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六十八話
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「………なにがあったんだ?」
開口一番、サムライが尋ねた。
「………………………べつに」
サムライの方は見ずにページをめくる。途中でとんだ邪魔が入ったせいで二章までしか読めなかった、ちょうど面白くなってきたところだったのに。ひとりしずかに読書できる場所をさがして展望台に辿り着いたというのに後から来たリョウが声高に自慢をはじめるから僕の集中力まで散らされたではないか。
僕には我慢できないことが三つある。
一つは低脳に見下されること、二つ目は読書を邪魔されること、三つ目は妹を侮辱されること。リョウはこの全部に抵触した上に僕に謝罪することなく飄々としていた、周囲の同情と関心を乞おうと白々しく号泣してみせたところで彼に対する罪悪感など微塵もない。
当たり前だ、何も悪くない僕がどうして謝らなければならない?
苛々しながらページをめくり、三章の冒頭に目を落とす。遺伝子の進化とその可能性……ベッドに腰掛け、図書室から借りてきた本を膝に広げ、印刷された活字を目で追う。どこへ行ってたのかは知らないが外出先から帰ってきたサムライは僕の前を素通りするや、向かいのベッドへと腰掛ける。とはいえ完全な無関心は装えないのだろう、時折ちらりちらりと鋭い眼光を向けてくる。
観察されてるようで落ち着かない。
荒々しく本を閉じ、脇におく。なんで僕が観察されなければならない、立場が逆だろう。サムライは観察対象で僕は観察者、優位に立っているのは僕の方だ。手の中のモルモットに好奇の眼差しを注がれるのはプライドの危機だ。
「言いたいことがあるならはっきり言え」
できるだけ平坦な口調を意識したつもりだが、責めるような詰問口調になるのは否めない。寡黙なサムライは背筋をぴんと伸ばしてベッドに腰掛けていたが流れる水のように緩慢かつ無駄のない動作で腕を動かし、自分の口端に触れる。サムライにつられ、無意識に口元に触れた僕はおもわず顔をしかめる。リョウに殴られた際に唇が切れていたことを忘れてた。
「喧嘩か?」
「きみたちみたいな野蛮人と一緒にしないでくれ、そんな非効率的な真似はしない。カロリーの浪費だ」
喧嘩で消費するカロリーの比率を考えればイエローワークでのシャベルの上げ下げ三十回分には相当するだろう。僕が好き好んでそんな野蛮な真似をするわけがない、あれは断じて喧嘩などではない。
「ただ、根強いマザーコンプレックスの囚人に逆恨みされて絡まれただけだ。一方的に」
「リョウか」
一発でわかったらしいのはさすがだ。サムライの顔に納得の表情が浮かぶ。すべてを見通すような深い眼差しを受け止めることができずに顔を伏せる。
『妹とヤッてろシスコン、気色悪いんだよ』
僕を侮辱するならまだ許せる。いや、許せはしないが耐えられる。
『妹さんのほうが誘ったのかな。もしそうなら色恋沙汰にまったく興味のないきみが実の妹にだけ異常にこだわるのも頷けるよ、かわいい顔してヤるねあの子』
リョウは恵を侮辱した。絶対に許せない。
恵に拒絶されたことを自覚した今でも恵は僕にとってかけがえのない存在だ、これまでの十五年間僕を支えてきたのは他ならぬ恵なのだ。その事実を否定することはできない、その事実を否定することは僕自身をも否定することだ。いや、本音では否定したくない。僕は今でも恵が大事だ、心の底の底では恵に縋っている。自分がしたことが許されるとは思っていない、それが証拠に恵はあの日たしかに僕にむかってこう叫んだのだ。
『おにいちゃんが死ねばよかったのに』
悲痛な絶叫が耳によみがえる。恵は僕を憎んでいる、父親にとどめを刺して母親を殺した僕を心の底から憎悪している。無理なことだと頭ではわかっていても僕は永遠に変わらず恵の尊敬と愛情の対象でありたかった、恵の兄として容認してほしかった。
ただ、両親を殺害した時点で僕はその対象に値する資格を失った。
それは仕方ない―仕方ない。自分で選択した結果だ、こうなるべくしてなった結果だと今では許容した。時間を巻き戻すことはできないのだから後悔しても仕方ない、現在の僕は自分のしたことが正しいと確信できないが、さりとて間違ってもなかったと自己暗示をかけることでどうにか精神の安定を保っている状態だ。
恵に憎まれているのは理解できる。
でも、恵への未練まで断ち切れるわけがない。
「…………きみも手紙がきてないのか?」
まだ何か尋ねたそうにしているサムライにあえて気付かぬふりをして、少し顔を上げる。発言してから「君は」ではなく「君も」と妙な共感をこめてしまったことを恥じ入る。そんなに同類を求めてるのか、情けない。いつから僕はこんな情けない、唾棄すべき人間になったんだ?サムライの手を取った時からか?それならば時間を巻き戻してあの日の自分に「やめておけ」と忠告したい。
「……ああ」
一拍間をおいてサムライが答える。表情は変化なし。なんとなく安堵し、安堵した自分に自己嫌悪が募る。
「ここの囚人は幼稚すぎる」
本を開き、続ける。
「手紙一枚で一喜一憂して馬鹿みたいだ、あんな物を黄金かなにかのようにありがたがる心理が理解できない。たかが紙、たかがインク、たかが字で構成される前世紀の遺物じゃないか。電子メール全盛の現代にあんな時代遅れの情報伝達手段を採用してるこの刑務所の意向がそもそも理解できない、絶対におかしい。メールの方が情報処理速度も格段に早いしコストも安い、だいいち人の手を介さなくていいから安心できる。不確定要素の多い行動をとる人間より0と1で思考が構成される機械のほうがよほど信用できるからな」
「手紙を書いたことは」
「あるわけないだろう」
今まで何を聞いてたんだ、この男は。
本から顔を上げてサムライを睨む。サムライはしげしげと僕の顔を見つめていたが、やがて小さく嘆息する。
「そのぶんでは貰ったことも」
「ない。一通もない。だからなんだ」
「手紙も悪くはない」
「過去に貰ったことがあるような口ぶりだな」
賢しげに述べたサムライを皮肉げな笑みを浮かべて揶揄してやる。瞬間、サムライの目に淡い波紋が浮かんだ。その波紋の核を成す感情の正体を見極めるより早くいつもの無表情に戻り、サムライが腰を上げる。洗面台まで歩き、蛇口を捻る。尻ポケットから抜き取った手ぬぐいを蛇口の下に広げて水に濡らしながら淡々と言う。
「リョウに謝れとは言わないが反省くらいはしろ」
なんだ、もう噂が広まっていたのか。
「僕に説教か?きみが唱える般若心境と同じかそれ以上に説得力がないな」
噂話に興じるしか娯楽がない囚人を忌々しく思いながら皮肉を返す。蛇口を締めたサムライが振り返り、無駄のない動作で腕を振りかぶる。反射的に手を出し、こちらに投げられた手ぬぐいを受け取る。なんのつもりだとサムライを仰げば拍子抜けする答えが返ってきた。
「当てておけ」
何を意味してるかわかった。サムライの指示に従うのははっきり言って不愉快だが、この場で逆らうのも子供じみた醜態を露呈するだけだと判断してぬれた手ぬぐいを唇にあてる。染みた。
「鍵屋崎」
顔をしかめた僕をサムライが呼ぶ。切れた唇に手ぬぐいをあてがって顔をあげる。洗面台を背にしたサムライが通夜に参列するように厳粛な面持ちでこちらを凝視している。
「俺はリョウを好まないが、母親に対するリョウの感情まで好まないわけじゃない」
「マザーコンプレックスの薬物依存者に理解を示すのか?そうは見えないが、きみも母親に対する異常な執着心でも秘めてるのか」
まさかな、と自分の言葉を心の中で否定して薄く笑みを浮かべる。このすべてにおいて淡白な男に限って身内に対する異常な執着心など持ち合わせているわけがない、どちらかといえば自分を含むすべての人間に対する関心が薄い人間だ、サムライは。僕とおなじく。
どう切り返してくるかと少し楽しみにしながら反応を待っていた僕は、次の言葉に面食らう。
「俺の母親はとうに死んだ」
サムライが呟く。哀しみよりは諦念を湛えているように見える揺るぎない瞳。
「俺が三歳のときだ。顔も覚えていない、だから哀しみようがない」
「…………………そうか」
それ以外になにが言える?
「だから正直リョウがそこまで母親にこだわる気持ちもわからないが……だれにでも譲れないものが一つあるということはわかる」
僕の耳に馴染んだ平板な声からはいかなる感情も汲み取れない。レイジの声が抗い難い麻薬ならサムライの声は清冽な水だ、無理矢理にこじあけるのではなく自然に染みこんでくる声。
「きみにも」
口を開く。サムライが僕を見る。
「譲れないものがあるのか」
僕の譲れないものは恵だ。だれにも譲れないかけがえのない妹。この俗離れした男にもそんなものがあるのだろうか?
どうしても譲れないものが。
サムライが目を細める。
「あった」
「?」
過去形なことに疑問を抱き、先を促すように見上げるがそれ以上は答える気がないらしくサムライが歩き出す。僕の前を通り過ぎ、鉄扉から出ていきかけたサムライにおもわず腰を浮かして声をかける。
「どこへ行くんだ?」
「紙をもらいにいく」
は?紙?
「写経の紙が尽きたから新しい奴をもらいにいく。そこの紙でも試してみたが具合がよくない、透けて破けてしまう」
サムライが顎をしゃくった方角を振り返れば便器とトイレットペーパーが備え付けられていた。まさかトイレットペーパーで写経を試したのか、この男は?待て、だれに紙をもらうつもりだ。看守に頼んだところでくれるのかと問いただそうとした時には既に遅く、サムライは房を出ていってしまっていた。
鉄扉が閉じ、重たく鈍い残響が房を満たす。
「………………最後まで聞け」
ひとり房に残された僕は、今はいないサムライに恨み言を吐くしかない。謎を残したまま房を出ていったサムライを不愉快に思いつつベッドに腰をおろし、先刻の言葉を反芻する。
『あった』
あれはどういう意味だ。サムライにも譲れないものがあったというのか。では、過去形の意味は?なんでアイツのことがあんなに気になるんだ、不可解だ。サムライの譲れないものなどどうでもいいじゃないか、そんな些末なことに興味はない。観察対象でしかないモルモットの譲れないものを知って何の得がある?
馬鹿らしい、なんで僕がアイツの呟き一つでこんなに悩まなければならない。
腹立たしくなってサムライのベッドに手ぬぐいを投げつけるが、飛距離がたらずに半ばで墜落する。一応借り物の手ぬぐいだ、床に落ちたまま放置しておくわけにもいかないだろうと義務感に突き動かされて腰を上げる。中腰の姿勢で床に落下した手ぬぐいを拾い上げようとして、ベッドの下の薄暗がりに目をとめる。
サムライのベッドの下には木刀と経典、そして硯が寝かされていた。これらは普段見慣れているものだ、格別驚くには値しない。僕の動きを止めたのはさらにその奥にある風雅な和紙を貼った小箱。
なんでここにこんな物が?
東京プリズンは囚人の私物持ち込みを厳重に禁じてるはずだ。僕も入所二ヶ月が経過した今ではさまざまな裏ルートを経由して囚人が禁制品を手に入れてることは理解してるが、サムライに小箱という取り合わせに釈然としないものを感じる。その小箱が淡い浅葱色の風雅な意匠だったせいもあるだろう。風流のかけらもない無骨なサムライには似つかわしくないデザインだ。
少し迷ったが、ベッドの下に手をいれて小箱を取る。
裸電球の下に晒された小箱は長年開けられた形跡もなく埃をかぶり、ずいぶんとみすぼらしく古びて見えた。中には何が入っているのだろう。いや、開けるのはさすがに抵抗がある。一応はサムライの所有物だ、本人が房を不在にしてる間に許可なく中を改めるなんてプライバシー侵害で訴えられてもおかしくないぞ。
蓋にかけようとした手を途中で止め、ベッドの下、もとの位置に戻そうと頭を屈めたその瞬間。
「!」
目の前をささっと黒い影が通り過ぎた。房の床を横切り、サムライのベッドの下へと消えた黒い影の正体は頭から触覚を生やした害虫―ゴキブリ。僕がこの世で最も嫌悪する生き物。とっさに尻餅をつき、ひっくりかえった足が蓋にぶつかる。
嫌な予感。
ひっくりかえったはずみに鼻梁にずり落ちためがねを押し上げる。朦朧とぼやけていた焦点が一点に定まり視界が拭われたように明瞭になる。
僕の目の前で小箱がひっくり返っていた。
「……………これは過失だ」
だれも見てないにも関わらず、言い訳がましく呟いてしまう。サムライが戻ってこないうちに即刻蓋をもとに戻してしまいなおさなければ……冷静に考えられたのはそこまでだった。
小箱の中には手紙が入っていた。
「―――――」
頭が真っ白になる。
『手紙も悪くはない』
『過去に貰ったことがあるような口ぶりだな」』
あのときサムライはなんと言った?なにも言わなかった、肯定も否定もしなかった。
なるほど、サムライが過去に手紙が貰ったことがあったとしても不思議はないのだ。僕はなにを勝手に勘違いして安心してたのだろう。現にサムライにはちゃんと手紙が届いていたではないか、こうして大事に保管されていたではないか。
「…………」
気付いたら手紙を手にとり、開いていた。
見てはいけない、見るべきものじゃない。サムライ宛の手紙だ、第三者が無許可で閲覧していいわけがない。でも、どうしても我慢できない。理性で感情が制御できない、僕ともあろう者が混乱しきっている。胸を焼くような、疼くようなこの感情はなんだろう。息ができなくなるようなこの感覚は。
文面に目を落としてから、自分の胸を焼いていた感情の名を知る。
『嫉妬』。
文面に目を落として拍子抜けする。数年前に届いた手紙らしく、手書きの文字は殆どかすれて消えてしまっていた。鉛筆で書かれていたのも災いしたらしい。毛羽だった便箋を慎重にてのひらでのばし、文字に目を凝らす。
「工……の下は貝か」
口にだして確かめる。かすれて殆ど判別つかなくなった文面に散見されるのは「貢」の一字。
ひょっとして、これがサムライの名前なのだろうか。
なんて読むんだろう。ミツグ?コウ?舌の上で転がしてみる。サムライの面影と「貢」の字を重ねあわせようと努力するがうまくいかない、僕の知ってるサムライと「貢」という字がどうしても重ならないのだ。
そして、はっきりと読み取れたのはこの一文だけ。
『芽吹かない苗』
「………暗号か?」
手紙を電球にかざし、透かしてみる。火で炙るなり水に漬けるなりして文字が浮き出てくる可能性も考慮しないではなかったが、そこまで手がこんでるようには思えない。だいたい筆記用具に鉛筆を採用する時点で書き手の無頓着さが知れるじゃないか、鉛筆なんてすぐに薄れて消えてしまうのに。
しかしひらがなの多い手紙だ。かえって読みにくい。この手紙を書いた人物はよほど無教養か、さもなくば幼い子供だろう。そう推理して何度手紙を読み返した頃だろう、こちらに近づいてくる足音に気付いた。慌てて手紙を畳み、片付け、ベッドの奥に小箱を押しやる。
鉄扉が開く。廊下にサムライが立っていた。
「紙はもらえたのか?」
「ああ」
サムライが何か言い出すまえに先手を打つ。サムライが小脇に抱えていたのは習字用の半紙だ、当面はあれに般若心境を書き写すつもりだろう。精がでることだとあきれつつ腰をあげ、こちらに歩いてきたサムライに手ぬぐいを押し付ける。
何も言わず手ぬぐいを受け取ったサムライ、その仏頂面に「貢」という名を当て嵌めてみる。
貢。僕の知らないサムライ。
―なんでこんなにむかむかするんだろう。サムライの過去の一端をかいま見てしまったことがうしろめたくもある半面、ひどく侮辱されたような気がするのはなぜだろう。
『手紙を書いたことは』
『あるわけないだろう』
『そのぶんでは貰ったことも』
『ない。一通もない。だからなんだ』
『手紙も悪くはない』
『過去に貰ったことがあるような口ぶりだな』
サムライはどんな気持ちで僕の言葉を聞いていた?心の中では馬鹿にして見下してたんじゃないか?
手紙が届かない僕のことを。
「……妹に手紙を書こうと思うんだが」
サムライの手に手ぬぐいを押し付け、くぐもった声を絞り出す。
「筆記用具はなんにしたらいいと思う」
「…………無難にボールペンにしたらいいだろう」
何を聞くんだ、という怪訝な顔でサムライが言い、今思いついたように付け足す。
「なんなら写経用の墨を貸すが」
「いらない」
サムライを試したつもりが鈍感な彼には通じなかったようだ。
深くため息をついてベッドに戻り、本を開く。再開した読書にまったく集中できないのは隣でサムライが墨をすり始めたからではない、さっき読んだ手紙のせいだ、サムライ宛にきた手紙。相当古い手紙だ、小箱の中に保管されていたことから考えてよほど大事な人からの手紙なのだろう。サムライの大事な人、それはだれだ?母親は幼児期に死去している、父親は彼自ら殺した。
肉親以外で大事な人間……サムライの譲れないもの?
本に没頭するふりをしてサムライを盗み見る。サムライは我関せずという閉じた横顔で墨をするのに熱中している。どこまでも朴訥で愚直な武士の姿勢を眺めながら、先刻自分が口にした案を再考し、悪くないと考え直す。
恵に手紙を書こう。
サムライに譲れないものがあるように僕にも譲れないものがある。たしかに僕には手紙が届かなかったが、譲れないものに対する執着の強さでは決してサムライに負けてない。
せめて届かせたいのだ、譲れない想いを。檻の中から。
開口一番、サムライが尋ねた。
「………………………べつに」
サムライの方は見ずにページをめくる。途中でとんだ邪魔が入ったせいで二章までしか読めなかった、ちょうど面白くなってきたところだったのに。ひとりしずかに読書できる場所をさがして展望台に辿り着いたというのに後から来たリョウが声高に自慢をはじめるから僕の集中力まで散らされたではないか。
僕には我慢できないことが三つある。
一つは低脳に見下されること、二つ目は読書を邪魔されること、三つ目は妹を侮辱されること。リョウはこの全部に抵触した上に僕に謝罪することなく飄々としていた、周囲の同情と関心を乞おうと白々しく号泣してみせたところで彼に対する罪悪感など微塵もない。
当たり前だ、何も悪くない僕がどうして謝らなければならない?
苛々しながらページをめくり、三章の冒頭に目を落とす。遺伝子の進化とその可能性……ベッドに腰掛け、図書室から借りてきた本を膝に広げ、印刷された活字を目で追う。どこへ行ってたのかは知らないが外出先から帰ってきたサムライは僕の前を素通りするや、向かいのベッドへと腰掛ける。とはいえ完全な無関心は装えないのだろう、時折ちらりちらりと鋭い眼光を向けてくる。
観察されてるようで落ち着かない。
荒々しく本を閉じ、脇におく。なんで僕が観察されなければならない、立場が逆だろう。サムライは観察対象で僕は観察者、優位に立っているのは僕の方だ。手の中のモルモットに好奇の眼差しを注がれるのはプライドの危機だ。
「言いたいことがあるならはっきり言え」
できるだけ平坦な口調を意識したつもりだが、責めるような詰問口調になるのは否めない。寡黙なサムライは背筋をぴんと伸ばしてベッドに腰掛けていたが流れる水のように緩慢かつ無駄のない動作で腕を動かし、自分の口端に触れる。サムライにつられ、無意識に口元に触れた僕はおもわず顔をしかめる。リョウに殴られた際に唇が切れていたことを忘れてた。
「喧嘩か?」
「きみたちみたいな野蛮人と一緒にしないでくれ、そんな非効率的な真似はしない。カロリーの浪費だ」
喧嘩で消費するカロリーの比率を考えればイエローワークでのシャベルの上げ下げ三十回分には相当するだろう。僕が好き好んでそんな野蛮な真似をするわけがない、あれは断じて喧嘩などではない。
「ただ、根強いマザーコンプレックスの囚人に逆恨みされて絡まれただけだ。一方的に」
「リョウか」
一発でわかったらしいのはさすがだ。サムライの顔に納得の表情が浮かぶ。すべてを見通すような深い眼差しを受け止めることができずに顔を伏せる。
『妹とヤッてろシスコン、気色悪いんだよ』
僕を侮辱するならまだ許せる。いや、許せはしないが耐えられる。
『妹さんのほうが誘ったのかな。もしそうなら色恋沙汰にまったく興味のないきみが実の妹にだけ異常にこだわるのも頷けるよ、かわいい顔してヤるねあの子』
リョウは恵を侮辱した。絶対に許せない。
恵に拒絶されたことを自覚した今でも恵は僕にとってかけがえのない存在だ、これまでの十五年間僕を支えてきたのは他ならぬ恵なのだ。その事実を否定することはできない、その事実を否定することは僕自身をも否定することだ。いや、本音では否定したくない。僕は今でも恵が大事だ、心の底の底では恵に縋っている。自分がしたことが許されるとは思っていない、それが証拠に恵はあの日たしかに僕にむかってこう叫んだのだ。
『おにいちゃんが死ねばよかったのに』
悲痛な絶叫が耳によみがえる。恵は僕を憎んでいる、父親にとどめを刺して母親を殺した僕を心の底から憎悪している。無理なことだと頭ではわかっていても僕は永遠に変わらず恵の尊敬と愛情の対象でありたかった、恵の兄として容認してほしかった。
ただ、両親を殺害した時点で僕はその対象に値する資格を失った。
それは仕方ない―仕方ない。自分で選択した結果だ、こうなるべくしてなった結果だと今では許容した。時間を巻き戻すことはできないのだから後悔しても仕方ない、現在の僕は自分のしたことが正しいと確信できないが、さりとて間違ってもなかったと自己暗示をかけることでどうにか精神の安定を保っている状態だ。
恵に憎まれているのは理解できる。
でも、恵への未練まで断ち切れるわけがない。
「…………きみも手紙がきてないのか?」
まだ何か尋ねたそうにしているサムライにあえて気付かぬふりをして、少し顔を上げる。発言してから「君は」ではなく「君も」と妙な共感をこめてしまったことを恥じ入る。そんなに同類を求めてるのか、情けない。いつから僕はこんな情けない、唾棄すべき人間になったんだ?サムライの手を取った時からか?それならば時間を巻き戻してあの日の自分に「やめておけ」と忠告したい。
「……ああ」
一拍間をおいてサムライが答える。表情は変化なし。なんとなく安堵し、安堵した自分に自己嫌悪が募る。
「ここの囚人は幼稚すぎる」
本を開き、続ける。
「手紙一枚で一喜一憂して馬鹿みたいだ、あんな物を黄金かなにかのようにありがたがる心理が理解できない。たかが紙、たかがインク、たかが字で構成される前世紀の遺物じゃないか。電子メール全盛の現代にあんな時代遅れの情報伝達手段を採用してるこの刑務所の意向がそもそも理解できない、絶対におかしい。メールの方が情報処理速度も格段に早いしコストも安い、だいいち人の手を介さなくていいから安心できる。不確定要素の多い行動をとる人間より0と1で思考が構成される機械のほうがよほど信用できるからな」
「手紙を書いたことは」
「あるわけないだろう」
今まで何を聞いてたんだ、この男は。
本から顔を上げてサムライを睨む。サムライはしげしげと僕の顔を見つめていたが、やがて小さく嘆息する。
「そのぶんでは貰ったことも」
「ない。一通もない。だからなんだ」
「手紙も悪くはない」
「過去に貰ったことがあるような口ぶりだな」
賢しげに述べたサムライを皮肉げな笑みを浮かべて揶揄してやる。瞬間、サムライの目に淡い波紋が浮かんだ。その波紋の核を成す感情の正体を見極めるより早くいつもの無表情に戻り、サムライが腰を上げる。洗面台まで歩き、蛇口を捻る。尻ポケットから抜き取った手ぬぐいを蛇口の下に広げて水に濡らしながら淡々と言う。
「リョウに謝れとは言わないが反省くらいはしろ」
なんだ、もう噂が広まっていたのか。
「僕に説教か?きみが唱える般若心境と同じかそれ以上に説得力がないな」
噂話に興じるしか娯楽がない囚人を忌々しく思いながら皮肉を返す。蛇口を締めたサムライが振り返り、無駄のない動作で腕を振りかぶる。反射的に手を出し、こちらに投げられた手ぬぐいを受け取る。なんのつもりだとサムライを仰げば拍子抜けする答えが返ってきた。
「当てておけ」
何を意味してるかわかった。サムライの指示に従うのははっきり言って不愉快だが、この場で逆らうのも子供じみた醜態を露呈するだけだと判断してぬれた手ぬぐいを唇にあてる。染みた。
「鍵屋崎」
顔をしかめた僕をサムライが呼ぶ。切れた唇に手ぬぐいをあてがって顔をあげる。洗面台を背にしたサムライが通夜に参列するように厳粛な面持ちでこちらを凝視している。
「俺はリョウを好まないが、母親に対するリョウの感情まで好まないわけじゃない」
「マザーコンプレックスの薬物依存者に理解を示すのか?そうは見えないが、きみも母親に対する異常な執着心でも秘めてるのか」
まさかな、と自分の言葉を心の中で否定して薄く笑みを浮かべる。このすべてにおいて淡白な男に限って身内に対する異常な執着心など持ち合わせているわけがない、どちらかといえば自分を含むすべての人間に対する関心が薄い人間だ、サムライは。僕とおなじく。
どう切り返してくるかと少し楽しみにしながら反応を待っていた僕は、次の言葉に面食らう。
「俺の母親はとうに死んだ」
サムライが呟く。哀しみよりは諦念を湛えているように見える揺るぎない瞳。
「俺が三歳のときだ。顔も覚えていない、だから哀しみようがない」
「…………………そうか」
それ以外になにが言える?
「だから正直リョウがそこまで母親にこだわる気持ちもわからないが……だれにでも譲れないものが一つあるということはわかる」
僕の耳に馴染んだ平板な声からはいかなる感情も汲み取れない。レイジの声が抗い難い麻薬ならサムライの声は清冽な水だ、無理矢理にこじあけるのではなく自然に染みこんでくる声。
「きみにも」
口を開く。サムライが僕を見る。
「譲れないものがあるのか」
僕の譲れないものは恵だ。だれにも譲れないかけがえのない妹。この俗離れした男にもそんなものがあるのだろうか?
どうしても譲れないものが。
サムライが目を細める。
「あった」
「?」
過去形なことに疑問を抱き、先を促すように見上げるがそれ以上は答える気がないらしくサムライが歩き出す。僕の前を通り過ぎ、鉄扉から出ていきかけたサムライにおもわず腰を浮かして声をかける。
「どこへ行くんだ?」
「紙をもらいにいく」
は?紙?
「写経の紙が尽きたから新しい奴をもらいにいく。そこの紙でも試してみたが具合がよくない、透けて破けてしまう」
サムライが顎をしゃくった方角を振り返れば便器とトイレットペーパーが備え付けられていた。まさかトイレットペーパーで写経を試したのか、この男は?待て、だれに紙をもらうつもりだ。看守に頼んだところでくれるのかと問いただそうとした時には既に遅く、サムライは房を出ていってしまっていた。
鉄扉が閉じ、重たく鈍い残響が房を満たす。
「………………最後まで聞け」
ひとり房に残された僕は、今はいないサムライに恨み言を吐くしかない。謎を残したまま房を出ていったサムライを不愉快に思いつつベッドに腰をおろし、先刻の言葉を反芻する。
『あった』
あれはどういう意味だ。サムライにも譲れないものがあったというのか。では、過去形の意味は?なんでアイツのことがあんなに気になるんだ、不可解だ。サムライの譲れないものなどどうでもいいじゃないか、そんな些末なことに興味はない。観察対象でしかないモルモットの譲れないものを知って何の得がある?
馬鹿らしい、なんで僕がアイツの呟き一つでこんなに悩まなければならない。
腹立たしくなってサムライのベッドに手ぬぐいを投げつけるが、飛距離がたらずに半ばで墜落する。一応借り物の手ぬぐいだ、床に落ちたまま放置しておくわけにもいかないだろうと義務感に突き動かされて腰を上げる。中腰の姿勢で床に落下した手ぬぐいを拾い上げようとして、ベッドの下の薄暗がりに目をとめる。
サムライのベッドの下には木刀と経典、そして硯が寝かされていた。これらは普段見慣れているものだ、格別驚くには値しない。僕の動きを止めたのはさらにその奥にある風雅な和紙を貼った小箱。
なんでここにこんな物が?
東京プリズンは囚人の私物持ち込みを厳重に禁じてるはずだ。僕も入所二ヶ月が経過した今ではさまざまな裏ルートを経由して囚人が禁制品を手に入れてることは理解してるが、サムライに小箱という取り合わせに釈然としないものを感じる。その小箱が淡い浅葱色の風雅な意匠だったせいもあるだろう。風流のかけらもない無骨なサムライには似つかわしくないデザインだ。
少し迷ったが、ベッドの下に手をいれて小箱を取る。
裸電球の下に晒された小箱は長年開けられた形跡もなく埃をかぶり、ずいぶんとみすぼらしく古びて見えた。中には何が入っているのだろう。いや、開けるのはさすがに抵抗がある。一応はサムライの所有物だ、本人が房を不在にしてる間に許可なく中を改めるなんてプライバシー侵害で訴えられてもおかしくないぞ。
蓋にかけようとした手を途中で止め、ベッドの下、もとの位置に戻そうと頭を屈めたその瞬間。
「!」
目の前をささっと黒い影が通り過ぎた。房の床を横切り、サムライのベッドの下へと消えた黒い影の正体は頭から触覚を生やした害虫―ゴキブリ。僕がこの世で最も嫌悪する生き物。とっさに尻餅をつき、ひっくりかえった足が蓋にぶつかる。
嫌な予感。
ひっくりかえったはずみに鼻梁にずり落ちためがねを押し上げる。朦朧とぼやけていた焦点が一点に定まり視界が拭われたように明瞭になる。
僕の目の前で小箱がひっくり返っていた。
「……………これは過失だ」
だれも見てないにも関わらず、言い訳がましく呟いてしまう。サムライが戻ってこないうちに即刻蓋をもとに戻してしまいなおさなければ……冷静に考えられたのはそこまでだった。
小箱の中には手紙が入っていた。
「―――――」
頭が真っ白になる。
『手紙も悪くはない』
『過去に貰ったことがあるような口ぶりだな」』
あのときサムライはなんと言った?なにも言わなかった、肯定も否定もしなかった。
なるほど、サムライが過去に手紙が貰ったことがあったとしても不思議はないのだ。僕はなにを勝手に勘違いして安心してたのだろう。現にサムライにはちゃんと手紙が届いていたではないか、こうして大事に保管されていたではないか。
「…………」
気付いたら手紙を手にとり、開いていた。
見てはいけない、見るべきものじゃない。サムライ宛の手紙だ、第三者が無許可で閲覧していいわけがない。でも、どうしても我慢できない。理性で感情が制御できない、僕ともあろう者が混乱しきっている。胸を焼くような、疼くようなこの感情はなんだろう。息ができなくなるようなこの感覚は。
文面に目を落としてから、自分の胸を焼いていた感情の名を知る。
『嫉妬』。
文面に目を落として拍子抜けする。数年前に届いた手紙らしく、手書きの文字は殆どかすれて消えてしまっていた。鉛筆で書かれていたのも災いしたらしい。毛羽だった便箋を慎重にてのひらでのばし、文字に目を凝らす。
「工……の下は貝か」
口にだして確かめる。かすれて殆ど判別つかなくなった文面に散見されるのは「貢」の一字。
ひょっとして、これがサムライの名前なのだろうか。
なんて読むんだろう。ミツグ?コウ?舌の上で転がしてみる。サムライの面影と「貢」の字を重ねあわせようと努力するがうまくいかない、僕の知ってるサムライと「貢」という字がどうしても重ならないのだ。
そして、はっきりと読み取れたのはこの一文だけ。
『芽吹かない苗』
「………暗号か?」
手紙を電球にかざし、透かしてみる。火で炙るなり水に漬けるなりして文字が浮き出てくる可能性も考慮しないではなかったが、そこまで手がこんでるようには思えない。だいたい筆記用具に鉛筆を採用する時点で書き手の無頓着さが知れるじゃないか、鉛筆なんてすぐに薄れて消えてしまうのに。
しかしひらがなの多い手紙だ。かえって読みにくい。この手紙を書いた人物はよほど無教養か、さもなくば幼い子供だろう。そう推理して何度手紙を読み返した頃だろう、こちらに近づいてくる足音に気付いた。慌てて手紙を畳み、片付け、ベッドの奥に小箱を押しやる。
鉄扉が開く。廊下にサムライが立っていた。
「紙はもらえたのか?」
「ああ」
サムライが何か言い出すまえに先手を打つ。サムライが小脇に抱えていたのは習字用の半紙だ、当面はあれに般若心境を書き写すつもりだろう。精がでることだとあきれつつ腰をあげ、こちらに歩いてきたサムライに手ぬぐいを押し付ける。
何も言わず手ぬぐいを受け取ったサムライ、その仏頂面に「貢」という名を当て嵌めてみる。
貢。僕の知らないサムライ。
―なんでこんなにむかむかするんだろう。サムライの過去の一端をかいま見てしまったことがうしろめたくもある半面、ひどく侮辱されたような気がするのはなぜだろう。
『手紙を書いたことは』
『あるわけないだろう』
『そのぶんでは貰ったことも』
『ない。一通もない。だからなんだ』
『手紙も悪くはない』
『過去に貰ったことがあるような口ぶりだな』
サムライはどんな気持ちで僕の言葉を聞いていた?心の中では馬鹿にして見下してたんじゃないか?
手紙が届かない僕のことを。
「……妹に手紙を書こうと思うんだが」
サムライの手に手ぬぐいを押し付け、くぐもった声を絞り出す。
「筆記用具はなんにしたらいいと思う」
「…………無難にボールペンにしたらいいだろう」
何を聞くんだ、という怪訝な顔でサムライが言い、今思いついたように付け足す。
「なんなら写経用の墨を貸すが」
「いらない」
サムライを試したつもりが鈍感な彼には通じなかったようだ。
深くため息をついてベッドに戻り、本を開く。再開した読書にまったく集中できないのは隣でサムライが墨をすり始めたからではない、さっき読んだ手紙のせいだ、サムライ宛にきた手紙。相当古い手紙だ、小箱の中に保管されていたことから考えてよほど大事な人からの手紙なのだろう。サムライの大事な人、それはだれだ?母親は幼児期に死去している、父親は彼自ら殺した。
肉親以外で大事な人間……サムライの譲れないもの?
本に没頭するふりをしてサムライを盗み見る。サムライは我関せずという閉じた横顔で墨をするのに熱中している。どこまでも朴訥で愚直な武士の姿勢を眺めながら、先刻自分が口にした案を再考し、悪くないと考え直す。
恵に手紙を書こう。
サムライに譲れないものがあるように僕にも譲れないものがある。たしかに僕には手紙が届かなかったが、譲れないものに対する執着の強さでは決してサムライに負けてない。
せめて届かせたいのだ、譲れない想いを。檻の中から。
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