僕の獅子舞日記ー番外編ーとある健人の一年

池爾波師

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第十三話 冷冽

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車の中に入り、俺は助手席にいる森くんに現在の時刻を訊いた。

「十六時前だよ」

車を出入口の近くに停めていたから、先ほどにゲームセンター前で出会った男女三人が、建物の自動ドアから出てくる姿が車の窓から見えた。

ちょうどいい。

「森くん」

「うん?」

「帰ってていいよ。お前これ運転できんだろ」

「へ?」

「先に寺戻ってて」

返事を聞く前に、俺はドアを開けて運転席から降りた。

あの三人は、駐車場をのんびりと歩いていた。

おそらく誰かの車でここまで来たのだろう。

叶絵と中学の同級生ということは、十八歳のはずだから、誰かしら免許を持っていてもおかしくない。

出入口から遠い、人通りの少ない場所に、一台の黒いセダンが停まっていた。

その前で彼らは動きを止めたので、俺は運転席側にいる男めがけて早足で歩いた。

「あれ?さっきの」

後部座席に乗ろうとした女が俺に気づいた。

途端に、耳を劈くような音がその場に響いた。

パアアアアアアアアアンッ

男の後頭部が大きく左に揺れて、そのまま地面に倒れこんだ。

パアアンッ パアアンッ

俺は男の襟首を掴み、あと二回、強めの平手打ちを食らわせた。

「きゃああ!やだっなになに?」

女二人うち一人が叫んだ。

「昔取った杵柄ってやつ?下手なやつがやるパンチより、手慣れてるやつのビンタのほうが威力あるよな」

俺は独り言のように言った。

男は口の中を切ったのか、唇の端から少しだけ血が出ていた。

衝撃と打撃のせいで朦朧としていて、目の焦点が合っておらず、何より自分の身に何が起きたのか、理解出来ていないようだった。

俺は「はあ」と息を吐いて、それからまくし立てるように一気に喋った。

「お前みたいなやつがいるからさ、吐きダコ作んなきゃいけねえわけじゃん?お前みたいなやつがいるからさ、ラーメン一杯食うのに一時間もかけなきゃいけないんだろ?お前が夏に暑くて秒でアイス食うのに、まともに半分も食えねえ女が生まれるんだろうが」

男は何かを言っていたが、低くくぐもった声が漏れただけで、言葉になっていない。

もう一度襟首を掴んで、奴の耳に顔を近づけた。

「鼓膜破れてるかもしれねえけどよく聞け」

俺を見ているのか、俺の向こうの景色を見ているのか。

相変わらず、奴がどこを、そして何を見ているのかはわからない。

しかし体を震わせていて、怯えていることだけはよく分かる。

「お前が何気なしに放った言葉で、飯を普通に食えなくなった人間がいるんだよ。あれぐらいになるまで食わねえってさ、言わば死にかけることだからな。今俺はリスクしょってお前を制裁してるわけだけど、お前自身は、直接手を下さずに人を死ぬほど辛い目に追いこんだんだよ。これからもそういうふうに生きるなら、俺は社会的に危うくなってもお前をつぶすから。わかった?」

男は何も言わなかった。

しかし、痛みに反応して、長い前髪から覗く目からボロボロと涙がこぼれていた。

あまりにも痛いと、感情を無視して反射的に涙が流れるのだ。

俺は立ち上がり、痺れを分散させるために、とにかく右手を振った。

「アンタやばいよ。大人が高校生になんしとるん?学校とか警察に言うから」

「今ここで連絡してもいいんやけど?」

後ろにいた女子二人は、互いに身を寄せ合い、俺を睨みつけて言った。

「うん。さっさとしろよ。でもここらの学校って運転免許取るの禁止されてるところ多かったよな?コイツの連帯責任取らされるから、それは覚悟しとけよ。君ら高三だよな?時期的に進学とか就職とやらに響くと思うけど、高校ぐらいは無事に卒業しとけよ。経験から言っておくわ」

俺が面倒臭そうに言うと、彼女たちは一気に押し黙った。

踵を返して、その場を離れようと二、三歩歩くと、すぐ傍に見慣れた俺の車がやってきた。

森くんが後部座席を自動で開けて、運転席の窓を開けて言い放った。

「乗って!!!!」

乗り込むとすぐさまドアは閉まり、車は走りだした。

「健人!何やってんのお!?何高校生殴っちゃってんのお!?」

「殴ってねえよ。ビンタしたんだよ」

「一緒でしょおがあ!!!」

言い方武田鉄矢かよ。

森くんは半狂乱になりながらハンドルを握っていたが、真面目な性格はそのままで、スピードはきっちりと守っていた。

しかし、あの子たちが後ろから俺らを追ってくる様子はなかった。

「ビンタするところ見てたの?」

「僕は見てないけど叶絵ちゃんが」

俺は隣にいる叶絵を見た。

潤んだ瞳で俺の顔を凝視している。

しばらく目が合っていたが、不意に叶絵が俺の右手をとった。

「…叩くの痛かった?」

「うん」

すると、叶絵は俺の手のひらを握った。

といっても、優しく添えるくらいに触れているから、握られている感覚がほとんどない。

季節は九月の半ばで、夏の気配がまだ残っているというのに、彼女の手は氷のように冷たかった。

小さく、かぼそく、頼りなく、そして何よりも冷たい。

なにが悲しくて。

なにが悲しくて、十代の女の子が、こんなに冷たい手で生き抜かなければならない?

許容量を超えた食事を与えられて作られた体は、周りに否定されて居場所を失った。

理解を求めて、無理やりにでも食を断つと、親までもを失った。

そんなふうに身近な人間に手酷く扱われた彼女が、俺みたいな人間を、「冷たくなんかない」と小さな体を震わせながら主張してくれたのだ。

そんな彼女の手が、こんなにも冷たくあっていいわけがない。

苦しみを顕著に現したこの手を、誰かがちゃんと握り返して、温めてあげるべきだったんじゃないのか?

怒りは、より強くなってきていた。

今すぐ車を降りて、どっかそのへんで叫びたい気持ちになった。

「健人」

小さな声で、名前を呼ばれた。

言葉を発さなくなった俺の存在を確かめるかのように、叶絵は、俺の右手をただ握り続けていた。

その手を即座に握り返したかったけれど、痺れと戸惑いが思いのほか強く、俺の指は彼女の手の温度によって凍結されてしまった。
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