生贄公爵と蛇の王

荒瀬ヤヒロ

文字の大きさ
2 / 98

第2話

しおりを挟む


***


 ディンゴート王国の王太子は十九歳の第二王子である。
 二十歳の第一王子は公爵位を与えられ、王城内の離宮に住んでいる。人前には決して姿を現すことなく、もちろん、レイチェルも一度も会ったことがない。ほとんど寝たきりで、掃除や洗濯をするメイドと侍従である子爵令息以外は誰も離宮に近寄らないという。

 だから、突然現れた侯爵令嬢が「公爵に会いたい」と言い出したことに門番が面食らうのも無理はない。
 レイチェルは繰り返し取り次ぎを願って、身分の証明として懐剣を差し出した。
 十六歳を迎え成人した貴族の娘には、両親から家紋を刻んだ懐剣が与えられる。純潔を守るための、いざという時の自害用だ。大切に肌身離さず身に付けねばならないもので、さしもの両親も妹のためにこれを寄越せとは言わなかった。
 普通は他人の目に触れさせる物ではないのだが、面識のない王家の血筋に会わせろと要求しているのだから、これぐらいの覚悟は必要だ。貴族令嬢が家紋を刻んだ懐剣を差し出すことの重大さに門番の兵士達は息を飲み、一人が慌ただしく門の中に走り込んでいく。
 レイチェルは姿勢良く立ったまま、待ち続けた。令嬢が馬車にも乗らずにやってきて門の前で立っているという異常事態に、門番も怪訝な表情を隠さない。

 どれくらい時間が過ぎたのか、中から現れた兵士が門番に何事か囁いて、次の瞬間にレイチェルの前で門が開かれた。
 思わずほっと力が抜けそうになるが、これはまだ第一関門に過ぎない。これからが本番だ。
 門をくぐったレイチェルの前に、一人の線の細い赤毛の青年が歩み出てきた。

「お初にお目にかかります、アーカシュア侯爵令嬢。私はカーリントン公爵に仕えるライリー・ノルゲンと申します」
「レイチェルと申します、ノルゲン様。本来は先触れを出し面会の許可を得るべきところを、礼儀を失した振る舞いを致しましたことお詫び申し上げます」
「いえ……公爵閣下にお会いしたいと伺いましたが、ご存知の通り閣下は他人とお会いになりません。何か差し迫った事情がおありでしたら、私の口から閣下にお伝えしましょうか?」
「いいえ!」

 レイチェルは力強く胸を張った。

「直接、公爵閣下にお願い申し上げたいのです。どうぞ、お目通りの機会をお与えください」

 ライリーは探るような表情でレイチェルを眺めたが、彼女の堂々とした態度に説得を諦めたのか、一つ息を吐くと離宮へ案内すると申し出てくれた。



 王族の住まう宮殿から少し離れた場所に建てられた離宮は、先々代の国王の時代に寵姫のために建てられたものだ。
 その豪壮な建物に足を踏み入れたレイチェルは、冷え冷えとした雰囲気に息を飲んだ。
 壁に施された彫刻も柱廊の装飾も素晴らしいものなのに、掃除が行き届いていないのと、陽が射し込まないためにどんよりと薄暗く空気が澱んでしまっている。家具や調度もほとんど無いため、余計にがらんとして寒々しい。

(公爵閣下は、こんなところに十二年も……)

 レイチェルは胸を痛めた。

「ここには普段、私と二人のメイド以外は足を踏み入れません。両陛下と王太子殿下は定期的にいらっしゃいますが、その他の人間にお会いするのは何年ぶりか……」

 レイチェルを案内しながら、ライリーがちらっと振り返った。

「本当にお会いになりますか? どうしても閣下に申し上げたいことがおありならば、姿が見えないように衝立か何かを用意致しますが」

 レイチェルはぐっと顎を上げてライリーを見据えた。

「私が公爵閣下にお会いしたいと押しかけたのです。私に対する気遣いは一切不要です」

 ライリーが何を危惧しているかはよく理解できる。レイチェルのような若い令嬢が公爵の姿を目にして、怯えずにいられる訳がないと彼は思っているのだろう。
 だが、レイチェルはすべて覚悟の上でここへやってきたのだ。

「では、ここで少々お待ちください。——ヴェンディグ様、アーカシュア侯爵令嬢をお連れしました」

 立派な樫の木の扉の前で立ち止まらされ、先にライリーのみがその室内に入る。
 二言、三言、話し合う声が聞こえた後、ライリーが扉を大きく開いてレイチェルを招き入れた。
 そこは書斎だった。かなりの広さと天井まで届く本棚に囲まれた室内で、その人は窓辺のカウチにゆったりと腰掛けて手に持った懐剣をいじっていた。

「アーカシュア侯爵令嬢。こんな格好ですまないな。本来なら正装で出迎えるべきところを」

 涼やかで、どこかイタズラ好きの少年のような声だった。しっかりとした響きからは、呪いに蝕まれて寝たきりという儚さは感じられない。
 白いシャツと黒いズボンだけの簡素な格好のせいもあって、ごく普通の青年のように見える。

「アーカシュア侯爵が一女、レイチェルと申します。閣下、無礼を働いたのは私の方でございます。お怒りになられて当然のところ、寛大にもこうしてお目通りの機会をいただけましたこと感謝の念に堪えません」

 最大限に心を込めてカーテシーを見せる。

「完璧だな。美しい」

 ディンゴート王国の第一王子として生まれたヴェンディグ・カーリントン公爵は、手の中の懐剣を撫でながらレイチェルを褒めた。

「顔を上げるといい」
「ありがとうございます」

 許しを得て顔を上げたレイチェルは、こちらを見つめていたヴェンディグと目を合わせて、息を詰めた。

 日に当たらないためか抜けるような白い肌に、ダークブロンドの髪に琥珀色の瞳、そして、顔の左半分に流れるようにくっきりと刻まれた蛇の鱗のような赤黒い痣。

 痣は首筋まで続いていて、服の下にもその痣があるとわかる。

 第一王子は八歳の頃、蛇の呪いを受け、全身に蛇の痣が現れた。
 もちろん、レイチェルもその話は知っていたが、思っていた以上にはっきりとした蛇の鱗に咄嗟に体が震えそうになる。

「驚いたか」
「……はい」
「正直だな」

 ヴェンディグは「はっ」と鼻で笑ったが、気分を害した様子は見られなかった。

「で、アーカシュア侯爵令嬢」
「レイチェルとお呼びください」
「では、レイチェル嬢。家紋を刻んだ懐剣を渡してまで、この蛇に蝕まれる生贄公爵に訴えたい願いとはなんだ?」

 ヴェンディグは手の中の懐剣をレイチェルに向けて突き出す。

「貴族令嬢が家紋の入った懐剣を他人に渡す意味は二つ。一つは命を懸けて訴えたい願いがある場合だ。この場合、懐剣を渡された方が願いを聞かずに懐剣を返すことは拒絶と、恥を雪ぐために自害を勧める意味になる」

 命を懸けた願いを拒絶された場合、貴族の娘は返された懐剣で自害せねばならない。古い掟だが、もちろん貴族であれば誰でも知っている。

「こんなものを渡されては、会わぬわけにはいかないではないか」
「申し訳ありません」
「で、願いはなんだ?」

 愉快そうに尋ねられ、レイチェルはぐっと唇を噛んでヴェンディグを見つめた。

「私の願いは、懐剣を渡すもう一つの意味でございます」

 レイチェルの言葉に、面白そうな表情を浮かべていたヴェンディグが、初めて眉をひそめた。
 令嬢が、懐剣を渡すもう一つの意味。貞操を守るために常に身につけるそれを手放す意味。すなわち、求婚だ。

「お願いします! 私と結婚してください!」
「……はあ?」

 勇気を振り絞ってレイチェルが口にした求婚に、ヴェンディグは琥珀色の瞳を思いきり歪ませたのだった。


しおりを挟む
感想 10

あなたにおすすめの小説

【完結】乙女ゲーム開始前に消える病弱モブ令嬢に転生しました

佐倉穂波
恋愛
 転生したルイシャは、自分が若くして死んでしまう乙女ゲームのモブ令嬢で事を知る。  確かに、まともに起き上がることすら困難なこの体は、いつ死んでもおかしくない状態だった。 (そんな……死にたくないっ!)  乙女ゲームの記憶が正しければ、あと数年で死んでしまうルイシャは、「生きる」ために努力することにした。 2023.9.3 投稿分の改稿終了。 2023.9.4 表紙を作ってみました。 2023.9.15 完結。 2023.9.23 後日談を投稿しました。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

置き去りにされた転生シンママはご落胤を秘かに育てるも、モトサヤはご容赦のほどを 

青の雀
恋愛
シンママから玉の輿婚へ 学生時代から付き合っていた王太子のレオンハルト・バルセロナ殿下に、ある日突然、旅先で置き去りにされてしまう。 お忍び旅行で来ていたので、誰も二人の居場所を知らなく、両親のどちらかが亡くなった時にしか発動しないはずの「血の呪縛」魔法を使われた。 お腹には、殿下との子供を宿しているというのに、政略結婚をするため、バレンシア・セレナーデ公爵令嬢が邪魔になったという理由だけで、あっけなく捨てられてしまったのだ。 レオンハルトは当初、バレンシアを置き去りにする意図はなく、すぐに戻ってくるつもりでいた。 でも、王都に戻ったレオンハルトは、そのまま結婚式を挙げさせられることになる。 お相手は隣国の王女アレキサンドラ。 アレキサンドラとレオンハルトは、形式の上だけの夫婦となるが、レオンハルトには心の妻であるバレンシアがいるので、指1本アレキサンドラに触れることはない。 バレンシアガ置き去りにされて、2年が経った頃、白い結婚に不満をあらわにしたアレキサンドラは、ついに、バレンシアとその王子の存在に気付き、ご落胤である王子を手に入れようと画策するが、どれも失敗に終わってしまう。 バレンシアは、前世、京都の餅菓子屋の一人娘として、シンママをしながら子供を育てた経験があり、今世もパティシエとしての腕を生かし、パンに製菓を売り歩く行商になり、王子を育てていく。 せっかくなので、家庭でできる餅菓子レシピを載せることにしました

靴屋の娘と三人のお兄様

こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!? ※小説家になろうにも投稿しています。

『異世界庭付き一戸建て』を相続した仲良し兄妹は今までの不幸にサヨナラしてスローライフを満喫できる、はず?

釈 余白(しやく)
ファンタジー
 毒親の父が不慮の事故で死亡したことで最後の肉親を失い、残された高校生の小村雷人(こむら らいと)と小学生の真琴(まこと)の兄妹が聞かされたのは、父が家を担保に金を借りていたという絶望の事実だった。慣れ親しんだ自宅から早々の退去が必要となった二人は家の中で金目の物を探す。  その結果見つかったのは、僅かな現金に空の預金通帳といくつかの宝飾品、そして家の権利書と見知らぬ文字で書かれた書類くらいだった。謎の書類には祖父のサインが記されていたが内容は読めず、頼みの綱は挟まれていた弁護士の名刺だけだ。  最後の希望とも言える名刺の電話番号へ連絡した二人は、やってきた弁護士から契約書の内容を聞かされ唖然とする。それは祖父が遺産として残した『異世界トラス』にある土地と建物を孫へ渡すというものだった。もちろん現地へ行かなければ遺産は受け取れないが。兄妹には他に頼れるものがなく、思い切って異世界へと赴き新生活をスタートさせるのだった。 連載時、HOT 1位ありがとうございました! その他、多数投稿しています。 こちらもよろしくお願いします! https://www.alphapolis.co.jp/author/detail/398438394

貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。

黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。 この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。

〈完結〉遅効性の毒

ごろごろみかん。
ファンタジー
「結婚されても、私は傍にいます。彼が、望むなら」 悲恋に酔う彼女に私は笑った。 そんなに私の立場が欲しいなら譲ってあげる。

おばさんは、ひっそり暮らしたい

波間柏
恋愛
30歳村山直子は、いわゆる勝手に落ちてきた異世界人だった。 たまに物が落ちてくるが人は珍しいものの、牢屋行きにもならず基礎知識を教えてもらい居場所が分かるように、また定期的に国に報告する以外は自由と言われた。 さて、生きるには働かなければならない。 「仕方がない、ご飯屋にするか」 栄養士にはなったものの向いてないと思いながら働いていた私は、また生活のために今日もご飯を作る。 「地味にそこそこ人が入ればいいのに困るなぁ」 意欲が低い直子は、今日もまたテンション低く呟いた。 騎士サイド追加しました。2023/05/23 番外編を不定期ですが始めました。

処理中です...