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招かれざる客
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無礼を嗜められた男は足を組んだまま、ワイングラスを回して此方を見つめるヴィズルを見ると、大袈裟に恭しく頭を垂れた。
「兄上、お久しぶりです。今宵の宴には見知らぬ顔が混じっているようでしたので、興味を惹かれたのですよ。どこの女神様かと思えば英雄でもない人間の娘を宮殿に上げるとは……。美しい声にその美貌。確かに頷けますけれどね」
漆黒の服に身を包んだ陰気で美しい男性はヴィズルの兄弟であるという。全身漆黒の鎧で身を固める主神とは真逆の、線の細いロキの印象は掴み所が無く、視線を向けられただけでも、居心地が悪くなってしまうような神だった。痛みを感じた指先をハンカチで抑えながらエマは目を逸らした。招かれざる客に動じる事も無く、ヴィズルは椅子の上で鼻を鳴らすとロキを睨み付けた。
「これまでに、一度でも死せる戦士達に興味を持った事があったか? お前の事だ、どうせ良からぬ事をしでかそうと企んでいるんだろ。この娘は俺に招かれた歌姫だ。お前の悪戯に付き合わせるつもりは無い。触れるな」
「目的の為なら手段を選ばない貪欲な兄上の寵愛を受けるとは、幸福なのかそれとも……ふふふ。心配御無用ですよ、私とて日々悪辣に過ごしている訳ではございません。ただの、ご挨拶ですよ。ごきげんよう、兄上」
ロキは、翡翠の瞳を細めると笑みを浮かべた。この二人の仲がどう言うものかは知れないが少なくとも仲睦まじいものには思えなかった。戦士たちも沈黙したまま、二人の様子を見守っている。フギンとムニンもまた沈黙を守ったまま、エマを護衛するように背後から離れない。
ロキは再び楽しげに笑みを浮かべた瞬間、足元から黒い炎が竜巻のように巻き起こって姿を消した。エマは無意識のうちに緊張して体を固くしていたが、煙のように消えてしまったのを確認すると大きく息を吐いて体を脱力させた。
「――――相変わらず神出鬼没な男だな。エマよ、あの男は俺の義兄弟でロキと言う。悪辣で嘘を好む。くれぐれも信用しないように。――――指は痛むのか」
「は、はい……。大丈夫です。出血も止まりましたから」
エマの感はどうやら当たっていたようで、ロキという神は善神と言うより悪神に近い存在のようだ。だが人を見透かすようなあの翡翠の瞳を見ると、思ってもいない事を口走ったり、本心を見抜かれてしまいそうな鋭さを感じた。
再び、宴会が始まるのを見つめるようにしていたヴィズルが視線だけエマに向ける。威圧感のある、主神の思わぬ気遣いに、少し瞳を見開いて頬を染めると頷いた。先程まで無愛想に義兄弟の相手をしていたヴィズルの口端に、微かな笑みが浮かんだ。
「お前の歌は、この上なく美しく素晴らしいものだった。アスガルドの歌姫として申し分ないだろう。朝までこの宴は続くがお前は、俺の部屋に来い。そしてその美しい声で俺を満足させろ」
「はい。でもあんな事をしたら直ぐに歌うのを辞めます」
「この俺に命令できる人間は、人間の世界中を探してもお前だけだろうな、エマ」
エマの相変わらずの態度に、ヴィズルは面白そうに笑うと立ち上がった。尊大な態度とは裏腹に上品に手を差し出す。エマは戸惑うように彼の大きな手の平に触れると立ち上がった。あのように強気な態度に出たものの、宮殿の主神の部屋に入るなんて、普通では考えられない事だ。肩越しに双子の執事を振り返ると、笑顔を浮かべて頷いた。
警戒しつつも、心臓が高鳴るのを感じていた。傲慢な異教の神だが、どこか抗えぬような魅力的な強さと気高さがある。言葉とは裏腹に知的な隻眼の瞳も、世界を見渡すように神秘的だ。彼に連れられて長く美しい装飾の廊下を歩いていく。金色に輝く大きな扉が一人でに開くとそこには、吹き抜けの天上に天窓がついており、天高くそびえる世界樹の青々とした葉が茂っているのが見えた。
この宮殿も気が遠くなるほど大きくて広いが、この巨木はそれ以上で首が痛くなるほど天高くそびえている。夜間でも大量の蛍なような光が舞い、その明かりを頼りに鷹が旋回して枝から枝へと移動するのがかろうじて見えた。どうやら小さなリスのような生き物も動いているのか影が素早く動いた。
「凄いわ……、こんな大きな世界樹は初めて見ます」
「世界樹だ、美しいだろう。すべての世界の源だ」
部屋に目を落とすと、黄金の扉とは裏腹に落ち着いた家具で統一されている。ベッドに樫の木のテーブル、その上に置かれたワインと黄金の果物。部屋を照らす燭台。
そして広い部屋の半分がまるで書庫のように大量の本で覆われていた。いかにこの隻眼の神が貪欲に知識を欲しているかがわかった。手を離されると、エマは樫の木の椅子に座る。
全身を覆う黒い甲冑を脱ぐと、ラフなシャツとズボン姿になった。鍛えられた体だが無駄な肉は無く立方も仕草も美しい。隻眼を隠す黒の眼帯だけはそのままで振り返った。彼の後ろ姿に見惚れていた事を隠すように、エマは思わず視線を外して書庫のような本棚を見つめた。
「す、凄い本の量ですね。まるで書庫のようだわ。ヴィズル様は本がお好きなのですね」
「俺は世界中の知識を集めている。本で分からないものはフギンとムニンに旅をさせて様子を伺わせている。特に詩に関するものは興味が尽きる事はない。お前のように生業にしていなくても優秀な者は、彼らを通して、俺の耳に届くようになっているんでな」
「それじゃあ、ヴィズル様は、ずっと以前から私の事を存じていたのですか?」
エマの質問に、ヴィズルは微かに笑ってすませただけだった。てっきり崖から落ちてあの不可思議な霧の空間に飛ばされたのは、何かの偶然だと思っていたが、自分の事を知っていたのなら偶然ではなく、必然で助けられたという事なのだろうか。
(ヴィズル様は、私のことをずっと前から知っていたの……?)
ゆっくりとヴィズルは樫の木のテーブルに近づくと、エマの為にワインを注いだ。王座で見た最高神の威圧感や、宴会場での雰囲気とは異なり、全身を覆う鎧を脱いだ彼は戦神とは思えない程に、知的で優雅な仕草で隣に座る。あの日、乱暴に体を求めようとした事が嘘のように紳士的だ。
「お前の口に合うかは分からんが、アスガルドのワインではこれが一番だ。深みがあって香りも良い」
「ありがとうございます、ヴィズル様」
「先程の歌も美しいが、俺はあの歌が聞きたい。戦に向かった男を想う女の歌だ……宮殿に来る前にエマが作った曲の中で一番気に入っている」
「やっぱり! 私の事を知っていたんですね。見られていたなんて何だか恥ずかしいわ。あの曲はまだ、誰にも聴かせた事が無いのです。自信はありませんけれど……それでもよろしいのでしたら」
ヴィズルは、構わんと視線で促した。隻眼の戦神が言うように新しい曲を書いていた。まだ村の人や幼い妹弟にも聴かせた事の無いものだった。人前で歌ったことの無い曲なので自信は無いが、エマも気に入っている曲だ。
宮殿の主であり、アスガルドの主神に逆らえる筈も無く、エマはワインを一口飲んで緊張を解した。両手を胸元に当てると、小鳥のように美しいソプラノの声で歌い始める。
愛する人が戦場に行って帰ってこない寂しさ、どれほど彼の帰りを待ち侘びているか。
そして自分の魂は離れていても同じ戦場を駆けているのだと。貴方を守る為に鳥になって寄り添いたいと言う想いを歌った。透き通るような穢れのない声はまるで女神のようにも思えるが、儚く命を散らしてしまう人間の弱さもその美声には込められていた。歌い終わると、ヴィズルは閉じていた瞳を開いて拍手をした。
「実に美しい歌声だ。退廃的で、美しく切ない詩も見事なものだな……その感性の美しさはアスガルドの女神達も舌を巻くだろう」
「あ、ありがとうございます。そんなに褒められた事が無いので恥ずかしいですわ。けれど、この歌を愛して下さるのは嬉しいです。自信になりますもの」
ヴィズルの言葉はこれ以上ないくらいの賛辞で、思わずエマの頬が熱くなるのを感じた。彼がどんなに尊大であっても、異教の神であっても、神に褒められると言う事は誇りに思って良いだろう。
ふと、ヴィズルは立ち上がるとエマの手を取った。そして戸惑う彼女を立ち上がらせると、右手を腰に回し、左手を合わせた。翡翠の瞳は力強く王たるものの威厳に満ちていた。だが、その瞳の奥に全ての神の頂に立つ孤高なる者の孤独が見える。
「俺と踊れ、エマ。村の祭りでは村の男と踊っていただろう」
「たまに、です。それに私はそんなに上手くありませんもの」
「ふっ……、それは良く知っているが、俺はお前と踊りたい」
笑ったヴィズルを、エマは頬を染めて軽く睨み付けた。お世辞にもそんなに踊りが上手いわけではない。全てを見通している筈なのに構わず緩やかにステップを踏む。口ではエマをからかうような素振りでも、隻眼の戦神はこちらのペースに合わせて足を動かしてくれた。
村の祭りのように音楽がある訳ではない。この静かな部屋には、ただ夜を照らす、仄かな灯火と遠くで瞬く宝石のような星、そして鳥の羽ばたく音だけだ。第一印象は乱暴者で好色な神という最悪なものだったが、優雅に踊るヴィズルは、人を虜にしてしまうような不思議な魅力がある。踊っている間もヴィズルとの会話は弾み、その態度とは裏腹に博識で相手を飽きさせる事は無かった。
いつの間にかエマは、警戒心を説いて彼との時間を楽しんでいたが、不意に幼い弟と妹を思い出して問い掛けた。
「ヴィズル様、エミリオとアーリアは見つかりましたか? あんな霧の中で、小さな子供たちが彷徨っているのかも知れないと思うと、いてもたってもいられないのです……なにか情報だけでも教えて頂きたいのです」
「エマよ、宮殿がどう言う場所かわかるか。死んだ英雄や兵士達が俺に選ばれてやってくる場所だ。あの崖から落ちた子供が本当に、生きていると思うのか?」
「それはっ……!」
エマは目を見開いた。思わず彼の胸板を押して体を反射的に離した。そうだ、ここで子供を見かけたことなど一度も無い。本当は心の何処かで勘付いていた。崖から馬車ごと落ちて、無事でいられるはずは無い。幼い妹と弟は投げ出されて、痛みを感じる間もなく死を迎え、両親がいる天国へと向かったのだろう。
ただ、自分だけがヴィズルに囚われたのだ。静かに涙が頬を伝うのを感じ、不意に抱き寄せられると、唇が重ねられた。
「んっ……」
抵抗する間もなく、抱き寄せられて唇を重ねられると開いた隙間から舌先が挿入される。隻眼の戦神の舌は慣れないエマを導くように動いた。ワインの味がする唾液を交換すると、まるで生き物のように二人の舌先が絡まった。
この間の荒々しい口付けとは違う、神の舌先はぼんやりと意識を蕩けさせた。胸板に手を置くと、腰を抱かれ頭を支えられて更に深く濃厚に口付けられた。
「はぁっ……んっ、ヴィズルさ、ま……んん」
悲しみを癒やす為なのか、それとも捕われの美しい歌姫を自分のものだと自覚させる為だろうか。ただ、熱く濃厚な口付けと、ワインの酔いが、エマの意識を鈍らせていた。その心地よい快楽に、純血を重んじるように育てられていたエマの心が、段々と本能に溶かされていくような快楽を感じ始めていた。
「兄上、お久しぶりです。今宵の宴には見知らぬ顔が混じっているようでしたので、興味を惹かれたのですよ。どこの女神様かと思えば英雄でもない人間の娘を宮殿に上げるとは……。美しい声にその美貌。確かに頷けますけれどね」
漆黒の服に身を包んだ陰気で美しい男性はヴィズルの兄弟であるという。全身漆黒の鎧で身を固める主神とは真逆の、線の細いロキの印象は掴み所が無く、視線を向けられただけでも、居心地が悪くなってしまうような神だった。痛みを感じた指先をハンカチで抑えながらエマは目を逸らした。招かれざる客に動じる事も無く、ヴィズルは椅子の上で鼻を鳴らすとロキを睨み付けた。
「これまでに、一度でも死せる戦士達に興味を持った事があったか? お前の事だ、どうせ良からぬ事をしでかそうと企んでいるんだろ。この娘は俺に招かれた歌姫だ。お前の悪戯に付き合わせるつもりは無い。触れるな」
「目的の為なら手段を選ばない貪欲な兄上の寵愛を受けるとは、幸福なのかそれとも……ふふふ。心配御無用ですよ、私とて日々悪辣に過ごしている訳ではございません。ただの、ご挨拶ですよ。ごきげんよう、兄上」
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ロキは再び楽しげに笑みを浮かべた瞬間、足元から黒い炎が竜巻のように巻き起こって姿を消した。エマは無意識のうちに緊張して体を固くしていたが、煙のように消えてしまったのを確認すると大きく息を吐いて体を脱力させた。
「――――相変わらず神出鬼没な男だな。エマよ、あの男は俺の義兄弟でロキと言う。悪辣で嘘を好む。くれぐれも信用しないように。――――指は痛むのか」
「は、はい……。大丈夫です。出血も止まりましたから」
エマの感はどうやら当たっていたようで、ロキという神は善神と言うより悪神に近い存在のようだ。だが人を見透かすようなあの翡翠の瞳を見ると、思ってもいない事を口走ったり、本心を見抜かれてしまいそうな鋭さを感じた。
再び、宴会が始まるのを見つめるようにしていたヴィズルが視線だけエマに向ける。威圧感のある、主神の思わぬ気遣いに、少し瞳を見開いて頬を染めると頷いた。先程まで無愛想に義兄弟の相手をしていたヴィズルの口端に、微かな笑みが浮かんだ。
「お前の歌は、この上なく美しく素晴らしいものだった。アスガルドの歌姫として申し分ないだろう。朝までこの宴は続くがお前は、俺の部屋に来い。そしてその美しい声で俺を満足させろ」
「はい。でもあんな事をしたら直ぐに歌うのを辞めます」
「この俺に命令できる人間は、人間の世界中を探してもお前だけだろうな、エマ」
エマの相変わらずの態度に、ヴィズルは面白そうに笑うと立ち上がった。尊大な態度とは裏腹に上品に手を差し出す。エマは戸惑うように彼の大きな手の平に触れると立ち上がった。あのように強気な態度に出たものの、宮殿の主神の部屋に入るなんて、普通では考えられない事だ。肩越しに双子の執事を振り返ると、笑顔を浮かべて頷いた。
警戒しつつも、心臓が高鳴るのを感じていた。傲慢な異教の神だが、どこか抗えぬような魅力的な強さと気高さがある。言葉とは裏腹に知的な隻眼の瞳も、世界を見渡すように神秘的だ。彼に連れられて長く美しい装飾の廊下を歩いていく。金色に輝く大きな扉が一人でに開くとそこには、吹き抜けの天上に天窓がついており、天高くそびえる世界樹の青々とした葉が茂っているのが見えた。
この宮殿も気が遠くなるほど大きくて広いが、この巨木はそれ以上で首が痛くなるほど天高くそびえている。夜間でも大量の蛍なような光が舞い、その明かりを頼りに鷹が旋回して枝から枝へと移動するのがかろうじて見えた。どうやら小さなリスのような生き物も動いているのか影が素早く動いた。
「凄いわ……、こんな大きな世界樹は初めて見ます」
「世界樹だ、美しいだろう。すべての世界の源だ」
部屋に目を落とすと、黄金の扉とは裏腹に落ち着いた家具で統一されている。ベッドに樫の木のテーブル、その上に置かれたワインと黄金の果物。部屋を照らす燭台。
そして広い部屋の半分がまるで書庫のように大量の本で覆われていた。いかにこの隻眼の神が貪欲に知識を欲しているかがわかった。手を離されると、エマは樫の木の椅子に座る。
全身を覆う黒い甲冑を脱ぐと、ラフなシャツとズボン姿になった。鍛えられた体だが無駄な肉は無く立方も仕草も美しい。隻眼を隠す黒の眼帯だけはそのままで振り返った。彼の後ろ姿に見惚れていた事を隠すように、エマは思わず視線を外して書庫のような本棚を見つめた。
「す、凄い本の量ですね。まるで書庫のようだわ。ヴィズル様は本がお好きなのですね」
「俺は世界中の知識を集めている。本で分からないものはフギンとムニンに旅をさせて様子を伺わせている。特に詩に関するものは興味が尽きる事はない。お前のように生業にしていなくても優秀な者は、彼らを通して、俺の耳に届くようになっているんでな」
「それじゃあ、ヴィズル様は、ずっと以前から私の事を存じていたのですか?」
エマの質問に、ヴィズルは微かに笑ってすませただけだった。てっきり崖から落ちてあの不可思議な霧の空間に飛ばされたのは、何かの偶然だと思っていたが、自分の事を知っていたのなら偶然ではなく、必然で助けられたという事なのだろうか。
(ヴィズル様は、私のことをずっと前から知っていたの……?)
ゆっくりとヴィズルは樫の木のテーブルに近づくと、エマの為にワインを注いだ。王座で見た最高神の威圧感や、宴会場での雰囲気とは異なり、全身を覆う鎧を脱いだ彼は戦神とは思えない程に、知的で優雅な仕草で隣に座る。あの日、乱暴に体を求めようとした事が嘘のように紳士的だ。
「お前の口に合うかは分からんが、アスガルドのワインではこれが一番だ。深みがあって香りも良い」
「ありがとうございます、ヴィズル様」
「先程の歌も美しいが、俺はあの歌が聞きたい。戦に向かった男を想う女の歌だ……宮殿に来る前にエマが作った曲の中で一番気に入っている」
「やっぱり! 私の事を知っていたんですね。見られていたなんて何だか恥ずかしいわ。あの曲はまだ、誰にも聴かせた事が無いのです。自信はありませんけれど……それでもよろしいのでしたら」
ヴィズルは、構わんと視線で促した。隻眼の戦神が言うように新しい曲を書いていた。まだ村の人や幼い妹弟にも聴かせた事の無いものだった。人前で歌ったことの無い曲なので自信は無いが、エマも気に入っている曲だ。
宮殿の主であり、アスガルドの主神に逆らえる筈も無く、エマはワインを一口飲んで緊張を解した。両手を胸元に当てると、小鳥のように美しいソプラノの声で歌い始める。
愛する人が戦場に行って帰ってこない寂しさ、どれほど彼の帰りを待ち侘びているか。
そして自分の魂は離れていても同じ戦場を駆けているのだと。貴方を守る為に鳥になって寄り添いたいと言う想いを歌った。透き通るような穢れのない声はまるで女神のようにも思えるが、儚く命を散らしてしまう人間の弱さもその美声には込められていた。歌い終わると、ヴィズルは閉じていた瞳を開いて拍手をした。
「実に美しい歌声だ。退廃的で、美しく切ない詩も見事なものだな……その感性の美しさはアスガルドの女神達も舌を巻くだろう」
「あ、ありがとうございます。そんなに褒められた事が無いので恥ずかしいですわ。けれど、この歌を愛して下さるのは嬉しいです。自信になりますもの」
ヴィズルの言葉はこれ以上ないくらいの賛辞で、思わずエマの頬が熱くなるのを感じた。彼がどんなに尊大であっても、異教の神であっても、神に褒められると言う事は誇りに思って良いだろう。
ふと、ヴィズルは立ち上がるとエマの手を取った。そして戸惑う彼女を立ち上がらせると、右手を腰に回し、左手を合わせた。翡翠の瞳は力強く王たるものの威厳に満ちていた。だが、その瞳の奥に全ての神の頂に立つ孤高なる者の孤独が見える。
「俺と踊れ、エマ。村の祭りでは村の男と踊っていただろう」
「たまに、です。それに私はそんなに上手くありませんもの」
「ふっ……、それは良く知っているが、俺はお前と踊りたい」
笑ったヴィズルを、エマは頬を染めて軽く睨み付けた。お世辞にもそんなに踊りが上手いわけではない。全てを見通している筈なのに構わず緩やかにステップを踏む。口ではエマをからかうような素振りでも、隻眼の戦神はこちらのペースに合わせて足を動かしてくれた。
村の祭りのように音楽がある訳ではない。この静かな部屋には、ただ夜を照らす、仄かな灯火と遠くで瞬く宝石のような星、そして鳥の羽ばたく音だけだ。第一印象は乱暴者で好色な神という最悪なものだったが、優雅に踊るヴィズルは、人を虜にしてしまうような不思議な魅力がある。踊っている間もヴィズルとの会話は弾み、その態度とは裏腹に博識で相手を飽きさせる事は無かった。
いつの間にかエマは、警戒心を説いて彼との時間を楽しんでいたが、不意に幼い弟と妹を思い出して問い掛けた。
「ヴィズル様、エミリオとアーリアは見つかりましたか? あんな霧の中で、小さな子供たちが彷徨っているのかも知れないと思うと、いてもたってもいられないのです……なにか情報だけでも教えて頂きたいのです」
「エマよ、宮殿がどう言う場所かわかるか。死んだ英雄や兵士達が俺に選ばれてやってくる場所だ。あの崖から落ちた子供が本当に、生きていると思うのか?」
「それはっ……!」
エマは目を見開いた。思わず彼の胸板を押して体を反射的に離した。そうだ、ここで子供を見かけたことなど一度も無い。本当は心の何処かで勘付いていた。崖から馬車ごと落ちて、無事でいられるはずは無い。幼い妹と弟は投げ出されて、痛みを感じる間もなく死を迎え、両親がいる天国へと向かったのだろう。
ただ、自分だけがヴィズルに囚われたのだ。静かに涙が頬を伝うのを感じ、不意に抱き寄せられると、唇が重ねられた。
「んっ……」
抵抗する間もなく、抱き寄せられて唇を重ねられると開いた隙間から舌先が挿入される。隻眼の戦神の舌は慣れないエマを導くように動いた。ワインの味がする唾液を交換すると、まるで生き物のように二人の舌先が絡まった。
この間の荒々しい口付けとは違う、神の舌先はぼんやりと意識を蕩けさせた。胸板に手を置くと、腰を抱かれ頭を支えられて更に深く濃厚に口付けられた。
「はぁっ……んっ、ヴィズルさ、ま……んん」
悲しみを癒やす為なのか、それとも捕われの美しい歌姫を自分のものだと自覚させる為だろうか。ただ、熱く濃厚な口付けと、ワインの酔いが、エマの意識を鈍らせていた。その心地よい快楽に、純血を重んじるように育てられていたエマの心が、段々と本能に溶かされていくような快楽を感じ始めていた。
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