借りします」
「やぁ、矢嶋君。川口さんに頼みたい作業って、例のラジオ絡み?」
「はい」
「川口さん、こちらの仕事は?」
「今日の分は終わりました」
「そう、それならいいけど……。一応彼女はうちでお願いしてるスタッフなんだからね。矢嶋君、川口さんをこき使わないように頼むよ」
「もちろん。心得ています。それで、その後はそのまま帰宅してもらっても構いませんよね?」
「あぁ、そうして。残業があんまり多いとさ、派遣会社から睨まれてしまうからね。しかし川口さん、引っ張りだこだねぇ。矢嶋君の手伝いが終わり次第帰宅でいいから。お疲れ様でした。また来週」
「お疲れ様でした」
「それじゃあ、川口さん。行きましょう」
私は自分の席を急いで片付ける。佐竹の視線を感じながら、周りにそそくさと頭を下げ、矢嶋の後を追いかけるようにそのフロアを後にした。
廊下に出てすぐの所で私を待っていた彼は、口調を素に戻して言った。
「荷物、持ってこいよ」
手伝いが終わったら、そのまま帰れるようにという配慮だと解釈した。矢嶋に断りを入れて、ロッカーに向かう。荷物を手に戻って来た私を見て、彼は笑みを浮かべた。
「行こうか」
どんな手伝いかと思いながら矢嶋の後を着いて行ったが、途中で彼の足が通用口の方へ向かっていることに気がついた。
「あの、何かお手伝いすることがあるんですよね?」
「ん?まぁな」
曖昧に言って、矢嶋はそのまま外に出た。
「会社、出ちゃいますけど。外でですか?」
「そうだな」
「矢嶋さん?」
「とにかく行くぞ」
すっきりしない気分で彼の後に続いて外に出た。途端に、寒さのせいか、体がぶるっと震え、同時に足元がふらついた。
「大丈夫か」
驚いた矢嶋が私の体を支える。
「す、すみません。大丈夫です」
彼の顎が額際に当たった。慌てて離れようとしたが、矢嶋の手に止められた。
「矢嶋さん、ちょっと……」
彼の体を押しやろうと両腕に力を入れたが、同時にくらりとめまいが起きた。そのせいで自分の意思とは関係なしに、私は彼の胸にもたれかかることになってしまった。
矢嶋の手が私の首筋に触れる。
「っ……」
思わず首をすくめると、矢嶋がため息交じりに言った。
「お前、やっぱり熱あるじゃないか」
「……え?」
「番組終わった時に、なんだか顔が赤いと思ったんだ。大丈夫か」
「暖房が効きすぎて熱いのかと思ってました」
「あのなぁ……」
矢嶋は呆れたようにため息をついた。
「俺んち、ここからすぐなんだよ。行くぞ」
「行くって、どうして」
「だってお前、一人暮らしだろう?このまま一人で帰すなんて、できないんだよ」
「大丈夫ですよ。タクシーつかまえるし」
矢嶋から離れようと私はもがく。
しかしそれを封じ込めるように、彼の腕が背中に回された。
「心配なんだよ。夏貴のことが大切だから」
耳元で囁かれて力が抜けたようになってしまい、私は彼の腕にしがみついた。今の囁きのせいで、ますます全身の熱が上がったような気がする。
矢嶋はこれ以上私が抵抗することはないと踏んだようだ。くすっと笑い、私の体を抱え直して支える。
「少しだけ頑張って歩いてくれな」
矢嶋の声はやけに優しい。
そのせいか、それとも熱のせいか、胸がきゅっと鳴った。
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※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
※この作品はエブリスタ様にも掲載しています。
世間知らずな山ごもり薬師は、××な騎士団長の性癖淫愛から逃げ出せない
二位関りをん
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平民薬師・クララは国境沿いの深い山奥で暮らしながら、魔法薬の研究に没頭している。招集が下れば山を下りて麓にある病院や娼館で診察補助をしたりしているが、世間知らずなのに変わりはない。
ある日、山の中で倒れている男性を発見。彼はなんと騎士団長・レイルドで女嫌いの噂を持つ人物だった。
当然女嫌いの噂なんて知らないクララは良心に従い彼を助け、治療を施す。
だが、レイルドには隠している秘密……性癖があった。
――君の××××、触らせてもらえないだろうか?
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