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第2話
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ディンゴート王国の王太子は十九歳の第二王子である。
二十歳の第一王子は公爵位を与えられ、王城内の離宮に住んでいる。人前には決して姿を現すことなく、もちろん、レイチェルも一度も会ったことがない。ほとんど寝たきりで、掃除や洗濯をするメイドと侍従である子爵令息以外は誰も離宮に近寄らないという。
だから、突然現れた侯爵令嬢が「公爵に会いたい」と言い出したことに門番が面食らうのも無理はない。
レイチェルは繰り返し取り次ぎを願って、身分の証明として懐剣を差し出した。
十六歳を迎え成人した貴族の娘には、両親から家紋を刻んだ懐剣が与えられる。純潔を守るための、いざという時の自害用だ。大切に肌身離さず身に付けねばならないもので、さしもの両親も妹のためにこれを寄越せとは言わなかった。
普通は他人の目に触れさせる物ではないのだが、面識のない王家の血筋に会わせろと要求しているのだから、これぐらいの覚悟は必要だ。貴族令嬢が家紋を刻んだ懐剣を差し出すことの重大さに門番の兵士達は息を飲み、一人が慌ただしく門の中に走り込んでいく。
レイチェルは姿勢良く立ったまま、待ち続けた。令嬢が馬車にも乗らずにやってきて門の前で立っているという異常事態に、門番も怪訝な表情を隠さない。
どれくらい時間が過ぎたのか、中から現れた兵士が門番に何事か囁いて、次の瞬間にレイチェルの前で門が開かれた。
思わずほっと力が抜けそうになるが、これはまだ第一関門に過ぎない。これからが本番だ。
門をくぐったレイチェルの前に、一人の線の細い赤毛の青年が歩み出てきた。
「お初にお目にかかります、アーカシュア侯爵令嬢。私はカーリントン公爵に仕えるライリー・ノルゲンと申します」
「レイチェルと申します、ノルゲン様。本来は先触れを出し面会の許可を得るべきところを、礼儀を失した振る舞いを致しましたことお詫び申し上げます」
「いえ……公爵閣下にお会いしたいと伺いましたが、ご存知の通り閣下は他人とお会いになりません。何か差し迫った事情がおありでしたら、私の口から閣下にお伝えしましょうか?」
「いいえ!」
レイチェルは力強く胸を張った。
「直接、公爵閣下にお願い申し上げたいのです。どうぞ、お目通りの機会をお与えください」
ライリーは探るような表情でレイチェルを眺めたが、彼女の堂々とした態度に説得を諦めたのか、一つ息を吐くと離宮へ案内すると申し出てくれた。
王族の住まう宮殿から少し離れた場所に建てられた離宮は、先々代の国王の時代に寵姫のために建てられたものだ。
その豪壮な建物に足を踏み入れたレイチェルは、冷え冷えとした雰囲気に息を飲んだ。
壁に施された彫刻も柱廊の装飾も素晴らしいものなのに、掃除が行き届いていないのと、陽が射し込まないためにどんよりと薄暗く空気が澱んでしまっている。家具や調度もほとんど無いため、余計にがらんとして寒々しい。
(公爵閣下は、こんなところに十二年も……)
レイチェルは胸を痛めた。
「ここには普段、私と二人のメイド以外は足を踏み入れません。両陛下と王太子殿下は定期的にいらっしゃいますが、その他の人間にお会いするのは何年ぶりか……」
レイチェルを案内しながら、ライリーがちらっと振り返った。
「本当にお会いになりますか? どうしても閣下に申し上げたいことがおありならば、姿が見えないように衝立か何かを用意致しますが」
レイチェルはぐっと顎を上げてライリーを見据えた。
「私が公爵閣下にお会いしたいと押しかけたのです。私に対する気遣いは一切不要です」
ライリーが何を危惧しているかはよく理解できる。レイチェルのような若い令嬢が公爵の姿を目にして、怯えずにいられる訳がないと彼は思っているのだろう。
だが、レイチェルはすべて覚悟の上でここへやってきたのだ。
「では、ここで少々お待ちください。——ヴェンディグ様、アーカシュア侯爵令嬢をお連れしました」
立派な樫の木の扉の前で立ち止まらされ、先にライリーのみがその室内に入る。
二言、三言、話し合う声が聞こえた後、ライリーが扉を大きく開いてレイチェルを招き入れた。
そこは書斎だった。かなりの広さと天井まで届く本棚に囲まれた室内で、その人は窓辺のカウチにゆったりと腰掛けて手に持った懐剣をいじっていた。
「アーカシュア侯爵令嬢。こんな格好ですまないな。本来なら正装で出迎えるべきところを」
涼やかで、どこかイタズラ好きの少年のような声だった。しっかりとした響きからは、呪いに蝕まれて寝たきりという儚さは感じられない。
白いシャツと黒いズボンだけの簡素な格好のせいもあって、ごく普通の青年のように見える。
「アーカシュア侯爵が一女、レイチェルと申します。閣下、無礼を働いたのは私の方でございます。お怒りになられて当然のところ、寛大にもこうしてお目通りの機会をいただけましたこと感謝の念に堪えません」
最大限に心を込めてカーテシーを見せる。
「完璧だな。美しい」
ディンゴート王国の第一王子として生まれたヴェンディグ・カーリントン公爵は、手の中の懐剣を撫でながらレイチェルを褒めた。
「顔を上げるといい」
「ありがとうございます」
許しを得て顔を上げたレイチェルは、こちらを見つめていたヴェンディグと目を合わせて、息を詰めた。
日に当たらないためか抜けるような白い肌に、ダークブロンドの髪に琥珀色の瞳、そして、顔の左半分に流れるようにくっきりと刻まれた蛇の鱗のような赤黒い痣。
痣は首筋まで続いていて、服の下にもその痣があるとわかる。
第一王子は八歳の頃、蛇の呪いを受け、全身に蛇の痣が現れた。
もちろん、レイチェルもその話は知っていたが、思っていた以上にはっきりとした蛇の鱗に咄嗟に体が震えそうになる。
「驚いたか」
「……はい」
「正直だな」
ヴェンディグは「はっ」と鼻で笑ったが、気分を害した様子は見られなかった。
「で、アーカシュア侯爵令嬢」
「レイチェルとお呼びください」
「では、レイチェル嬢。家紋を刻んだ懐剣を渡してまで、この蛇に蝕まれる生贄公爵に訴えたい願いとはなんだ?」
ヴェンディグは手の中の懐剣をレイチェルに向けて突き出す。
「貴族令嬢が家紋の入った懐剣を他人に渡す意味は二つ。一つは命を懸けて訴えたい願いがある場合だ。この場合、懐剣を渡された方が願いを聞かずに懐剣を返すことは拒絶と、恥を雪ぐために自害を勧める意味になる」
命を懸けた願いを拒絶された場合、貴族の娘は返された懐剣で自害せねばならない。古い掟だが、もちろん貴族であれば誰でも知っている。
「こんなものを渡されては、会わぬわけにはいかないではないか」
「申し訳ありません」
「で、願いはなんだ?」
愉快そうに尋ねられ、レイチェルはぐっと唇を噛んでヴェンディグを見つめた。
「私の願いは、懐剣を渡すもう一つの意味でございます」
レイチェルの言葉に、面白そうな表情を浮かべていたヴェンディグが、初めて眉をひそめた。
令嬢が、懐剣を渡すもう一つの意味。貞操を守るために常に身につけるそれを手放す意味。すなわち、求婚だ。
「お願いします! 私と結婚してください!」
「……はあ?」
勇気を振り絞ってレイチェルが口にした求婚に、ヴェンディグは琥珀色の瞳を思いきり歪ませたのだった。
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