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『ここ』は山の上にある研究所だ。
小振りな大学程度の敷地を高い柵がぐるりと囲んでいる。出入り口は三カ所。武装した屈強な守衛が常に見張りを効かせている。柵の近くで犬をリードにつないで見張りにしているところもある。侵入者を防ぐためでもあるし、脱走者への見張りでもある。
『ここ』は一度入ったら原則出られない。生きることには困らないし、給金は相当だ。しかし、その給金を自分で使うことはない。死ぬまで働くだけだ。
『ここ』にいるのは才能があること大前提として、カネに困った者、訳あって隠れて生きたい者、大事な人がいない者、死んでも悲しまれない者ばかりだ。
だが、僕は一度だけ出張業務があった。逃げずに戻ってきたら『インスプリクター』へ推薦された。
その日から丸一年経って、出張の理由と再開をした。
「おにいちゃん!」
トラックの荷台が開くと同時、メープルシロップをふんだんにかけた甘ったるい舌足らずの声があがった。
「おにいちゃん、あいたかったー!」
子猫みたいにブランケットに包まって丸まっていた小さな塊が飛び上がる。
粉砂糖みたいな色の細い猫っ毛がくるくると肩口で丸まって跳ねている。みたらし団子みたいな、もしくは月みたいな、まん丸な金色の瞳が僕のことを捕らえた。ぶかぶかのよれたTシャツの裾から、短いパンツが覗いた。真っ白な足にポコンと膝小僧が浮かぶくらいに痩せ細っている。十歳くらいの、サマーカット後の長毛種の猫みたいな女の子だ。
「おわぁ」
全貌を見せると同時、上手に立てず、ぐらりと前のめりになった。
「うわっ。大丈夫?」
抱きかかえて受け止める。こうでもしなければ顔から落ちていただろう。触れたところは焼きたてのホットケーキみたいにポカポカ暖かい。
「えへへー! シキちゃん、へいき! ありがと!」
座らせようかと思ったが、がっしりと細腕を回されて離れない。
「お知り合いなんですか?」
普段は話しかけても必用以上は返事をしないように務めている運送のおじさんも、さすがに今日ばかりは何事かと戸惑いながら目をしばたかせていた。
「なんか懐かれちゃったみたいで。いや、すみません。なんていうか、いつもお世話になっています」
「こちらこそ……」
おじさんはためらいがちに頭を下げた。何か聞きたそうにしながらも口をつぐみ、奥から興味深そうに眺めていたもう一人と荷物を運び始める。彼らがどういった契約なのかはわからないけれど、週に一度の給料が良くて不気味な仕事なんだろう。
「おひさしぶり、シキちゃん。動きにくいからちょっと離れてくれるかな?」
「や!」
笑い声もおまけについてくる、とっても楽しそうな『嫌』だった。見た目は十歳だけれど、言葉の内容や動作はそれよりも幾分か幼く感じる。
「じゃあおんぶする?」
「する!」
彼女はパッと離れた。背中を向けると、ぴょんと飛び乗って満足そうに足を揺らした。ミルクみたいな匂いと、洋服や髪に染みついた埃っぽさが同時に鼻孔へ流れ込んできた。
子供の声を聞くのは久しぶりだ。それだけで気持ちが朗らかになってきた。ここには腐った大人しかいない、その上、ほぼ男。
「シキちゃんの荷物はどれかな?」
肩越しに細い手が伸びる。怪我は見当たらない。爪の周りはボロボロだ。
「あれ!」
指さしたのは痛みきったダサいボストンバック一つだ。誰かの適当な中古品を適当にもらったものだろう。
荷物、これだけかあ。
僕はボストンバックを持って、もう一度だけ運送業者の人に挨拶をして、あまり揺らさないように歩き始めた。
開け放った窓から、修さんがひょっこりと顔を出した。耳にペンを挟んでいるあたり書き物をしていたのだろう。いや、マグカップを持っていたから休憩中だったのかも。
「よう! その子が天才ちゃん?」
軽く手を上げる修さんの目は、好奇心で久しぶりに光が差していた。物珍しい新風に心が躍ったのだろう。部屋の奥から、星合君が警戒心の強いリスみたいにこちらを伺っていた。こうやってよく一緒にいることも修さんの言う『矯正』の一環だ。
「ご紹介しますね」
と僕が言うや否や、
「はじめまして! シキちゃんだよ!」
シキちゃんは肩から顔を突き出して手を振った。元気いっぱいに背中が揺れてズレ落ちてきたから、小さく揺さぶるようにしてよいしょと背負い直す。
「シキちゃん。この人は修さん。ここの偉い人なんだ」
「そうなの? おじさんじゃないよ?」
修さんは声変わりしても柔らかに高い声で朗らかに笑った。
僕は苦笑しながら少し首を捻ってシキちゃんの方を向く。目を合わせようにも、マシュマロみたいなぷにぷにのほっぺたがくっつくだけだ。
「そう見えなくても、おじさんなんだ。奥の人は星合さん」
「あの人はおじさんだね!」
「おにいさんだよっ!」
よろしくないとは知っているのに、釘を刺すように強めに言ってしまった。
とてもとても正面からは見る気になれず、横目で星合君を盗み見る。あからさまにショックを受けて顔色をなくしていた。子供の何気ない一言ほど辛いものはない。事実、彼はここに来て老けた。実年齢以上に見える。心労のせいか白髪も出てきちゃったし。
修さんがそっと笑った後に、シキちゃんへ絵本を読むように優しく語り聞かせる。
「シキちゃん。ここには二種類の人間がいるんだよ。たくさんの『おにいさん』と二人だけ『おねえさん』。わかった?」
「わかったー! 偉い人のいうこときく!」
「そっかあ。シキちゃんは頭が良いから助かるなぁ」
そう。彼女は頭が良い。頭が良い人というのは、根っこから奇抜なところがあるほど、通常で言われる頭の良い人と比べて、ピーキーに頭が良い。必用とされている場所で最高の成果を出すことができれば、ピーキーになった分の欠け程度は笑って済ませる問題だ。
小振りな大学程度の敷地を高い柵がぐるりと囲んでいる。出入り口は三カ所。武装した屈強な守衛が常に見張りを効かせている。柵の近くで犬をリードにつないで見張りにしているところもある。侵入者を防ぐためでもあるし、脱走者への見張りでもある。
『ここ』は一度入ったら原則出られない。生きることには困らないし、給金は相当だ。しかし、その給金を自分で使うことはない。死ぬまで働くだけだ。
『ここ』にいるのは才能があること大前提として、カネに困った者、訳あって隠れて生きたい者、大事な人がいない者、死んでも悲しまれない者ばかりだ。
だが、僕は一度だけ出張業務があった。逃げずに戻ってきたら『インスプリクター』へ推薦された。
その日から丸一年経って、出張の理由と再開をした。
「おにいちゃん!」
トラックの荷台が開くと同時、メープルシロップをふんだんにかけた甘ったるい舌足らずの声があがった。
「おにいちゃん、あいたかったー!」
子猫みたいにブランケットに包まって丸まっていた小さな塊が飛び上がる。
粉砂糖みたいな色の細い猫っ毛がくるくると肩口で丸まって跳ねている。みたらし団子みたいな、もしくは月みたいな、まん丸な金色の瞳が僕のことを捕らえた。ぶかぶかのよれたTシャツの裾から、短いパンツが覗いた。真っ白な足にポコンと膝小僧が浮かぶくらいに痩せ細っている。十歳くらいの、サマーカット後の長毛種の猫みたいな女の子だ。
「おわぁ」
全貌を見せると同時、上手に立てず、ぐらりと前のめりになった。
「うわっ。大丈夫?」
抱きかかえて受け止める。こうでもしなければ顔から落ちていただろう。触れたところは焼きたてのホットケーキみたいにポカポカ暖かい。
「えへへー! シキちゃん、へいき! ありがと!」
座らせようかと思ったが、がっしりと細腕を回されて離れない。
「お知り合いなんですか?」
普段は話しかけても必用以上は返事をしないように務めている運送のおじさんも、さすがに今日ばかりは何事かと戸惑いながら目をしばたかせていた。
「なんか懐かれちゃったみたいで。いや、すみません。なんていうか、いつもお世話になっています」
「こちらこそ……」
おじさんはためらいがちに頭を下げた。何か聞きたそうにしながらも口をつぐみ、奥から興味深そうに眺めていたもう一人と荷物を運び始める。彼らがどういった契約なのかはわからないけれど、週に一度の給料が良くて不気味な仕事なんだろう。
「おひさしぶり、シキちゃん。動きにくいからちょっと離れてくれるかな?」
「や!」
笑い声もおまけについてくる、とっても楽しそうな『嫌』だった。見た目は十歳だけれど、言葉の内容や動作はそれよりも幾分か幼く感じる。
「じゃあおんぶする?」
「する!」
彼女はパッと離れた。背中を向けると、ぴょんと飛び乗って満足そうに足を揺らした。ミルクみたいな匂いと、洋服や髪に染みついた埃っぽさが同時に鼻孔へ流れ込んできた。
子供の声を聞くのは久しぶりだ。それだけで気持ちが朗らかになってきた。ここには腐った大人しかいない、その上、ほぼ男。
「シキちゃんの荷物はどれかな?」
肩越しに細い手が伸びる。怪我は見当たらない。爪の周りはボロボロだ。
「あれ!」
指さしたのは痛みきったダサいボストンバック一つだ。誰かの適当な中古品を適当にもらったものだろう。
荷物、これだけかあ。
僕はボストンバックを持って、もう一度だけ運送業者の人に挨拶をして、あまり揺らさないように歩き始めた。
開け放った窓から、修さんがひょっこりと顔を出した。耳にペンを挟んでいるあたり書き物をしていたのだろう。いや、マグカップを持っていたから休憩中だったのかも。
「よう! その子が天才ちゃん?」
軽く手を上げる修さんの目は、好奇心で久しぶりに光が差していた。物珍しい新風に心が躍ったのだろう。部屋の奥から、星合君が警戒心の強いリスみたいにこちらを伺っていた。こうやってよく一緒にいることも修さんの言う『矯正』の一環だ。
「ご紹介しますね」
と僕が言うや否や、
「はじめまして! シキちゃんだよ!」
シキちゃんは肩から顔を突き出して手を振った。元気いっぱいに背中が揺れてズレ落ちてきたから、小さく揺さぶるようにしてよいしょと背負い直す。
「シキちゃん。この人は修さん。ここの偉い人なんだ」
「そうなの? おじさんじゃないよ?」
修さんは声変わりしても柔らかに高い声で朗らかに笑った。
僕は苦笑しながら少し首を捻ってシキちゃんの方を向く。目を合わせようにも、マシュマロみたいなぷにぷにのほっぺたがくっつくだけだ。
「そう見えなくても、おじさんなんだ。奥の人は星合さん」
「あの人はおじさんだね!」
「おにいさんだよっ!」
よろしくないとは知っているのに、釘を刺すように強めに言ってしまった。
とてもとても正面からは見る気になれず、横目で星合君を盗み見る。あからさまにショックを受けて顔色をなくしていた。子供の何気ない一言ほど辛いものはない。事実、彼はここに来て老けた。実年齢以上に見える。心労のせいか白髪も出てきちゃったし。
修さんがそっと笑った後に、シキちゃんへ絵本を読むように優しく語り聞かせる。
「シキちゃん。ここには二種類の人間がいるんだよ。たくさんの『おにいさん』と二人だけ『おねえさん』。わかった?」
「わかったー! 偉い人のいうこときく!」
「そっかあ。シキちゃんは頭が良いから助かるなぁ」
そう。彼女は頭が良い。頭が良い人というのは、根っこから奇抜なところがあるほど、通常で言われる頭の良い人と比べて、ピーキーに頭が良い。必用とされている場所で最高の成果を出すことができれば、ピーキーになった分の欠け程度は笑って済ませる問題だ。
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