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3月21日 父と娘と犯人と同期の話

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(6)3月21日

 私は幽霊としてこの世に戻ってきた。なぜ戻ってきたのかは分からない。いつ成仏できるのかも分からない。そして仕事に行く必要がないから、何をして時間を潰せばいいのか分からない。だから、私は娘と動画配信サービスで映画を見ていた。

 ちなみに、私は現世の物質に触れることができない。私が映画を見るためには、誰かが映画を見ているところに行って、その画面を見なければいけない。ものすごく不便だ。
 幽霊はもっと万能なのだと思っていたが、何をするにも他人の助けが必要なのだ。

 ソファーの上に座っているのも、厳密に言うとソファーに触れているわけではない。微妙に体が浮いているような気がする。どういう現象なのか分からないが、気にしてもしかたがない。
 きっと、大人の事情だ・・・

 私の姿が見えるのは娘の陽菜だけ。親子関係が微妙なのだが、私としては陽菜が春休みで助かった。私は映画を再生できないから、今見ている映画は陽菜が再生したものだ。陽菜が選んだ映画なので若手俳優と女優が演じる高校生男女の恋愛を見せられている。
 たまにキスシーンが出てくるのだが、娘とこれを見るのは少し恥ずかしい。

 そうこうしているとインターホンが鳴った。妻の裕子がインターホン越しに話しているが、来客のようだ。『誰だろう?』と思って私が画面を見たら、安里が写っていた。

 ― なぜ安里がここに?

 私は安里の顔を見て嫌な記憶が蘇った。動悸が激しくなる。

 安里は裕子に「ご主人から渡してもらうはずだった取引先のデータがありまして。UBSメモリに入っているはずなのですが、ご主人の部屋にあるか確認してもよろしいでしょうか?」と聞いた。

 何とかして安里に帰ってもらう方法はないか?

 私が「ダメだ。絶対にダメだ」と裕子に伝えようとするのだが、私の声は聞こえない。
 状況を察した陽菜が「お母さん、父さんの部屋が散らかっているから少し待ってもらって」と裕子に言った。裕子は安里に少し待つようにインターホンで伝えた。

 陽菜に状況を説明して対応してもらうしかない。
「陽菜、聞いてほしい。安里を絶対に家に入れてはいけない」
「どうしたの?」と陽菜は怪訝な顔をして言った。
「思い出したんだ。父さんを殺したのはあの男だ。安里は不正の証拠の音声データが入っているUSBメモリを探している」

 私が真剣に説明したから、陽菜は事情を理解したようだ。
「そのUSBメモリはどこにあるの?」
「クマの中」
「クマ?」
「クマのぬいぐるみの中に入れた」

 陽菜は私の部屋に移動した。
「これのこと?」
「それだ」
「あと、机の引き出しの中にUSBメモリが入っているはずなんだけど・・・」
「これ?」
 警備員の山本からもらったUSBメモリとそっくりだ。これを安里に渡せば大人しく帰るかもしれない。私は陽菜に「それそれ、それを安里に渡してくれないか」と頼んだ。

 陽菜は玄関に行き、「部屋が散らかっているから、片付けるのにまだ時間が掛かりそうです。ところで、USBメモリはこれですか?」と言ってドアの前にいた安里に渡した。
 すると、安里は満足したのか、陽菜からUSBメモリを受取って帰っていった。

 安里は去ったから最悪の事態は脱したようだ。

 陽菜はクマのぬいぐるみを持って部屋に戻ってきた。
「無事でよかった・・・」
「偽物のUSBメモリで凌いだけど、直ぐに分かると思うよ。どうするの?」
「そうだな。同期の望月は覚えてる?」
「知ってる。葬式で会った時、父さんが事件に巻き込まれたと言ってた」
「アイツ、そんなことを・・・」
「そんなことよりも、望月さんに状況を聞いてみればいいんじゃない?」
「そうだな。そのぬいぐるみを持って、一緒に本店に行ってくれるか?」
「えー? これから綾華(あやか)と会う予定があるんだけど」
「頼むよー。遊びと命とどっちが大事なんだ? また安里が来たらどうするんだ?」
「そうだけどさ。青春は一度しかないんだよ」

 陽菜はなかなか私の言うことを聞いてくれそうにない。
 困ったな・・・

 なかなか私の言うことを聞いてくれない思春期の娘。
 娘の扱いが分からない私は、娘を説得するために禁断の手を使うことにした。

「陽菜は何か欲しいものある?」
「金で釣る気?」
「そうじゃない。労働に対する対価だ」
「あ、そう。新しいスニーカーがほしい」
「じゃあ、一緒に本店に行ってくれたらスニーカーを買ってあげよう」
「幽霊なのにお金持ってるの?」
「お金を持ってなくても、お金の隠し場所は知っている」
「へー、いいわよ」

 こうして私と陽菜の交渉は成立した。
 クマのぬいぐるみをトートバッグに入れた陽菜と私は電車に乗った。

 実は電車に乗る前は心配で仕方がなかった。幽霊に慣性の法則が適用されるのか分からなかったからだ。幽霊の私に慣性の法則が適用されなければ、私は同じ場所に留まり続けるから、私を残して電車だけ発進する。でも、私が電車と同じスピードで進んでいるから、そこは大丈夫そうだ。

 どういう理屈なんだろう?
 私が電車の中で考えていたら、陽菜が「一緒に電車に乗るのは久しぶりだね」と話しかけてきた。

 ― こうして娘と電車に乗るのはいつ以来だろう?

 死んでなかったらできなかった経験かもしれない。
 それに、私が死んでから陽菜が少し優しくなったような気がする。

 私は嬉しく思った。

 でも、死んでいるんだよなー


 ***

 丸の内銀行の本店は東京駅から徒歩で約5分の場所にある。ここ数年の再開発で街並みが急激に変わった。東京駅から本店までの道中、私は『このビル、前は何だったっけ?』と思いながら歩いていると本店に着いた。陽菜には「ここの親子丼が美味しい!」と教えてあげたのだが、興味なさそうだった。娘とのコミュニケーションは難しい・・・

 私と陽菜は、本店の受付で審査部の望月に連絡を取ってもらった。
 しばらくすると、望月が受付に姿を現した。
 望月は同期の娘だと思って完全に油断している。ネクタイはもちろん、ジャケットも着ていない。それに長時間椅子に座っているせいか、ズボンからシャツがだらしなく出ている。

 望月を見た私は「だらしない恰好だなー」と呟いた。当然、私の声は望月には聞こえないのだが、陽菜は「本当だね」と小さく言った。
 望月は陽菜を打合せスペースに案内すると、飲み物を持って戻ってきた。
 私は陽菜の隣の席に座った。陽菜の正面に望月が座っている。仕事が忙しくて参加したことなかったが、三者面談はこんな感じだろうか?

「急にどうしたの?」
「この前の葬儀で望月さんが言っていた事件のことです。父からUSBメモリを受取りましたか?」
「いや、受け取っていない。宍戸から行内便で送ると聞いていたけど、僕のところには届かなかったんだ」
「え? 受け取っていない?」

 “安里が回収したんだろうな” と私が小さく言った。

「安里が回収した?」
「え? 安里のことを知ってるの?」

 望月は陽菜が安里のことを知っていることを不思議に思ったようだ。ある程度の情報共有は必要だろうから、私は陽菜に事件の内容を望月に伝えてもらうように頼んだ。
 陽菜は私が話す事件の内容を望月に伝えた後、「音声データが入っているUSBメモリがこれです」と言ってクマのぬいぐるみを渡した。

 望月はクマを受取ると「ありがとう。これで事件を解決することができそうだ」と礼を言った。

 望月に不正の証拠を渡したから、事件はこれで解決するはずだ。
 私はほっと胸を撫で下ろした。

 ― 事件が解決したら未練なく成仏できる!

 私はそう思った。
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