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竜王達の話5
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楽しい時間はあっと言う間に過ぎ、天国のような甘い時間はとある店主の一言によって地獄へと化した。赫焉は彼に似合う耳飾りを買おうと思って装飾品を扱う店を訪れた。幾つも耳飾りを持ち上げて彼の耳元に持って行き、最終的に二つまで絞られた為、赫焉は彼にどちらが欲しいか聞いた。彼は困ったように笑うだけで何も答えてくれない。もう慣れた反応の筈なのに、赫焉はやはり悲しくて耳飾りを持ったまま項垂れてしまった。二人のやりとりを見守っていた店主はあることに気付き、落ち込む赫焉へ恐る恐る声をかけた。
「あの、竜王様。王妃様は話さないのではなく、話せないのでは?」
「え?」
「初代竜王様の王妃様も最初は話せなかったと聞きます。どうやら耳も聞こえなかったようで、意思疎通は大変だったと書物に残っていたような気が……」
「…………」
店主から指摘され、赫焉は固まった。普通なら出会った時に気付く筈の可能性が今迄彼の頭の中から完全に消え失せていたのだ。緋炎から「嫌われている」と言われ、彼が赫焉を嫌っているから、まだ信頼していないから話さないとばかり思っていたが、控えめではあるが彼はちゃんと赫焉に好意を返していたし、最近ではよく笑うようになった。嫌われていないのは確かだ。しかし、今思えば店主の言う通りだ。彼は話さないのではない。話せないのだ。その可能性に気付き、今迄の自分の行いを思い出して動揺し、店主と人間を交互に見る。
「そう、なのか? 我の声が、聞こえぬのか!?」
彼の両肩を掴んで叫んでも、全く反応せず怯えたような表情を見せるだけ。赫焉は目の前が真っ暗になったような気がした。どうして今迄その可能性に気付かなかったのかという己の不甲斐なさと、何も聞こえず声も出せなかったのに懸命に伝えようとしてくれた彼の健気さが赫焉の心をギュウッと締め付け苦しくさせる。何も知らなかったとはいえ、彼に恐怖と苦痛を与えた事は間違いない。どんなに好きだと、愛おしいと伝えても、耳が聞こえていないのであれば無意味だ。無理矢理襲われたと思っていても可笑しくない。
こんなことなら、水陰の言う通り我慢するべきだった! と今更後悔してももう遅い。赫焉は数え切れない程彼を求め、彼の身体を貪り無茶ばかりさせてきた。しかし、嘆いていても現実は変わらない。それに、かもしれないというだけで、まだ断定されていない。絶望してガックリと項垂れていた赫焉はその瞳に強い意志を宿し、心配そうに見詰めてくる彼をサッと抱き上げた。
「店主よ、感謝する。急いで医者に診せる故、耳飾りはまた今度買いに来る」
「それが良いでしょうな。書物では治ったと書かれておりましたから、きっと大丈夫ですよ」
「あぁ。必ず治してみせる」
店主に別れを告げた赫焉は急いで城へ戻り人間を自室のベッドに座らせた後、赫焉はとある人物の元へ向かった。途中で緋炎と水陰が何事かと付いて来たが彼は答える余裕もなく、医務室と書かれた部屋の扉を何の躊躇いもなく蹴飛ばし、ズカズカと中へ入って行った。
「銀嶺はおるか!?」
「突然現れたかと思ったら何じゃ? 赫焉。相変わらず礼儀がなっておらんのう」
「説教は後でいい! 直ぐに来い! 診てほしい者がいるのだ!」
「はあ!?」
白衣を身に付けた小柄な老人。眉毛が長く口元には白い髭があり、彼は医者と言うより仙人というような見た目をしていた。銀嶺は返事をする暇もなく赫焉に軽々と脇に抱えられ、荷物のように運ばれてしまった。慌てて後を追う緋炎と水陰は、もう一度赫焉に何があったのか聞いた。突然連れ出された銀嶺も「訳を話せ! この馬鹿者が!」と喚いている。
「行けば分かる。其処で説明するから今は何も聞かず来てくれ!」
「だから訳を話せと言っとるじゃろうが! この小童めが!」
「銀嶺殿の言う通りじゃ。天竜国一の名医と名高い銀嶺殿を連れ出して、後で何を言われても知らぬからな」
「銀嶺殿に失礼ですよ! 竜王様! 緋炎殿の言う通り、銀嶺殿はこの国を誇る名医であり国の宝です! 例え竜王様でも銀嶺殿への無礼は許されません!」
「だから後で謝ると言っておるだろうが!」
ギャアギャア騒ぎながら、赫焉は目的の自室まで辿り着いた。自室に入る直前、赫焉は今から診てもらうのは彼らが溺愛している人間だと説明した。彼はずっと耳が聞こえず、声も出せない可能性が高い。だから名医である銀嶺に診察してもらいたいのだと告げた。
「そ、そんな。う、嘘じゃろ? い、今迄、聞こえてなかったと言うのか!?」
「こ、声も出せなかったと!? そんな、だったら、彼は……」
「だから銀嶺殿に来てもらったのだ。まだ可能性というだけで確定はしておらぬ。だが、あの様子だとほぼ確定であろう。覚悟しておけ」
赫焉だけでなく、緋炎と水陰も視界が真っ黒になった気分だった。今迄ずっと一緒に居たのに、全く気付かなかった。確かに不思議に思っていた。言語が違っていても、必死に話して何かを伝えようとする筈なのに、彼はそんな素振りは一切していなかった。いや、初めて会った頃は少しだけ口をパクパク動かしていたように思う。しかし、彼らはその些細な違和感を見逃してしまった。彼が目覚めたのであれば、最初にするべきことは医者に診せて健康かどうか調べること。真っ先にするべきだったことをしていなかったと気付いて、二人は顔面蒼白になった。
「噂には聞いておる。それで、王妃殿下が来たのは何時だ?」
「数ヶ月前」
「……は?」
「数ヶ月前に、拾って来たのだ。それで、医者に診せるということが完全に頭から抜けていて、民達に指摘されて……」
「はぁああああああ!? 阿呆か!? 阿呆なのか!? 何故数ヶ月も放置しておったのじゃ!? その間、王妃殿下はずっと耳が聞こえず、声も出せなかったということじゃろうが! 途中で気付かんかったんか! この戯けが!」
「う!」
銀嶺の怒りは最もだ。返す言葉もない。竜王、従者、元王妃候補と、これだけ実力者が揃っていながら、誰一人として気付かなかったのだから銀嶺が怒るのも無理はない。それに、銀嶺は赫焉が人間を王妃として迎え入れると言う噂は聞いていたが、彼らとの接点は全くなく、城に住む者達からも「竜王様は王妃様を溺愛している」やら「王妃様も竜王様を慕っているそうよ」と言ったふんわりした話しか聞いていなかった。銀嶺は医者である為常に忙しい。そんな状態で気付ける訳がない。
「この馬鹿どもが。少しは考えてから行動しろと何度も忠告したじゃろうが!」
耳の痛い正論を延々と叫ばれながら、赫焉は自室の扉を開き銀嶺に彼を診察してほしいとお願いした。
銀嶺は深いため息を吐きつつも彼が座るベッドまで近付き、医療器具を取り出した。彼は完全に怯えていて、ブルブル震える姿を見ているだけで心が痛む。
「見たところ、怪我はしておらぬようじゃな」
銀嶺は人間の頭の先から足の指先まで観察し、健康であると判断した。念の為、内臓や骨の状態も確認したが問題なし。耳と喉も正常。彼の健康状態を細かく書類に書き、銀嶺は結果を報告した。
「身体に問題はないのう。恐らく精神的な、心の問題じゃろう。じゃが、心の問題故に、治るかは分からぬ。一生治らんこともあるし、何かが切っ掛けで治るかもしれん。現段階では打つ手がないのう」
それはつまり、彼は今迄ずっと耳が聞こえず、声も出せなかったということで、一生このままである可能性もあるということ。銀嶺から結果を聞かされた赫焉は顔面蒼白になり、ずっと黙っていた水陰は我慢できずに彼の頭を容赦なく叩いた。その後、正気に戻った緋炎も同じように赫焉をぶん殴る。
「だからあれ程『抱くのはまだ早い』って言ったんですよ! どうするんですか! これ!」
「こればかりは妾も許せぬ! この者からすれば無理矢理襲われたのと同じことではないか!」
「静かにせんか! 王妃殿下が怯えておるではないか!」
銀嶺の叱責により、二人は落ち着き、赫焉も少しだけ冷静になった。気まずい空気が流れる中、水陰は以前「彼は異世界の人間かもしれない」という言葉を思い出し、懐に仕舞っていた紙を取り出してテーブルに広げた。
「これは何だ?」
「異世界の文字です。『ニホン』という国の文字で『ヒラガナ』というそうです。この国には他にも幾つか文字の形があって複雑だと書かれていました。その中で読みやすく簡単な文字が『ヒラガナ』と『カタカナ』だと歴史書に記されています。これは歴史書に残されていた『ヒラガナ』を私が書き写したものです。彼がかつての王妃様と同じ異世界から来たのなら、この文字が読める筈です」
この紙があれば彼と意思疎通できるかもしれない。僅かな可能性を頼りに、緋炎は彼の肩をそっと抱いてテーブルまで移動させ、柔らかな椅子に座らせた。そして、テーブルに広げられた紙を見た彼は大きく目を見開いた。水陰の推測は当たっていた。彼は『ヒラガナ』が読める。そう確信した水陰はブルブル震える指を動かした。
『こえ きこえる』
分かりやすい単語で伝えると、彼は泣きたくなるのを必死に我慢して首を横に振った。
伝わった! と喜ぶのと同時に、やはり声が聞こえないのだと分かり、三人は酷く落ち込んだ。しかし、本人に確認しなければ先へは進めない。本当は聞きたくないが、水陰は再び指を動かした。
『こえ でない』
今度は力なく頷いた。耳が聞こえず、声も出せない。そんな状態で今迄過ごして来て平気だったのだろうか。そんな筈はない。大切にしていたとは言え、ずっと怖かった筈だ。不安だった筈だ。突然見知らぬ世界に連れて来られ、訳も分からず身体を貪られ、自分達の都合であちこち連れ回され、困惑しない方が可笑しい。
「つまり、妾達の言葉は一切伝わっていなかったと言う事ではないか! 此奴は王妃だと思ってはおらぬのではないか!? 水陰、念の為に確認せよ。嫌とは言わせぬぞ?」
「わ、分かってますよ」
緋炎に脅されながら水陰は更に震える指を動かして、彼に自分の立場を聞いた。すると彼も指を動かして答えてくれた。しかし、彼の答えは少しは予想していたが、やはり衝撃的なものだった。彼が指を置いた文字は「せ」「い」「ど」「れ」「い」の五文字。
性奴隷。つまり性欲処理の道具。その言葉を理解した瞬間、三人は絶叫した。
「あぁああああああ! やっぱり勘違いしてたじゃないですか! だから言ったんですよ! 抱くのはまだ早いって!」
「赫焉が欲に負けて毎日のように此奴を求めるから勘違いしておるのだ! どうするのじゃ! 赫焉! どうやって誤解を解くつもりじゃ!」
「違う! 性奴隷などではない! 伴侶だ! 我は一度もそなたを性奴隷などと思ったことはない! どうすれば我の気持ちが伝わる!?」
「だから話しても通じないって言ってるでしょうが!」
「ええい! 五月蝿いわ! 王妃殿下が困惑しておるじゃろうが! 静かにせんか! 馬鹿どもが!」
再び銀嶺が怒鳴ったことにより、三人は冷静さを取り戻した。しかし、先程からダラダラと汗が流れており当然三人の顔色は悪い。兎に角誤解を解かなければと、水陰は必死に指を動かした。
性奴隷ではないことと彼が王妃であることを伝えると、彼は驚いて恐る恐る指を動かして緋炎について聞いた。彼の質問に水陰は「元王妃候補」であることと、今は違うこと、今の王妃は彼であることを伝えた。それでもまだ信じられないらしく、水陰は「王妃は君」と念を押して伝えた。けれどやはり信じられないのか、彼は縋るような視線を赫焉に向ける。彼はブンブンと首を縦に振って肯定した。
そして、彼はまだ自分の名前すら知らないと気付いた赫焉はずんずんと水陰に近付いて「我の名前を此奴に教えろ!」と叫んだ。すると緋炎も「妾の名も伝えるのじゃ!」と叫び、水陰は涙目になりながら指を動かして竜王の名前が赫焉であること、元王妃候補が緋炎であること、そして二人とも彼を溺愛していることを伝え、最後に気付くのが遅くなったことに対して謝罪した。
彼は水陰の指を静かに眺めた後、ゆっくりと指を動かして自分の気持ちを伝えてくれた。彼は「誰も悪くない」と「守ってくれて嬉しかった」と言ってくれた。
「済まぬ! 本当に、本当に済まぬ事をした! これからはもっと大切にする!」
「許してくれるのか? こんな酷い事をしたというのに……ぅう」
泣きながら抱きしめる二人に戸惑いはしたものの、暫くすると彼は安堵したように笑って抱きしめ返した。二人が更に号泣したのは言うまでもない。
「あ、私の名前を伝えていません」
「戻って良いか?」
残された水陰は自分の名前を伝え忘れていることに気付き、銀嶺はもう終わったなら解放してくれと全身で訴えていた。
「あの、竜王様。王妃様は話さないのではなく、話せないのでは?」
「え?」
「初代竜王様の王妃様も最初は話せなかったと聞きます。どうやら耳も聞こえなかったようで、意思疎通は大変だったと書物に残っていたような気が……」
「…………」
店主から指摘され、赫焉は固まった。普通なら出会った時に気付く筈の可能性が今迄彼の頭の中から完全に消え失せていたのだ。緋炎から「嫌われている」と言われ、彼が赫焉を嫌っているから、まだ信頼していないから話さないとばかり思っていたが、控えめではあるが彼はちゃんと赫焉に好意を返していたし、最近ではよく笑うようになった。嫌われていないのは確かだ。しかし、今思えば店主の言う通りだ。彼は話さないのではない。話せないのだ。その可能性に気付き、今迄の自分の行いを思い出して動揺し、店主と人間を交互に見る。
「そう、なのか? 我の声が、聞こえぬのか!?」
彼の両肩を掴んで叫んでも、全く反応せず怯えたような表情を見せるだけ。赫焉は目の前が真っ暗になったような気がした。どうして今迄その可能性に気付かなかったのかという己の不甲斐なさと、何も聞こえず声も出せなかったのに懸命に伝えようとしてくれた彼の健気さが赫焉の心をギュウッと締め付け苦しくさせる。何も知らなかったとはいえ、彼に恐怖と苦痛を与えた事は間違いない。どんなに好きだと、愛おしいと伝えても、耳が聞こえていないのであれば無意味だ。無理矢理襲われたと思っていても可笑しくない。
こんなことなら、水陰の言う通り我慢するべきだった! と今更後悔してももう遅い。赫焉は数え切れない程彼を求め、彼の身体を貪り無茶ばかりさせてきた。しかし、嘆いていても現実は変わらない。それに、かもしれないというだけで、まだ断定されていない。絶望してガックリと項垂れていた赫焉はその瞳に強い意志を宿し、心配そうに見詰めてくる彼をサッと抱き上げた。
「店主よ、感謝する。急いで医者に診せる故、耳飾りはまた今度買いに来る」
「それが良いでしょうな。書物では治ったと書かれておりましたから、きっと大丈夫ですよ」
「あぁ。必ず治してみせる」
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「銀嶺はおるか!?」
「突然現れたかと思ったら何じゃ? 赫焉。相変わらず礼儀がなっておらんのう」
「説教は後でいい! 直ぐに来い! 診てほしい者がいるのだ!」
「はあ!?」
白衣を身に付けた小柄な老人。眉毛が長く口元には白い髭があり、彼は医者と言うより仙人というような見た目をしていた。銀嶺は返事をする暇もなく赫焉に軽々と脇に抱えられ、荷物のように運ばれてしまった。慌てて後を追う緋炎と水陰は、もう一度赫焉に何があったのか聞いた。突然連れ出された銀嶺も「訳を話せ! この馬鹿者が!」と喚いている。
「行けば分かる。其処で説明するから今は何も聞かず来てくれ!」
「だから訳を話せと言っとるじゃろうが! この小童めが!」
「銀嶺殿の言う通りじゃ。天竜国一の名医と名高い銀嶺殿を連れ出して、後で何を言われても知らぬからな」
「銀嶺殿に失礼ですよ! 竜王様! 緋炎殿の言う通り、銀嶺殿はこの国を誇る名医であり国の宝です! 例え竜王様でも銀嶺殿への無礼は許されません!」
「だから後で謝ると言っておるだろうが!」
ギャアギャア騒ぎながら、赫焉は目的の自室まで辿り着いた。自室に入る直前、赫焉は今から診てもらうのは彼らが溺愛している人間だと説明した。彼はずっと耳が聞こえず、声も出せない可能性が高い。だから名医である銀嶺に診察してもらいたいのだと告げた。
「そ、そんな。う、嘘じゃろ? い、今迄、聞こえてなかったと言うのか!?」
「こ、声も出せなかったと!? そんな、だったら、彼は……」
「だから銀嶺殿に来てもらったのだ。まだ可能性というだけで確定はしておらぬ。だが、あの様子だとほぼ確定であろう。覚悟しておけ」
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「噂には聞いておる。それで、王妃殿下が来たのは何時だ?」
「数ヶ月前」
「……は?」
「数ヶ月前に、拾って来たのだ。それで、医者に診せるということが完全に頭から抜けていて、民達に指摘されて……」
「はぁああああああ!? 阿呆か!? 阿呆なのか!? 何故数ヶ月も放置しておったのじゃ!? その間、王妃殿下はずっと耳が聞こえず、声も出せなかったということじゃろうが! 途中で気付かんかったんか! この戯けが!」
「う!」
銀嶺の怒りは最もだ。返す言葉もない。竜王、従者、元王妃候補と、これだけ実力者が揃っていながら、誰一人として気付かなかったのだから銀嶺が怒るのも無理はない。それに、銀嶺は赫焉が人間を王妃として迎え入れると言う噂は聞いていたが、彼らとの接点は全くなく、城に住む者達からも「竜王様は王妃様を溺愛している」やら「王妃様も竜王様を慕っているそうよ」と言ったふんわりした話しか聞いていなかった。銀嶺は医者である為常に忙しい。そんな状態で気付ける訳がない。
「この馬鹿どもが。少しは考えてから行動しろと何度も忠告したじゃろうが!」
耳の痛い正論を延々と叫ばれながら、赫焉は自室の扉を開き銀嶺に彼を診察してほしいとお願いした。
銀嶺は深いため息を吐きつつも彼が座るベッドまで近付き、医療器具を取り出した。彼は完全に怯えていて、ブルブル震える姿を見ているだけで心が痛む。
「見たところ、怪我はしておらぬようじゃな」
銀嶺は人間の頭の先から足の指先まで観察し、健康であると判断した。念の為、内臓や骨の状態も確認したが問題なし。耳と喉も正常。彼の健康状態を細かく書類に書き、銀嶺は結果を報告した。
「身体に問題はないのう。恐らく精神的な、心の問題じゃろう。じゃが、心の問題故に、治るかは分からぬ。一生治らんこともあるし、何かが切っ掛けで治るかもしれん。現段階では打つ手がないのう」
それはつまり、彼は今迄ずっと耳が聞こえず、声も出せなかったということで、一生このままである可能性もあるということ。銀嶺から結果を聞かされた赫焉は顔面蒼白になり、ずっと黙っていた水陰は我慢できずに彼の頭を容赦なく叩いた。その後、正気に戻った緋炎も同じように赫焉をぶん殴る。
「だからあれ程『抱くのはまだ早い』って言ったんですよ! どうするんですか! これ!」
「こればかりは妾も許せぬ! この者からすれば無理矢理襲われたのと同じことではないか!」
「静かにせんか! 王妃殿下が怯えておるではないか!」
銀嶺の叱責により、二人は落ち着き、赫焉も少しだけ冷静になった。気まずい空気が流れる中、水陰は以前「彼は異世界の人間かもしれない」という言葉を思い出し、懐に仕舞っていた紙を取り出してテーブルに広げた。
「これは何だ?」
「異世界の文字です。『ニホン』という国の文字で『ヒラガナ』というそうです。この国には他にも幾つか文字の形があって複雑だと書かれていました。その中で読みやすく簡単な文字が『ヒラガナ』と『カタカナ』だと歴史書に記されています。これは歴史書に残されていた『ヒラガナ』を私が書き写したものです。彼がかつての王妃様と同じ異世界から来たのなら、この文字が読める筈です」
この紙があれば彼と意思疎通できるかもしれない。僅かな可能性を頼りに、緋炎は彼の肩をそっと抱いてテーブルまで移動させ、柔らかな椅子に座らせた。そして、テーブルに広げられた紙を見た彼は大きく目を見開いた。水陰の推測は当たっていた。彼は『ヒラガナ』が読める。そう確信した水陰はブルブル震える指を動かした。
『こえ きこえる』
分かりやすい単語で伝えると、彼は泣きたくなるのを必死に我慢して首を横に振った。
伝わった! と喜ぶのと同時に、やはり声が聞こえないのだと分かり、三人は酷く落ち込んだ。しかし、本人に確認しなければ先へは進めない。本当は聞きたくないが、水陰は再び指を動かした。
『こえ でない』
今度は力なく頷いた。耳が聞こえず、声も出せない。そんな状態で今迄過ごして来て平気だったのだろうか。そんな筈はない。大切にしていたとは言え、ずっと怖かった筈だ。不安だった筈だ。突然見知らぬ世界に連れて来られ、訳も分からず身体を貪られ、自分達の都合であちこち連れ回され、困惑しない方が可笑しい。
「つまり、妾達の言葉は一切伝わっていなかったと言う事ではないか! 此奴は王妃だと思ってはおらぬのではないか!? 水陰、念の為に確認せよ。嫌とは言わせぬぞ?」
「わ、分かってますよ」
緋炎に脅されながら水陰は更に震える指を動かして、彼に自分の立場を聞いた。すると彼も指を動かして答えてくれた。しかし、彼の答えは少しは予想していたが、やはり衝撃的なものだった。彼が指を置いた文字は「せ」「い」「ど」「れ」「い」の五文字。
性奴隷。つまり性欲処理の道具。その言葉を理解した瞬間、三人は絶叫した。
「あぁああああああ! やっぱり勘違いしてたじゃないですか! だから言ったんですよ! 抱くのはまだ早いって!」
「赫焉が欲に負けて毎日のように此奴を求めるから勘違いしておるのだ! どうするのじゃ! 赫焉! どうやって誤解を解くつもりじゃ!」
「違う! 性奴隷などではない! 伴侶だ! 我は一度もそなたを性奴隷などと思ったことはない! どうすれば我の気持ちが伝わる!?」
「だから話しても通じないって言ってるでしょうが!」
「ええい! 五月蝿いわ! 王妃殿下が困惑しておるじゃろうが! 静かにせんか! 馬鹿どもが!」
再び銀嶺が怒鳴ったことにより、三人は冷静さを取り戻した。しかし、先程からダラダラと汗が流れており当然三人の顔色は悪い。兎に角誤解を解かなければと、水陰は必死に指を動かした。
性奴隷ではないことと彼が王妃であることを伝えると、彼は驚いて恐る恐る指を動かして緋炎について聞いた。彼の質問に水陰は「元王妃候補」であることと、今は違うこと、今の王妃は彼であることを伝えた。それでもまだ信じられないらしく、水陰は「王妃は君」と念を押して伝えた。けれどやはり信じられないのか、彼は縋るような視線を赫焉に向ける。彼はブンブンと首を縦に振って肯定した。
そして、彼はまだ自分の名前すら知らないと気付いた赫焉はずんずんと水陰に近付いて「我の名前を此奴に教えろ!」と叫んだ。すると緋炎も「妾の名も伝えるのじゃ!」と叫び、水陰は涙目になりながら指を動かして竜王の名前が赫焉であること、元王妃候補が緋炎であること、そして二人とも彼を溺愛していることを伝え、最後に気付くのが遅くなったことに対して謝罪した。
彼は水陰の指を静かに眺めた後、ゆっくりと指を動かして自分の気持ちを伝えてくれた。彼は「誰も悪くない」と「守ってくれて嬉しかった」と言ってくれた。
「済まぬ! 本当に、本当に済まぬ事をした! これからはもっと大切にする!」
「許してくれるのか? こんな酷い事をしたというのに……ぅう」
泣きながら抱きしめる二人に戸惑いはしたものの、暫くすると彼は安堵したように笑って抱きしめ返した。二人が更に号泣したのは言うまでもない。
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アメリスはマハス公国の八大領主の一つであるロナデシア家の三姉妹の次女として生まれるが、頭脳明晰な長女と愛想の上手い三女と比較されて母親から疎まれており、ついに追放されてしまう。しかしアメリスは取り柄のない自分にもできることをしなければならないという一心で領民たちに対し援助を熱心に行っていたので、領民からは非常に好かれていた。そのため追放された後に他国に置き去りにされてしまうものの、偶然以前助けたマハス公国出身のヨーデルと出会い助けられる。ここから彼女の逆転人生が始まっていくのであった!
私が死ぬまでには完結させます。
追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。
追記2:ひとまず完結しました!
悪役令嬢の兄でしたが、追放後は参謀として騎士たちに囲まれています。- 第1巻 - 婚約破棄と一族追放
大の字だい
BL
王国にその名を轟かせる名門・ブラックウッド公爵家。
嫡男レイモンドは比類なき才知と冷徹な眼差しを持つ若き天才であった。
だが妹リディアナが王太子の許嫁でありながら、王太子が心奪われたのは庶民の少女リーシャ・グレイヴェル。
嫉妬と憎悪が社交界を揺るがす愚行へと繋がり、王宮での婚約破棄、王の御前での一族追放へと至る。
混乱の只中、妹を庇おうとするレイモンドの前に立ちはだかったのは、王国騎士団副団長にしてリーシャの異母兄、ヴィンセント・グレイヴェル。
琥珀の瞳に嗜虐を宿した彼は言う――
「この才を捨てるは惜しい。ゆえに、我が手で飼い馴らそう」
知略と支配欲を秘めた騎士と、没落した宰相家の天才青年。
耽美と背徳の物語が、冷たい鎖と熱い口づけの中で幕を開ける。
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