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追憶
Ⅰ
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血のにおいが鼻を衝いた。
緑が生い茂っていた草原はいまや血の海に赤く沈み、
美しいかつての面影はもはや残されていない。
地面がめくりあがって草木は吹き飛び、死体が石ころのように転がっていた。
壮絶な戦いの傷跡だった。
血なまぐさい物言わぬ石ころ共の中心でひとり、
漆黒の外套に身を包んだ銀髪の青年が佇んでいた。
青年は燃えるような紅い瞳で周囲をぐるりと見渡してから空を仰ぐ。
世界に風はなく、どんよりとした黒く分厚い瘴気のような雲が空を覆っていた。
腹立たしいほど空に鎮座し続けるその暗雲を眺めながら青年はため息をつく。
ここ何週間かずっと日の光を見ていなかった。
青年にはそのことが、人間と魔族の争いの行く末を暗示しているように思えてならなかった。
終わらない戦争。
拡がる戦火。
とめどなく流れ出す民の血と、
消えていくその命。
いつ、どこで、何がきっかけで争いが始まったのか青年は知らない。
いや、きっと知っているものなど誰もいはしないのだ。青年はそう思い直した。
青年が魔界で生まれた時には既に人間との戦争は始まっていて、
先代の魔王と勇者が相打って滅んでも戦争が終わることはなかった。
魔王が討たれたならば新たな魔王が、勇者が敗北したときには新たな勇者が現れた。
もはや世界の流れと言って良かった。そして青年も例外なくその濁流に呑まれた。
青年が新たな魔王として魔界に君臨してから千余年、
今でも飽きることなく人間と魔族は争い続けている。
いや、青年は厭いていた。全てに厭いていた。
戦い、魔界に立ち込める血なまぐさい風のかおり、悲鳴、恐怖、憎悪。
何千、何万と繰り返される終わりの見えない戦いによって、
青年の世界からはだんだんと色が抜け落ちていっていた。
滅ぶのもいいかもしれない。灰色に侵食されていく景色を見やりそんなことを思う。
不意に動物のような高い声が聞こえた。
鳥型の魔獣でも鳴いたかとも思ったが空に鳥影はなかった。
誰かの叫び声か、はたまた悲鳴か。
腰に下げた魔剣の柄を右手で掴み、声の方へと歩いていく。
戦火を逃れた一本の木の陰から、
青年の膝にも及ばない大きさの生物が姿を現した。
それは未成熟なためか二つの足で立つこともできず、両手と両ひざを駆使して
ぎこちなく地を這うように近づいてきた。
「これは……人族の赤子か」
青年は虚をつかれたような声を出すが、その後にすぐさま状況を理解した。
意外な珍客ではあったが、ことさら驚く事柄ではなかった。
まれに特異点と呼ばれる、魔力的な空間の歪みで人界と魔界が繋がる穴のようなものができることがある。
これまでにもそれに巻き込まれて意図せず人界と魔界の境界を越えてしまう者が大勢いた。
「ふむ……しかしどうするか」
自分がどのようなところに放り出されたのかまるで理解できていないのだろう
———赤子なのだから当然のことではあるが———
足元で呑気な笑声を上げる頼りない生物を見ながら、若干困ったような顔になる。
「魔王様」
しばし黙考していると声が聞こえた。
戦いを終えた部下が小走りに駆け寄ってくる。
「魔王様、ご無事でなによりでございます」
「ゼンか。お前も無事で何よりだ」
銀髪の青年、魔王は、自分の元へ駆け寄り跪いた黒髪の青年にそう声をかけた。
黒髪の青年は神の祝福を受けたように喜びに身体を震わせる。
「はっ……ありがたきお言葉」
「それで、戦況はどうだ?」
「攻め入ってきた人族の軍勢は全て撃滅しました。
魔族軍の被害はほぼゼロ、我らの勝利と言って良いでしょう。
勇者のおらぬ人族など相手にもなりませぬ」
「そうか。それは何よりだな……」
言葉とは裏腹に青年の声に喜びの色はない。
どこか遠いところを見つめるその紅い瞳はむしろ寂しそうですらある。
気の滅入るほど続く人族との戦争はいま、魔族軍がかなり押していた。
その原因は勇者の不在だ。
先代の魔王と先代の勇者が刺し違えてから、
人族には久しく勇者が現れていないようだった。
魔族の油断を誘うため温存している、とも考えたがそれにしては隠しすぎである。
ここ最近の戦では魔族軍の連戦連勝。
いまや人族の被害は甚大で、魔族軍が総力をあげて人界へ乗り込めば
一気に戦争のかたをつけられるのではないかと思われるほどだった。
そこまでして隠し通す合理的な理由もない。勇者は本当に不在なのだろう。
いっそ全軍で人界へ乗り出し、この下らぬ闘争にケリをつけてしまおうか。
そう考え込んでいると、黒髪の青年が何やら困惑したような顔で
自分を見つめていることに気づいた。
「お前がそのような顔をするとは珍しい、どうしたのだ」
「……その、これは、なんでしょう」
ゼンの視線の先、魔王は「ああ……」と思い出したように足元のそれを見た。
それはじゃれつく子犬のように自分の足元を徘徊して、ときおり
青年の足をよじ登ってはずり落ちるという奇怪な行動を繰り返していた。
「人族の赤子だ。どうやら特異点に巻き込まれたらしい」
「はぁ……それはその、そうなのでしょうが。赤子が、とは。珍しい」
「ふむ、確かにな。私も長く生きているが赤子が特異点に呑まれているのは初めて見た」
「それで、どう処理するおつもりですか」
楽しそうに魔王の足にじゃれつく赤子を見るゼンの目つきが鋭くなって
声のトーンがグンと下がった。
「殺しましょうか」
基本的に人族と魔族は相容れぬ。
互いの世界に踏み入ったのならば問答無用で殺される。
それは世界の常識で、たとえ赤子であろうと例外ではなかった。
どこかに違和感を覚えつつも、皆それに従っていた。
柄に手をかけて今にも赤子を切り捨てようとするゼンを見て、
相変わらず忠義の塊のようなやつだと魔王は思う。
一見、非道の極みに思えるゼンの言動も、彼の持つ優しさゆえのものだった。
たとえ仇敵である人族であろうと、赤子を殺せば多少なりとも心は痛む。
そしてその魂には壮絶な業が刻み込まれ、やがては己へと返ってくることになる。
その痛みを、業を魔王に背負わせまいとしているのだ。
「相変わらずお前は優しいな」
「意味がわかりませぬ。
私はただ、人族を殺し足りないだけです。
先の戦はあまりにつまらぬものだった故」
全く何のことかわからないとでも言うように、
黒髪の青年は目を閉じ、頭を垂れたまま無表情を貫く。
正直、どうするか魔王自身も決めかねていた。
見逃したところで赤子ひとり魔界で生きていく術はない。
今日明日にでも死に絶える。
かといって保護するとなるとそれはそれで争いの火種を持ち込むことになる。
ゼンと、無邪気に笑う赤子とを見て魔王はしばし瞑目して、やがて重い口を開いた。
「……殺す必要はない」
赤子を見つめて魔王が言う。
驚くほど自然に出た言葉だった。
まるで自分の口から出た声だとは思えなかったほどに。
その言葉に、ゼンは困ったような顔で静かに魔王を見上げる。
「しかし、それでは魔王様が……」
「確かに敵は殺さねばならぬ。一時の感情で敵を見逃せば己の命のみならず、
我が同胞までをも危険に晒す。お前の心配はもっともだ。
だがな、ゼンよ。お前はこの赤子が敵に見えるか?
まさかお前はこのような脆弱な存在が屈強な魔族の兵を、
よもやこの魔王の命を脅かすと、そう言うか?
私はこのような赤子にさえ負ける軟弱者だと、お前はそう言いたいか?」
魔王の怒気を含ませた問い。
並みの者ならそれだけで心身ともにすくみあがって
失神していてもおかしくないほどの重圧だった。
巨大な隕石のように重く分厚い威圧の鎧に覆われた魔王の胸中を射抜くように、
ゼンはしばし魔王と視線を交錯させ、そして諦めたようにまた頭を下げた。
「……滅相もございませぬ。魔王様は最強の存在。
この世に魔王様を脅かす敵などいようはずもない」
「その通りだ。こやつは敵ではない。
ならば、わざわざ殺す必要はあるまい。違うか?」
「……おっしゃる通りでございます」
「分かればよい。まあ、お前の忠義や優しい心根は好ましく思っている」
「……お優しいのは魔王様、あなたの方です」
「バカを言うな。周りを見てものを言え。私は魔王だぞ。
つい先ほども死体の山の上で胡坐をかいていたところだ」
そう促されてゼンは首を回して周りに横たわるおびただしい死体の山を見る。
その死体全てが急所を貫かれて一撃のもと命が絶たれている。
おそらく殺された本人も気づかぬほど一瞬のうちに絶命しただろう。
そこには痛みも恐怖もなく、ただ死という現象があるだけだった。
血で血を洗う凄惨な戦場のただなかに合って
なんと安らかで美しい死に方なのだろうと、ゼンは思う。
「それで、この人族はいかがするおつもりですか」
ゼンが赤子を見やりそう問うと、魔王は一言「ふむ」と呟いて人差し指と親指で
形の良い、すらりと流れるような顎の先を掴んだ。
「王城へ連れ帰る」
「それは———」
何かを言いかけるゼンを手で制し、魔王が話を続ける。
「人族を研究する良い機会であろう。メイリンに渡して徹底的に調べさせる。
人族でいうところのモルモットというやつだ。
それが終わればどこへなりと放逐してやれば良い」
「たとえば人界などに……ですか?」
「……さてな。それはその時の気分次第だ。
まあ、ケルベロスのおやつにしてしまうやもしれぬがな」
分かりやすいほど口の端を歪めて悪辣な笑みを浮かべる魔王を見ながら、
ゼンは呆れたように苦笑する。
———そんな気などさらさら無いくせに。
「やはりあなたは優しい御方だ」
ゼンが魔王を見上げて目を細め、かたい口元を綻ばせた。
張り詰めた糸のような、あるいは巌のような厳粛な雰囲気が消えて
柔らかな表情に変わっていた。
「ふん。何のことやらわからぬわ」
魔王は苛立たし気な顔でパチン、と指を鳴らして魔法を発動させる。
至る所に転がる死体の下に魔法陣が出現して炎が立ち上り、
数多の躯を燃やしていった。
人の肉が焼けるなんとも言えぬ不快な臭いのせいか、
魔王がさらに険しい顔でその光景を見つめていた。
全ての躯が灰になったのを見届けた後、振り返って口を開いた。
「それより……いつまでも纏わりつく
この忌々しい赤子をどうにかしてくれ。うっとうしくて仕方がない」
そう言って顔をしかめながらも、魔王は決して赤子を蹴飛ばしたり
足で払うようなことはしなかった。
ただ赤子にされるがまま、物言わぬ案山子のように微動だにせず直立していた。
どれだけ叩いてもぴくりとも動かないことが面白いのか、赤子は「きゃっきゃ」と
嬉しそうに笑いながら何度も魔王の足をぺしぺしと叩いていた。
「連れ帰るとおっしゃったのは魔王様ですよ。ならばご自分でお持ちください」
「……お前、随分と生意気な口をきくようになったものだな」
魔王が足元で跪く黒髪の青年を射抜くようにぎろりと睨む。
一般的な人族の兵士程度ならそれだけでショック死してもおかしくないほどの眼力も、青年はどこ吹く風で無視を決め込んでいた。
暖簾に腕押しとはこのことか。
そう言わんばかりの手ごたえのなさに魔王もやれやれと首を振る。
「まあ、良い。お前の言うことも一理ある」
膝をつき、足元で戯れる赤子の両脇からそっと手を差し込んで持ち上げ、
両腕で包み込むように抱いた。
「あー!きゃっきゃっきゃ!」
遊んでくれているとでも勘違いしたのか、
魔王の腕の中で赤子が満面の笑顔をつくって手足をばたつかせた。
今にも落っことしてしまいそうなほど元気よく全身で喜びを表現する赤子に
魔王もたじたじになった。
その光景を見てくすくすと笑いを漏らすゼン。
ぎろり。
先ほどよりも数段上の威圧と魔力を込めた魔眼でゼンをひと睨みして黙らせてから、
漆黒の外套を翻して魔王は厳かに空間跳躍の魔法を唱える。
「では、帰還する。サルート!」
「きゃっきゃっきゃっ!!」
「……」
まったく締まらない現状に呆れたように閉口し、魔王はまた空を仰いだ。
幾何学模様の魔法陣が地面に浮かび上がって光を発して、
魔王とゼン、そして赤子が光の中に消えていった。
血に染まり、灰の積もる草原に一陣の風が吹き、
積もった灰をどこか遠く、空の向こうに運んでいく。
そのゆるやかな風に分厚い暗雲も少しだけ流されて、太陽がわずかばかり顔を出した。
薄暗い雲の下、飛んでいく灰が太陽の光を受けて星のように輝いていた。
緑が生い茂っていた草原はいまや血の海に赤く沈み、
美しいかつての面影はもはや残されていない。
地面がめくりあがって草木は吹き飛び、死体が石ころのように転がっていた。
壮絶な戦いの傷跡だった。
血なまぐさい物言わぬ石ころ共の中心でひとり、
漆黒の外套に身を包んだ銀髪の青年が佇んでいた。
青年は燃えるような紅い瞳で周囲をぐるりと見渡してから空を仰ぐ。
世界に風はなく、どんよりとした黒く分厚い瘴気のような雲が空を覆っていた。
腹立たしいほど空に鎮座し続けるその暗雲を眺めながら青年はため息をつく。
ここ何週間かずっと日の光を見ていなかった。
青年にはそのことが、人間と魔族の争いの行く末を暗示しているように思えてならなかった。
終わらない戦争。
拡がる戦火。
とめどなく流れ出す民の血と、
消えていくその命。
いつ、どこで、何がきっかけで争いが始まったのか青年は知らない。
いや、きっと知っているものなど誰もいはしないのだ。青年はそう思い直した。
青年が魔界で生まれた時には既に人間との戦争は始まっていて、
先代の魔王と勇者が相打って滅んでも戦争が終わることはなかった。
魔王が討たれたならば新たな魔王が、勇者が敗北したときには新たな勇者が現れた。
もはや世界の流れと言って良かった。そして青年も例外なくその濁流に呑まれた。
青年が新たな魔王として魔界に君臨してから千余年、
今でも飽きることなく人間と魔族は争い続けている。
いや、青年は厭いていた。全てに厭いていた。
戦い、魔界に立ち込める血なまぐさい風のかおり、悲鳴、恐怖、憎悪。
何千、何万と繰り返される終わりの見えない戦いによって、
青年の世界からはだんだんと色が抜け落ちていっていた。
滅ぶのもいいかもしれない。灰色に侵食されていく景色を見やりそんなことを思う。
不意に動物のような高い声が聞こえた。
鳥型の魔獣でも鳴いたかとも思ったが空に鳥影はなかった。
誰かの叫び声か、はたまた悲鳴か。
腰に下げた魔剣の柄を右手で掴み、声の方へと歩いていく。
戦火を逃れた一本の木の陰から、
青年の膝にも及ばない大きさの生物が姿を現した。
それは未成熟なためか二つの足で立つこともできず、両手と両ひざを駆使して
ぎこちなく地を這うように近づいてきた。
「これは……人族の赤子か」
青年は虚をつかれたような声を出すが、その後にすぐさま状況を理解した。
意外な珍客ではあったが、ことさら驚く事柄ではなかった。
まれに特異点と呼ばれる、魔力的な空間の歪みで人界と魔界が繋がる穴のようなものができることがある。
これまでにもそれに巻き込まれて意図せず人界と魔界の境界を越えてしまう者が大勢いた。
「ふむ……しかしどうするか」
自分がどのようなところに放り出されたのかまるで理解できていないのだろう
———赤子なのだから当然のことではあるが———
足元で呑気な笑声を上げる頼りない生物を見ながら、若干困ったような顔になる。
「魔王様」
しばし黙考していると声が聞こえた。
戦いを終えた部下が小走りに駆け寄ってくる。
「魔王様、ご無事でなによりでございます」
「ゼンか。お前も無事で何よりだ」
銀髪の青年、魔王は、自分の元へ駆け寄り跪いた黒髪の青年にそう声をかけた。
黒髪の青年は神の祝福を受けたように喜びに身体を震わせる。
「はっ……ありがたきお言葉」
「それで、戦況はどうだ?」
「攻め入ってきた人族の軍勢は全て撃滅しました。
魔族軍の被害はほぼゼロ、我らの勝利と言って良いでしょう。
勇者のおらぬ人族など相手にもなりませぬ」
「そうか。それは何よりだな……」
言葉とは裏腹に青年の声に喜びの色はない。
どこか遠いところを見つめるその紅い瞳はむしろ寂しそうですらある。
気の滅入るほど続く人族との戦争はいま、魔族軍がかなり押していた。
その原因は勇者の不在だ。
先代の魔王と先代の勇者が刺し違えてから、
人族には久しく勇者が現れていないようだった。
魔族の油断を誘うため温存している、とも考えたがそれにしては隠しすぎである。
ここ最近の戦では魔族軍の連戦連勝。
いまや人族の被害は甚大で、魔族軍が総力をあげて人界へ乗り込めば
一気に戦争のかたをつけられるのではないかと思われるほどだった。
そこまでして隠し通す合理的な理由もない。勇者は本当に不在なのだろう。
いっそ全軍で人界へ乗り出し、この下らぬ闘争にケリをつけてしまおうか。
そう考え込んでいると、黒髪の青年が何やら困惑したような顔で
自分を見つめていることに気づいた。
「お前がそのような顔をするとは珍しい、どうしたのだ」
「……その、これは、なんでしょう」
ゼンの視線の先、魔王は「ああ……」と思い出したように足元のそれを見た。
それはじゃれつく子犬のように自分の足元を徘徊して、ときおり
青年の足をよじ登ってはずり落ちるという奇怪な行動を繰り返していた。
「人族の赤子だ。どうやら特異点に巻き込まれたらしい」
「はぁ……それはその、そうなのでしょうが。赤子が、とは。珍しい」
「ふむ、確かにな。私も長く生きているが赤子が特異点に呑まれているのは初めて見た」
「それで、どう処理するおつもりですか」
楽しそうに魔王の足にじゃれつく赤子を見るゼンの目つきが鋭くなって
声のトーンがグンと下がった。
「殺しましょうか」
基本的に人族と魔族は相容れぬ。
互いの世界に踏み入ったのならば問答無用で殺される。
それは世界の常識で、たとえ赤子であろうと例外ではなかった。
どこかに違和感を覚えつつも、皆それに従っていた。
柄に手をかけて今にも赤子を切り捨てようとするゼンを見て、
相変わらず忠義の塊のようなやつだと魔王は思う。
一見、非道の極みに思えるゼンの言動も、彼の持つ優しさゆえのものだった。
たとえ仇敵である人族であろうと、赤子を殺せば多少なりとも心は痛む。
そしてその魂には壮絶な業が刻み込まれ、やがては己へと返ってくることになる。
その痛みを、業を魔王に背負わせまいとしているのだ。
「相変わらずお前は優しいな」
「意味がわかりませぬ。
私はただ、人族を殺し足りないだけです。
先の戦はあまりにつまらぬものだった故」
全く何のことかわからないとでも言うように、
黒髪の青年は目を閉じ、頭を垂れたまま無表情を貫く。
正直、どうするか魔王自身も決めかねていた。
見逃したところで赤子ひとり魔界で生きていく術はない。
今日明日にでも死に絶える。
かといって保護するとなるとそれはそれで争いの火種を持ち込むことになる。
ゼンと、無邪気に笑う赤子とを見て魔王はしばし瞑目して、やがて重い口を開いた。
「……殺す必要はない」
赤子を見つめて魔王が言う。
驚くほど自然に出た言葉だった。
まるで自分の口から出た声だとは思えなかったほどに。
その言葉に、ゼンは困ったような顔で静かに魔王を見上げる。
「しかし、それでは魔王様が……」
「確かに敵は殺さねばならぬ。一時の感情で敵を見逃せば己の命のみならず、
我が同胞までをも危険に晒す。お前の心配はもっともだ。
だがな、ゼンよ。お前はこの赤子が敵に見えるか?
まさかお前はこのような脆弱な存在が屈強な魔族の兵を、
よもやこの魔王の命を脅かすと、そう言うか?
私はこのような赤子にさえ負ける軟弱者だと、お前はそう言いたいか?」
魔王の怒気を含ませた問い。
並みの者ならそれだけで心身ともにすくみあがって
失神していてもおかしくないほどの重圧だった。
巨大な隕石のように重く分厚い威圧の鎧に覆われた魔王の胸中を射抜くように、
ゼンはしばし魔王と視線を交錯させ、そして諦めたようにまた頭を下げた。
「……滅相もございませぬ。魔王様は最強の存在。
この世に魔王様を脅かす敵などいようはずもない」
「その通りだ。こやつは敵ではない。
ならば、わざわざ殺す必要はあるまい。違うか?」
「……おっしゃる通りでございます」
「分かればよい。まあ、お前の忠義や優しい心根は好ましく思っている」
「……お優しいのは魔王様、あなたの方です」
「バカを言うな。周りを見てものを言え。私は魔王だぞ。
つい先ほども死体の山の上で胡坐をかいていたところだ」
そう促されてゼンは首を回して周りに横たわるおびただしい死体の山を見る。
その死体全てが急所を貫かれて一撃のもと命が絶たれている。
おそらく殺された本人も気づかぬほど一瞬のうちに絶命しただろう。
そこには痛みも恐怖もなく、ただ死という現象があるだけだった。
血で血を洗う凄惨な戦場のただなかに合って
なんと安らかで美しい死に方なのだろうと、ゼンは思う。
「それで、この人族はいかがするおつもりですか」
ゼンが赤子を見やりそう問うと、魔王は一言「ふむ」と呟いて人差し指と親指で
形の良い、すらりと流れるような顎の先を掴んだ。
「王城へ連れ帰る」
「それは———」
何かを言いかけるゼンを手で制し、魔王が話を続ける。
「人族を研究する良い機会であろう。メイリンに渡して徹底的に調べさせる。
人族でいうところのモルモットというやつだ。
それが終わればどこへなりと放逐してやれば良い」
「たとえば人界などに……ですか?」
「……さてな。それはその時の気分次第だ。
まあ、ケルベロスのおやつにしてしまうやもしれぬがな」
分かりやすいほど口の端を歪めて悪辣な笑みを浮かべる魔王を見ながら、
ゼンは呆れたように苦笑する。
———そんな気などさらさら無いくせに。
「やはりあなたは優しい御方だ」
ゼンが魔王を見上げて目を細め、かたい口元を綻ばせた。
張り詰めた糸のような、あるいは巌のような厳粛な雰囲気が消えて
柔らかな表情に変わっていた。
「ふん。何のことやらわからぬわ」
魔王は苛立たし気な顔でパチン、と指を鳴らして魔法を発動させる。
至る所に転がる死体の下に魔法陣が出現して炎が立ち上り、
数多の躯を燃やしていった。
人の肉が焼けるなんとも言えぬ不快な臭いのせいか、
魔王がさらに険しい顔でその光景を見つめていた。
全ての躯が灰になったのを見届けた後、振り返って口を開いた。
「それより……いつまでも纏わりつく
この忌々しい赤子をどうにかしてくれ。うっとうしくて仕方がない」
そう言って顔をしかめながらも、魔王は決して赤子を蹴飛ばしたり
足で払うようなことはしなかった。
ただ赤子にされるがまま、物言わぬ案山子のように微動だにせず直立していた。
どれだけ叩いてもぴくりとも動かないことが面白いのか、赤子は「きゃっきゃ」と
嬉しそうに笑いながら何度も魔王の足をぺしぺしと叩いていた。
「連れ帰るとおっしゃったのは魔王様ですよ。ならばご自分でお持ちください」
「……お前、随分と生意気な口をきくようになったものだな」
魔王が足元で跪く黒髪の青年を射抜くようにぎろりと睨む。
一般的な人族の兵士程度ならそれだけでショック死してもおかしくないほどの眼力も、青年はどこ吹く風で無視を決め込んでいた。
暖簾に腕押しとはこのことか。
そう言わんばかりの手ごたえのなさに魔王もやれやれと首を振る。
「まあ、良い。お前の言うことも一理ある」
膝をつき、足元で戯れる赤子の両脇からそっと手を差し込んで持ち上げ、
両腕で包み込むように抱いた。
「あー!きゃっきゃっきゃ!」
遊んでくれているとでも勘違いしたのか、
魔王の腕の中で赤子が満面の笑顔をつくって手足をばたつかせた。
今にも落っことしてしまいそうなほど元気よく全身で喜びを表現する赤子に
魔王もたじたじになった。
その光景を見てくすくすと笑いを漏らすゼン。
ぎろり。
先ほどよりも数段上の威圧と魔力を込めた魔眼でゼンをひと睨みして黙らせてから、
漆黒の外套を翻して魔王は厳かに空間跳躍の魔法を唱える。
「では、帰還する。サルート!」
「きゃっきゃっきゃっ!!」
「……」
まったく締まらない現状に呆れたように閉口し、魔王はまた空を仰いだ。
幾何学模様の魔法陣が地面に浮かび上がって光を発して、
魔王とゼン、そして赤子が光の中に消えていった。
血に染まり、灰の積もる草原に一陣の風が吹き、
積もった灰をどこか遠く、空の向こうに運んでいく。
そのゆるやかな風に分厚い暗雲も少しだけ流されて、太陽がわずかばかり顔を出した。
薄暗い雲の下、飛んでいく灰が太陽の光を受けて星のように輝いていた。
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