エリート医師の婚約者は名探偵でトラブルメーカー

香月しを

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 レコーディア巡査が、妙にはっきりとした声を出した。顔を背けていた私の横を、監察医が足早にすり抜けていく。自分に向けられた言葉なのかと思ったが、そうではなかった。

「申し訳ない。私としたことが、必要な道具を、一部忘れてきてしまったようだ。大至急馬を走らせて持ってくるので、少々お待ちいただけないだろうか」
 聞き覚えのある声だった。だが、それが誰だったかが思い出せない。レコーディア巡査は、解剖途中で抜け出すための許可証のようなものが必要なのだと迷惑そうにそう言って、書類を調べ始めた。こんなことを私がしようものなら、シャルロットはきっと痛烈な皮肉を言ったことだろう。もう何も言うことのない遺体に、そっと目を向けた。

「…………あ、あ……おお!」

 腰が抜けた。その場に座り込み、口を押さえた私を、レコーディア巡査を筆頭とした数人の巡査達が気の毒そうに見詰めていた。ハミルトン警部を見ると、険しい表情で首を横に振っている。マスクをつけた監察医は、眉間に皺を寄せ、醜態を晒した私を嘲るように肩を揺らした。

(細かい部分だけを見ずに全体を眺めてみれば、ここにある遺体はシャルロットとはまったく別人じゃないか! レコーディア巡査は嘘をついていた。そして、いまだに私を睨みつけているハミルトン警部も。どういうことだ。何故、嘘をつく? 普通に考えたら、嘘は、何かを隠す術だ。すると……。するとシャルロットは……シャルロットは!)

「どきたまえ! 許可証は貰ったのだ。私にはこの場所を出る権利がある!」
 監察医が出口でアンソニア婆と言い争っていた。ヨボヨボの老婆は、彼の何が気に入らなくて、部屋から出そうとしないのだろう。嗄れた声で老婆が答える。
「あんたさんには、出て行く権利があるだろうて」
「じゃあ、一体何故お前は私の邪魔をするのだ!」

「そのポケットに入っている血まみれの指輪にまでは、許可証は出されていないんじゃよ」

 ギクリとしたのか、監察医の背中が動いた。よく見れば、彼の左手は、先ほどからずっとポケットに入ったままだ。
「な、何を言ってるんだ。私はここから何も持ち出そうとなんて……」
「わしは見てたんじゃ。あんたさんが、その死体の腹のあたりに手を突っ込んで何か赤く光るものを取り、ポケットに忍ばせたのを。そら、その証拠に、ポケットの口のところに血がべったりとついておるじゃろ」
「馬鹿を言ってる。貴様のいた場所から、遺体の置いてある台まで、どれだけの距離があると思う? 何かの見間違いだ。私はそんなことをしていない」
「見間違えじゃと? じゃあ、そのポケットに入っている指輪はなんじゃ? 白衣のポケットの口に血がついてるってことは、血のついた手をそこに通さなければならんのに、今のあんたさんの手は、解剖用の手袋を脱いでいるから綺麗なままじゃ。それをどう説明しなさるね?」
「このポケットに、指輪が入っていることは認めよう。しかし、これはここに来る前から私が持っていた指輪だ。解剖の邪魔になるので、ポケットに入れておいた。ポケットの口に血がついている理由は、私はポケットに手を入れる癖があって、さっきはその癖が思わず出てしまったからだ。婆さんが見た瞬間というのは、まさしくその時だったのではないかな?」

「……やれやれ。やはり、一筋縄ではいかない相手だわね、ドクター。それとも、新聞記者のスティーブとお呼びしたほうがいいかしら? または、落ちぶれてしまった伯爵家の、ただ一人生き残った当主殿とでもお呼びしますか?」

 恋してやまない婚約者の声が聞えてきた。いったいどこから聞えるのかと慌てて周囲を見回すが、あの、私よりもずっと小さい小憎たらしい態度のレディの姿は見当たらなかった。
「……まさか……」
 スティーブと呼ばれた男が低い声で呟いた。そこで思い出した。そうだ、彼は私の実家で新聞記者と名乗った男と声がそっくりだったのだ。まさか、同一人物だったとは。男の目の前に腰を曲げて立っていた老婆が、高笑いしながら背筋を伸ばす。首に巻いていたタオルで顔を拭い、ボロボロの上着を脱ぐと、そこには、我が幼馴染にして婚約者、シャルロット・フォークレスタが立っていた。
「……シャルロット! お前……お前ぇ……!」
「あらぁ、アンソニー。貴方のお説教は、あとでちゃんと聞かせていただくわ。今はまず、この悪者をやっつけてしまいましょう」
 いつもの飄々とした顔で、自分勝手なことを言っている。私は拳を握り締めた。ひとをこれだけ心配させておいて……。デコピンぐらいじゃ気がすまない。怒りを込めて睨みつけると、婚約者は肩を竦めておどけてみせた。

「生きていたのか……」
「ああん、残念だったわね、伯爵。私を死なせる計画が失敗に終わってしまって。実はあの日、貴方との約束の場所に行く途中の汽車で、私は隣同士の席になったご老人に、蜜柑をいただいたの。やけに若々しい手の老人でね、きっと貴方の変装なのだと、すぐに理解したわ。一駅一緒に過ごした後で、老人は汽車をおりて行ったけど、そのまま違う車両に乗り込んだんでしょうね。約束の時間に貴方は遅れて来なかったものね。さて、その蜜柑だけど、中に注入された薬がなんなのかを調べるのに、大変な思いをしたわ。睡眠薬か、毒薬か、だって、もし毒薬だったら、約束の場所に私が現れたらおかしくなってしまうでしょ? 幸い、私の持っていた薬品との反応を見て、睡眠薬だと判明したの。だから、わざと貴方の前で眠くなったふりをしたのよ」
「……何を言っているのか、わからないな」
「あら? 此の期に及んで、まだシラをきるつもり?」
「きみに手紙を書いていた人物が私であることは認めよう。一昨日の晩、きみと約束をしていたのも間違いない。何度も手紙を出して、ようやく返事が来たのだから、舞い上がっていたよ。だから、宝石の話を聞いて、きみの力になりたくて、鑑定をして差し上げようと思ったのだ。約束の場所に到着すると、なんだか眠そうなきみを見つけた。すぐにきみだとわかったよ。だって私は、いつだってきみを見守っていたからね。睡眠不足なんだと思った。お忙しい身体だ。それなのに私に会いに来てくれるなんてと、感激したよ。
 食事をしている時に突然眠り込んでしまったきみをなんとか起こして御実家まで送ろうとしたが、まったく起きる様子のないきみに、途方にくれてしまった。駅まで引きずるようにして連れて行く途中、私も力尽きて、路地に引っ込んだよ。きみの可愛い寝顔を眺めている内に、私も段々眠くなってきて……、気付いたら、きみの姿は無かった。私はきみが先に帰ってしまったのかと思い、自分も駅に向かった。家に到着してから、どうも様子がおかしいと思って、翌日もあの街に行ってみたんだ。そうしたら、あの騒ぎだよ。私は悔しかった。きみという最高のレディを、いったい誰が殺したのかと。そして、近くにいながら何も出来なかった自分の不甲斐なさに辟易した。新聞記者のふりをして、きみの死の真相を調べたり、どうしてもきみの死の原因が知りたくて監察医の真似までしたことは認めよう。しかし、それも、愛ゆえだよ。私はきみに懸想していて、きみの死亡を信じたくなかったんだ」

 胸がむかむかする。この男は、いったい何を言っているのだろう。




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