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第一章 種子殺人
⑤
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――――現実にもどれ。
そう心の中で呟くと、葵は妹の笑顔を封印するように、瞼を閉じ、目の前の少女に微笑みかけた。
「ありがとうございます。少しでもお客様が当店のコーヒーをお好きになって頂けたのなら、光栄です」
「は、はいっ。大好きです! これからもこのお店に通います!」
「ぜひ、お待ちしております」
懐かしい記憶が蘇ってきたのは、目の前にいる客が、葵の妹と同じ年代だったからだろう。葵に微笑みかけられた少女は、あからさまに頬を染めて、元気に答えた。
ちょうど彼女たちは、年上の異性に興味を抱くような年頃で、彼女の連れである友人も、葵を見ては、まるでアイドルを見るかのようにはしゃいでいる。そんな賑やかなテラスの様子を、カウンター越しに店長と、女性従業員が笑いながら見ていた。
「高階くん、しっかりしてますよね。誰よりも、新しいことを覚えるの早いし。丁寧だから、お客さんの評判も良いんですよ」
「そうだねぇ。高階くんは真面目だし、僕も凄く助かってるんだ。彼、ご両親を早くに亡くしているらしくてね。って、勝手に高階くんのプライベートのことを話してしまったな」
「え、ご両親まで? 高階くんってなんとなく壁があるっていうか、ときどき近寄りがたい瞬間がありますよね。人を避けてるっていうか。ご両親と妹さんを亡くして、苦労されたんですね」
若い時の苦労は買ってでもしろ、というが葵の過去を思えば、あまりにも運命は残酷だと感じる。他人には想像できないほどの痛みを背負い、計り知れない苦労があっただろうと思う。彼の妹が、亡くなった日のことを思い出した彼らは押し黙り、なんとなく気まずくなって、それぞれの持ち場に帰った。
ようやく、仕事に出てこれるようになった葵の憔悴しきった様子は、今思い出しても、痛々しく感じる。やつれ、カウンターに立っているのも、やっとというほどで、見かねた店長は、彼に好きなだけゆっくりと休むように促した。
一度は葵から退職届を預かったものの、いつでも戻ってきてくれ、形だけでも在籍を残しておくと彼に告げた。誰もが葵が立ち直り、再びこの店で務めてくれることを願っていたから。
彼の夢も、葵の妹が何度かこの店に訪れていたことを知っていた身としては、この店を、一人残された葵の、最後の帰ってくる場所にしてやりたかったのが本音だろう。
長期間休養し、復帰した葵に悲壮感はなかった。
話を聞けば、ここに戻る前に生活費を稼ぐために時給の高い日雇いや、職場を転々としていたようで、むしろなにか吹っ切れたかのような、清々しさえ感じられた。今の葵は仕事の意欲に満ちているようだったが、さらに他人を避けるようになっていた。
バリスタという仕事に打ち込むことで、家族を亡くしたことを、瞬間的にも忘れられるというのならば、そのように彼に接するしかない。
テラスから室内に戻った葵は、再び自動ミルのボタンを押す。冷えた視線で、ぐちゃぐちゃにすり潰されていく、無残な豆の様子をじっと見ていた。
――――今夜、実行する。
葵はその言葉を、心の中で無機質に、まるで呪文のようにそう呟いた。
✤✤✤
――――新宿歌舞伎町。
華々しいネオンに、はしゃぐような黄色い叫び声。喧嘩にやじを飛ばす声が、右耳から左耳に駆け抜けていく。
酔っ払った男女の笑い声と、車のクラクションが同時にうるさく響き渡る。そんな騒がしい歓楽街を、人の波を掻き分けて、黒いフードの男が歩いていた。
ここには格安ソープ、ギラギラとした目のナンバーワンのホストや人気キャバ嬢看板が立ち並んで、行き交う人々を挑発する。この歌舞伎町は、食も、性も、金も、夢もありとあらゆる欲望が、ひっくり返ったおもちゃ箱のように詰まっていた。
だが、葵はそんな華やかな繁華街にある、すべてのものに全く興味がない様子で、黙々と歩いていた。フードの奥の瞳は、標的に狙いを定めた肉食獣のようにギラギラとしていて、前方を見ていた。
そして、葵は人通りの少ない歌舞伎町の深海部である路地に入っていく。そこは薄暗い緑の電灯だけが頼りで、アンモニアの匂いがし、古い自販機が立ち並んでいる。葵が、足音を消すように静かに歩いていると、前方で男の怒鳴り声が聞こえた。
「おい、ゴラァァ! 逃げんな糞がァ!」
そう心の中で呟くと、葵は妹の笑顔を封印するように、瞼を閉じ、目の前の少女に微笑みかけた。
「ありがとうございます。少しでもお客様が当店のコーヒーをお好きになって頂けたのなら、光栄です」
「は、はいっ。大好きです! これからもこのお店に通います!」
「ぜひ、お待ちしております」
懐かしい記憶が蘇ってきたのは、目の前にいる客が、葵の妹と同じ年代だったからだろう。葵に微笑みかけられた少女は、あからさまに頬を染めて、元気に答えた。
ちょうど彼女たちは、年上の異性に興味を抱くような年頃で、彼女の連れである友人も、葵を見ては、まるでアイドルを見るかのようにはしゃいでいる。そんな賑やかなテラスの様子を、カウンター越しに店長と、女性従業員が笑いながら見ていた。
「高階くん、しっかりしてますよね。誰よりも、新しいことを覚えるの早いし。丁寧だから、お客さんの評判も良いんですよ」
「そうだねぇ。高階くんは真面目だし、僕も凄く助かってるんだ。彼、ご両親を早くに亡くしているらしくてね。って、勝手に高階くんのプライベートのことを話してしまったな」
「え、ご両親まで? 高階くんってなんとなく壁があるっていうか、ときどき近寄りがたい瞬間がありますよね。人を避けてるっていうか。ご両親と妹さんを亡くして、苦労されたんですね」
若い時の苦労は買ってでもしろ、というが葵の過去を思えば、あまりにも運命は残酷だと感じる。他人には想像できないほどの痛みを背負い、計り知れない苦労があっただろうと思う。彼の妹が、亡くなった日のことを思い出した彼らは押し黙り、なんとなく気まずくなって、それぞれの持ち場に帰った。
ようやく、仕事に出てこれるようになった葵の憔悴しきった様子は、今思い出しても、痛々しく感じる。やつれ、カウンターに立っているのも、やっとというほどで、見かねた店長は、彼に好きなだけゆっくりと休むように促した。
一度は葵から退職届を預かったものの、いつでも戻ってきてくれ、形だけでも在籍を残しておくと彼に告げた。誰もが葵が立ち直り、再びこの店で務めてくれることを願っていたから。
彼の夢も、葵の妹が何度かこの店に訪れていたことを知っていた身としては、この店を、一人残された葵の、最後の帰ってくる場所にしてやりたかったのが本音だろう。
長期間休養し、復帰した葵に悲壮感はなかった。
話を聞けば、ここに戻る前に生活費を稼ぐために時給の高い日雇いや、職場を転々としていたようで、むしろなにか吹っ切れたかのような、清々しさえ感じられた。今の葵は仕事の意欲に満ちているようだったが、さらに他人を避けるようになっていた。
バリスタという仕事に打ち込むことで、家族を亡くしたことを、瞬間的にも忘れられるというのならば、そのように彼に接するしかない。
テラスから室内に戻った葵は、再び自動ミルのボタンを押す。冷えた視線で、ぐちゃぐちゃにすり潰されていく、無残な豆の様子をじっと見ていた。
――――今夜、実行する。
葵はその言葉を、心の中で無機質に、まるで呪文のようにそう呟いた。
✤✤✤
――――新宿歌舞伎町。
華々しいネオンに、はしゃぐような黄色い叫び声。喧嘩にやじを飛ばす声が、右耳から左耳に駆け抜けていく。
酔っ払った男女の笑い声と、車のクラクションが同時にうるさく響き渡る。そんな騒がしい歓楽街を、人の波を掻き分けて、黒いフードの男が歩いていた。
ここには格安ソープ、ギラギラとした目のナンバーワンのホストや人気キャバ嬢看板が立ち並んで、行き交う人々を挑発する。この歌舞伎町は、食も、性も、金も、夢もありとあらゆる欲望が、ひっくり返ったおもちゃ箱のように詰まっていた。
だが、葵はそんな華やかな繁華街にある、すべてのものに全く興味がない様子で、黙々と歩いていた。フードの奥の瞳は、標的に狙いを定めた肉食獣のようにギラギラとしていて、前方を見ていた。
そして、葵は人通りの少ない歌舞伎町の深海部である路地に入っていく。そこは薄暗い緑の電灯だけが頼りで、アンモニアの匂いがし、古い自販機が立ち並んでいる。葵が、足音を消すように静かに歩いていると、前方で男の怒鳴り声が聞こえた。
「おい、ゴラァァ! 逃げんな糞がァ!」
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