意地悪な美声は愛を囁く~簡単には堕ちたくありません~

芙月みひろ

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11・想定外のお泊り

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 矢嶋の住まいは、会社から十分ほど歩いた場所にあるマンションだった。
 彼に支えられながら建物の中に入り、エレベーターに乗って上階へと移動する。
 彼の部屋の玄関をまたぐ頃には熱がさらに上がっていたようで、頭がぼうっとしていた。

「とりあえず、ベッドに連れてくぞ」

 矢嶋は私からコートとブーツを手早く脱がせて、私を抱き上げた。
 声を出す元気をなくしていた私は、無言で頷きぐったりと彼に体を預ける。

「今、部屋をあっためるからな。ひとまずこのまま寝ててくれ」

 矢嶋は私をベッドに寝かせて布団をかけてから、隣のリビングルームへと出て行った。しばらくして、ラフな部屋着姿となって戻って来た。何かを乗せた小さなトレイを手にしている。それをベッド脇のミニテーブルに置いてから、私の額に手を当てて顔をしかめた。

「けっこう熱いな。ちょっとごめん」

 矢嶋はそう言うと、私の服の襟元から体温計を差し入れた。
 電子音が鳴ったタイミングで体温計を取り出し、彼は眉をひそめる。

「三十八度七分だってさ。薬、飲めるか?」

 私は頷き、もそもそと体を起こした。

「すいません。ご迷惑を……」

 矢嶋がベッド端に腰を下ろして、私の背を支えてくれる。元気な時だったらその手から逃げようとしただろうが、今の私にそんな元気はない。

「気にするな。もし食べられそうなら、後でおかゆでも作ってやるけど、ひとまずはこれ。ゼリーがあった。薬を飲む前に何か食べた方がいいだろ」
「桃のゼリー?」

 差し出された彼の手から、私はゼリーとスプーンを受け取った。

「この前会社でもらったやつなんだけど」
「ふふっ。ありがとうございます」

 熱のせいなのか、自分でも不思議なくらい素直に言葉が出た。
 ゼリーを食べ、薬を飲み終えた私の前に、矢嶋が着替えらしきものを置く。

「俺の服で悪いけど、そのまま横になるよりはマシだろ。薬を飲んだから汗もかくだろうし」
「でも……」

 躊躇している私の頬に矢嶋は手を伸ばし、にっと笑った。

「着替えさせてやろうか?」
「じ、自分でやります」

 私は着替えを胸に抱え、彼から顔を逸らした。

「俺はあっちにいるけど、何かあったらすぐに呼べよ。声が出なけりゃ携帯でワン切りでもいいからな」
「はい……」

 私が頷くのを見て、矢嶋は部屋から出て行った。
 彼の好意に甘える形になってしまった。それを申し訳なく思いつつも、安心感を覚えていた。胸の中も温かい気持ちで満たされている。こんなことを思うのは熱があるせいだろうかと、これまでの彼との関係を思い出してこっそりと苦笑する。
 のろのろと着替えをすませて、彼のベッドに潜り込んだ。自分とは違う匂いを鼻先に感じてそわそわと落ち着かなくなる。
 にわかにどきどきと弾み出した胸を抱え込むように、布団の中、体を丸めて目を閉じた。眠ろうとするが、眠気はやってこない。暖房が入っているはずだが悪寒がする。薬は飲んだが、まだこれから熱が上がるという前兆なのかもしれない。私はさらに体を丸めた。

「具合はどうだ?」

 すっぽりと頭からかぶった布団の外から、矢嶋の声が聞こえた。

「夏貴?大丈夫なのか?」

 私を心配する声に答えようとして、布団から顔を覗かせる。

「すいません、あの。掛けるもの、もっとありませんか……」
「掛けるもの?寒いのか?」
「はい……」

 矢嶋が私の様子をうかがっている。彼はしばらく考え込む様子を見せていたが、リビングとの間の扉を閉めると、私の隣に体を滑り込ませてきた。

「えっ、ちょっと、何?」

 驚いて起き上がろうとした途端にぐらりとめまいが起きて、私は布団の上に突っ伏した。

「急に起き上がるな」

 矢嶋の腕が私の体に伸ばされたかと思ったら、そのまま彼の胸の中に抱き寄せられた。

「矢嶋さん、あの……」
「本当は裸でくっついていた方が温かいって聞くけど、さすがにそれは嫌だろ?」

 頭の真上で矢嶋の声が響く。

「目を瞑れ。とにかくぐっすり寝て早く治せ」
「こんな状態で、ぐっすりなんて、眠れるわけがないじゃないですか」

 息苦しいほど鼓動が早い。矢嶋にも聞こえているのではないかと心配になるほど、どきどきしている。

「子守歌でも歌ってやろうか」
「ばか……」
「ばかとはずいぶんだな」

 恥ずかしさをごまかそうとしていることに、気づかれているようだ。矢嶋はくすっと笑うと、私の背中を手のひらで撫で始めた。

「風邪かもしれないから、離れた方がいいですよ」
「風邪か、それは困るな。もし具合が悪くなった時は、お前が看病してくれ」
「嫌に決まってるんですけど」

 可愛げのない言葉で返しても、矢嶋は私の背を撫でる手を止めなかった。彼の腕の中で心地よい温かさに包まれているうちに、寒気が落ち着いてきた。私のもとにようやく眠気が訪れたのは、彼のその温かさのせいか、それともちょうど効いてきたらしい薬のおかげか。
 その後の私は、朝まで一度も目覚めることはなかったようだ。寝返りを打とうとしたが体が動かないことに驚いて、そこで私ははっと目を開けた。ここはどこだと確かめるよりも先に耳に入ったのは、すぐ隣で聞こえる規則正しい寝息だった。

 矢嶋さんもあのまま寝ちゃったんだ――。

 起き上がろうとしてはっとする。身動きが取れない。彼の腕が体に回されたままだったのだ。これではベッドから抜け出そうにも抜け出せない。矢嶋を起こそうかと思ったが、気持ちよさそうに眠っているのを見たら、それも憚られる。困惑しながらも仕方がないと早々に諦めて、私は穏やかな寝息を立てている彼の顔を眺めた。

 イケメンは寝顔もイケメンなのね。羨ましいな。あ、でも、ヒゲが。ふふっ……。

 こんなに間近で彼を見るのは初めてだ。思わぬ発見があって面白く、声を殺して笑っていると、矢嶋が急にぱちりと目を開けた。
 私は気まずさを曖昧な笑みで隠して彼に声をかけた。

「お、おはようございます」
「ん……」

 矢嶋は何度か瞬きをしてから、私の首筋に手を伸ばす。

「っ……」

 首をすくめた私を見て軽く笑い、それから手を離して言った。

「熱、下がったみたいだな。よかった」
「あ、ありがとうございました。本当にご迷惑を……」
「迷惑なんて、全然さ」

 そう言って彼は私の頬にかかっていた髪を手ではらう。そのまま私の頬をそっと撫でた。

「あ、あの、矢嶋さん……」

 普段から濃いわけではないが、昨夜化粧を落とさないままの寝起き顔。しかも病み上がり。絶対にひどい顔をしているはずで、そんなにじっと見ないでほしいと思う。目をそらし体を起こしながら私は言った。

「私、帰りますね」
「送る」
「一人で大丈夫です」
「送らせてくれ。心配だから」
「本当にもう大丈夫ですから」

 そう言ってベッドから出ようとした私を、矢嶋の手が引き留めた。
 私はその弾みで彼の隣に引き戻されてしまった。
 彼は私の背中に手を回して、耳の傍に顔を寄せた。

「夏貴、待って」
「あっ……」

 なんということのない言葉をただ耳元で囁くように言われただけなのに、首筋にぞくぞくとした感覚が走った。思わず変な声が出てしまう。

 まただ――。

 恥ずかしくて顔を手で覆っている私に、矢嶋が満足そうに言った。

「夏貴って、もしかして耳が弱点?それとも俺の声に弱いのか?」
「な、何ですか、その質問は」
「何って、別に。夏貴の弱点を確かめたくなっただけ。だけど今日は病み上がりだから、これ以上は何もしないよ。安心しな」
「何もしないって……」
「だって、俺、堕としてやるから覚悟しとけって、お前に言ったじゃないか。覚えていないのか?」

 矢嶋の言葉にあの時の記憶がまざまざと蘇った。私は顔を隠したまま言う。

「だって、あれ、本当は冗談ですよね」
「まさか本気にしていなかったのかよ」

 矢嶋がはぁっとため息をついた。

「これまでの俺の態度のせいなのは分かってるけど、そうか。冗談だと思っていたのか……」
「だってあり得ないですもの」

 私は体の向きを変えて、矢嶋の傍から逃げようとした。しかし、それよりも早く彼の手につかまってしまう。背後から抱き締められて、心拍が一気に跳ね上がった。

「さっきも言った通り、これ以上は何もしない。だけどもう少しだけ、このままでいさせてくれ」
「あ、あの……」
「夏貴、好きだ。早く俺のことも好きになって」

 彼の声が甘く私の名前を口にし、甘い言葉を耳に注ぐ。それに抵抗するどころか、あっという間に、心の中だけでなく頭の中までが彼でいっぱいになり、麻痺したように何も考えられなくなってしまった。
 悔しいけれど、矢嶋からの告白以来、彼を意識するようになったのは確かだ。彼にどきどきしてしまうのは「そういう理由」からだと分かっている。私はたぶん彼を好きになりかけている。いや、ずっと昔に抱いた恋心が再燃してしまっている。さらには、彼が微かな独占欲をにじませて「夏貴」と呼ぶのを、私はすでに受け入れてしまっていた。
 しかしこれまでの私は、彼からさんざんからかわれ、不愉快な気分にさせられてきたのだ。そう簡単には頷きたくない。

「それにはまだまだ時間が必要だと思いますけど」

 あえてつんとした口調で言う私に矢嶋は笑う。

「なかなか手強いな。だけど、そう簡単に堕ちるようでも逆に心配だし、そう考えれば仕方がないか。とりあえず、軽く何か食べよう。着替えたらこっちにおいで。朝食の準備、しておくよ」

 ぎしりときしむ音をさせて、矢嶋がベッドから起き上がった。

「私の分はいりませんから」

 しかし彼はにっと笑う。

「そんなこと言わないで、付き合ってくれ。夕べ適当に食べただけだったから腹が減ってるんだよ。夏貴だって、ゼリーしか食べていないだろ?少しでも何か口に入れた方がいい。ところでその前に、シャワーでも浴びるか?」

 状況が状況だったにしても、友達でも恋人でもない人の部屋に一泊してしまった上に、さらに甘えるなどとんでもない。

「いえ、帰ってからで大丈夫です」
「そうか?」

 きっぱりと断る私に矢嶋は苦笑を浮かべた。それからリビングの方へいったん姿を消し、次に戻ってきた時にはタオルを手にしていた。

「顔だけでも洗ったら?」

 素顔を見せることになってしまうと躊躇した。しかし、どうせもう化粧がはげ落ちたみっともない顔を見られている。恥ずかしがるのも今さらかと、私はありがたくタオルと洗面所を借りることにした。
 洗顔と着替えを済ませた後は、矢嶋が手早く用意してくれたおかゆを頂く。見た目も綺麗だし、美味しいと思った。

「矢嶋さんって、料理ができるんですね。今までそういうイメージがなかったから、ちょっと驚いてます」
「それなりに一人暮らし歴が長いからな。そこそこできるようになったんだよ。リクエストがあったら、今度作ってやるよ」
「そんな今度はないと思いますけど」

 心の中で嬉しいと思ったくせに、反射的にひねくれたことを言ってしまって後悔する。今までの彼との会話がいつもこんな調子だったせいだ。

「そろそろ送って行こう」

 普段着に着替え終えた矢嶋は、眼鏡をかけていた。前髪を軽く流しているからか、学生時代にでも戻ったかのような姿だった。

「飲み会で会うたびに思っていましたけど、そういう格好していると、テレビに映っている時とは全然違いますよね」
「プライベートまであれだったら疲れるじゃないか」
「そういうものですか」

 私はふふっと笑う。

「俺さ、夏貴のその笑い方ってなんか好きなんだよな」
「な、何を急に言い出すんですか」

 突然しみじみとした顔で「好き」だなどと言われて落ち着かなくなった。

「急にじゃないよ。今までもずっとそう思っていたんだ。だけど今度からは、思うだけじゃなく、口に出そうと思ってさ。だから正直に『好きだ』って言っただけだよ。とにかく、今までからかったりしてきたことを帳消しにするためには、お前を好きだってことを、事あるごとに前面に出していかないといけないだろ」

 私の方に身を乗り出すようにして、彼は続ける。

「好きなところならもっとあるぜ。からかった時に表情がくるくる変わるところ、あれも好きなんだよな。八つ当たり気味にお前をからかってたのは本当だけど、その顔を見たくて、つい構いたくなってたってのもあったんだよな」
「なっ……」
「そういうむっとした顔も好きだ。……つまりはどんな時の夏貴も好きってことだな。もちろんお前の中身も好きだよ」

 何度も「好き」という言葉を口にする矢嶋に、どういう顔をしたらいいのか分からなくなる。彼の言葉の攻撃にとうとう耐え切れなくなり、私は熱くなった顔を両手で覆った。

「もう、やめてください。罰ゲームなんですか、これ。恥ずかしすぎます……」
「あはは。さて、そろそろ出るか。俺、十時まで局に入らないといけなくてさ」

 その言葉で思い出した。矢嶋は昼枠のニュースに出ているのだ。

「やっぱり私、バスで帰ります。だから矢嶋さんは出かける準備をしてください」
「いや、送って行くよ。それに会社はここから近い。夏貴を送ってから準備しても十分に間に合う。だから気にしなくていい」
「だけどこれ以上は……」

 迷惑をかけるわけにはいかない――。

 そう言葉を続けようとした時、矢嶋が立ち上がった。私の傍に立ち、悪戯めいた笑みを浮かべる。

「申し訳ないって思うんなら、俺のお願いを一つ聞いてくれないか?」
「お願い?」
「そ」

 矢嶋はにっと笑って私の前で体をかがめた。何をするつもりなのかと身構える私に顔を近づけて、彼は自分の頬を指差した。

「ここにキスの一つもほしいな」
「え……」
「口にしてほしいって言ってるわけじゃないぜ」
「だけど……」

 困惑する私の前に、矢嶋はさらに頬を近づける。
 私はごくりと生唾を飲みこみ、ほんの少しだけ高い位置にある彼の横顔を見上げた。

 彼が言った通り、口にするわけじゃない。たかだか唇の先をちょっぴり触れさせるだけのこと。そしてこれはただのお礼の意味のキスだ――。

 私は自分に言い聞かせ、首を伸ばして彼の頬にじりじりと顔を近づけた。直前になって目を閉じ、彼の頬に唇が触れたと思った時だった。違和感を感じてはっと目を開けた私は、途端に息を飲んだ。なぜならすぐ目の前に、矢嶋の顔があったからだ。あっと思った時にはもう遅く、私の唇は彼の唇に触れた後だった。

 なんてこと……!

 心臓がドクンッと音を立てる。私は慌てて体ごと矢嶋から離れた。
 彼はひどく満足そうな顔をしていた。

「次はもう少し長くキスしたいな」
「だ、騙したんですね!」

 顔を熱くしながら私は矢嶋に文句を言った。
 しかし彼はそれを軽く流し、私の頭を撫でる。そんなことをされたら、これ以上文句を言う気など起きない。

「それだけ声を出せるんなら、もう大丈夫だな。風邪というよりは疲れからきてたのかもしれないな。さて、行くか」

 矢嶋は穏やかな笑みを浮かべて私を促す。
 玄関に向かう彼の後に続きながら、私は自分の唇にそっと指先で触れた。

 柔らかかった――。

 彼の唇の感触を思い出し、胸の奥がきゅっと疼いた。これはもう諦めて、彼の気持ちを受け入れざるを得ないのかと苦々しく思う。けれど頷くのはまだだ。もう少しだけ抵抗しようと、私は意地悪な気分で彼の背中を見つめた。
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