アヤメちゃん

胡花宝 愛芽

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第一章「わが家にアヤメちゃんがやってきた!」

第十五話「通り道に障害物は無いですか?」

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「アァアア~ッ♪」

 居間の外から、数仁の声が聞こえてきた。

「うんっ、ア~ッ、うんっ、ううんっ、アァ~アアァ~♪」

 皆より遅く起床した数仁が寝室から出て、廊下で発声練習をしているようだ。
 寝起きでのどからみがあるのか、合間に咳払せきばらいをはさんで調子を整えながら、伸び伸びと声を出している。

 好奇心が強い性格の数仁は子供の時から、あらゆる習い事をしてきた。
 興味本意で始めて、三日坊主どころか一日できてしまうものもあれば、何年か習い続けて現在も趣味としてたしなんでいるものもある。
 声楽も、その一つだ。
 学生時代の留学中に、オペラなどの西洋音楽に触れた数仁は声楽にまった。特にプロのオペラ歌手などを目指していたわけでも無いのだが、実家からの高額な仕送りから月謝を支払って、声楽を習っていた。
 たまにパーティーなど人が集まる場所で、その自慢じまんの歌を披露ひろうすることもある。
 今日みたいな休日や、早起きして出勤前に余裕のある朝などは時々、こうして数仁の発声や歌声が屋敷内にひびわたるのだ。

「ンマ~、ンマ~、ンマ~♪」
 
 櫻子達のいる居間と夫婦の寝室は同じ一階だが、ほぼ対極の位置にあるため、距離きょりがある。しかし数仁の声はよく通り、扉の閉められた居間にまで悠々ゆうゆうと届く。

「マママママ~~ッ♪」
 
 数仁の自信満々な歌声が音階を変えながら、廊下を通って居間まで近づいて来ている。
 
 櫻子は今、アヤメの背中に寄りって涙を流している。
 アヤメも絨毯に正座し、目蓋を閉じて項垂うなだれた状態だ。
 濱子は、ソファから立ち上がった。

「櫻子、涙をきましょうね」

 濱子は着物のたもとから、レースのハンカチーフを取り出すと、櫻子の涙をぬぐった。

 その時、「ガチャッ」と居間の両扉が開いた。

「やあ~♪濱子ぉ~、櫻子ぉ~♪今日はぁ~、良~い天気じゃな~いかぁ~♪」

 まるで舞台にでも上がるかのように、数仁が言葉にメロディーをつけて、颯爽さっそうと居間へ入って来た。

「ええ、そうですわね。あなた」

 濱子が、数仁に微笑みかける。

「おぉ~♪櫻子ぉ~、元気がないぞぉ~♪目も~、赤~いじゃないかぁ~♪どうしたんだぁぁぁ~~い♪」

 数仁が大仰おおぎょうな手振りを加え、「クルッ」とターンしながら櫻子に近づいて来た。
 数仁は留学中、社交ダンスも習っていたのだ。

「お父様…」
「櫻子の目にごみが入ってしまって。今、見てあげていたところなんですの」
「おや、目に塵だって?」
 
 数仁が「ピタッ」と手振りを止めて、普通の口調に戻った。

「どれ、櫻子。見せてごらん」
「あなた、もう塵は取れましたから。問題ありませんわ」
「ふむ、そうなのかい?」
「ええ。さぁ、櫻子。目を洗ってらっしゃい」

 濱子が櫻子に頷いて、目配めくばせをする。

「…はい、お母様」

 櫻子が立ち上がる。

「ほら、アヤメちゃんも。蕗さんが、数仁さんの朝御飯を仕度してるでしょうから、手伝ってあげてちょうだい」
「…ハイ、承知シマシタ」

 アヤメも顔を上げて、立ち上がる。

「櫻、子姉様。目ニ塵ガ入ッテ、御不快ゴフカイナ事ニ気付カズ、申シ訳…」
「あっ、アヤメちゃん。いいの、いいの。早く行きましょう」

 アヤメが言い終わらないうちに、櫻子がかさず答えて、アヤメの手を引っ張った。

「ハイ。櫻、子姉様」

 アヤメが頷く。
 櫻子とアヤメは、居間を出て行った。


  *   *   *


 数仁が遅い朝食を食べ終え、その食器を蕗と一緒に片付けた後、アヤメは庭園に出た。
 櫻子は今、二階の自室で冬休みの宿題中だ。
 居間ではレコードを掛け、クラシック音楽を流している。今日は濱子の体調が良いので数仁と寄り添い、ゆったりと夫婦でダンスを楽しんでいた。庭園の方にも、うっすら曲が聴こえてくる。

 アヤメは、敷石の上を歩いて行く。
 曲がりくねった敷石の道を辿たどって行くと、鉉造の姿が見えてきた。鉉造は地べたに座り、敷石をいじっているようだ。

「鉉サン。何ヲ、サレテイルノデスカ?」

 アヤメが、鉉造に近寄って話しかけた。

「おう、アヤメか」

 鉉造が顔を上げる。  
 鉉造のかたわらには、大きなスコップやくわが置かれ、石が積まれた手押し車も停められている。

ヨロシケレバ、アヤメニモ、ナニカ御手伝イ、サセテ下サイマセ」

 アヤメは何度か、植木の手入れをしている鉉造に手伝いの申し出をしていたが、「これは、わしの仕事だ」と断られていた。
 
「よし、アヤメ。ここを歩いてみろ」

 胡座あぐらをかいた鉉造が泥塗どろまみれの手を上げ、右から左へ「スーッ」と敷石の道に沿って指差した。

此方コチラヲ、歩行ホコウスルノデスカ?」
「そうだ」

 鉉造が両手を組んで、「ギッ」と並んだ敷石を見据みすえる。

「承知シマシタ。デハ、歩行致シマス」

 アヤメは草履を履いた両足で、「ズリッズリッズリッ」と敷石の上を歩いて行く。 
 
 ズリッズリッズリッズリッズリッズリッズリッズリッズリッ…

 ひたすら、歩く。

「…んん?」

 ズリッズリッズリッズリッズリッズリッズリッズリッズリッ…

 アヤメの後ろ姿が、どんどんどんどん遠くなる。

「こらあっ!戻ってこ~いっ!」
  
 鉉造が、アヤメの背中に向かって怒鳴どなった。
 アヤメは「くるり」と方向転換して、鉉造の居るところまで戻って来た。

キ過ギマシタカ?」
「まあ、構わん。おい、アヤメ」
「ハイ」
「今日は屋敷を出てから、ここに来るまで敷石につまずいたか?」
「イイエ」

 アヤメは首を左右に振る。
 
「そうか。なら、良い」

 アヤメは建物内の階段や敷居などの段差に関しては、躓くことも転ぶことも無く歩けるのだが、屋外の「デコボコ」した不揃いの道は苦手なのだ。

「ハッ!」

 アヤメが声を上げ、両手を前に広げる。

「ああ?」

 鉉造が怪訝けげんな表情で、アヤメを見上げる。 

「アヤメハ、只今タダイマ、気ガ付キマシタ」
「…何だ?」
「アヤメハ、御庭オニワ通過ツウカスルタビ、敷石ノ所々トコロドコロデ、何回モ、転倒テントウシテ仕舞イマシタ。シカナガラ、ノ数日、敷石ヲ通過シタサイ、転倒回数ガ、確実ニ、減少ゲンショウシテ行ッタノデス。此レハ、鉉サンガ敷石ヲ、タイラナ石ニ交換シ、アヤメノ転倒ヲ、防イデ下サッタノデスネ?」 
えず、出っ張りが目立つのだけだがな」

 鉉造は両手の平を「パンパン」とたたいて、付着した土を落とした。
 アヤメは敷石の横の、鉉造が座る芝生側に移動する。

「グスン」

 アヤメが「ガクン」と膝を曲げて、芝生の上に正座した。

「…おい、どうした?」
折角セッカク過分カブン御配慮ゴハイリョヲ、頂キマシタノニ、マコトニ、恐縮キョウシュクナノデスガ、アヤメハ、明日アス、滉月家ヲ、御暇オイトマシ、倪門ガイモン研究所ニ、戻ラナケレバナリマセヌ」

 鉉造は腹巻きにした木製のつつから、煙管きせるを取り出した。
 木筒にぶら下がったかますを開いて、刻み煙草を摘まむと、煙管の雁首がんくびむ。

一介イッカイノ人形ゴトキノ、アヤメノ為ニ、御人様オヒトサマノ鉉サンニ、斯様カヨウナ、重労働ジュウロウドウヲ、オコナワセテ仕舞シマイマシタ。グスン」
 
 アヤメが語っている横で、鉉造は煙管のくちくわえ、マッチを擦って刻み煙草に火を点ける。

マコトニ、申シ訳アリマセヌ。グスン、グスン」

 アヤメは芝生に両手をついて、土下座した。 
 鉉造は煙管をかして、暫し紫煙しえんくゆらせる。 
 
「ふん、何を言っとるんだ」

 鉉造は吐き捨てるように言うと、灰吹はいふき用の竹筒たけづつを腹巻きから出して蓋を開け、雁首を下に向けて灰を落とした。

「この庭をどうするかは、儂が決める。儂の目の黒いうちは誰の好きにもさせん。お前に土下座される筋合いなんぞ、無いわい」

 そう言って鉉造は、木筒に煙管をしまった。

「よいこらせっ」

 鉉造が掛け声と共に、立ち上がる。

「おら、アヤメ。立て」
「…ハイ」
 
 アヤメは返事をしてから、上半身を起こして立ち上がった。




(続)
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