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第一章「わが家にアヤメちゃんがやってきた!」
第二十三話「交換しますか?しませんか?②」
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「えっ?」
数仁達が声を上げ、皆の視線が鉉造に集中する。
鉉造は居間の両扉に向けて、「クイッ」と顎を動かす。
皆が両扉に目を遣ると、片扉だけが僅かに開いている。そして、その扉がゆっくりと開き、櫻子が入って来た。
「まあ、櫻子お嬢様!」
蕗が驚きの声を上げる。
「てっきり、もうお休みでいらっしゃるかと…」
「櫻子。ひょっとして、ずっとそこで話を聞いていたのかい?」
数仁の問いかけに、「コクリ」と櫻子が頷いた。
数歩だけ進んで立ち止まった櫻子に、タツゑが駆け寄る。
「アヤメちゃんは?」
濱子が櫻子に尋ねる。
「見回りをしているわ…」
櫻子は浮かない表情で答える。
「さぁさ、櫻子お嬢様。どうぞ、こちらにいらしてお座り下さい」
ソファから立ち上がって、蕗が手招きする。
「只今、温かい紅茶を淹れますね。あ、それとも牛乳を温めてお砂糖か、蜂蜜を足してきましょうか?」
タツゑが自分よりも背の低い櫻子の目線に合わせるように、少し屈んで優しく尋ねる。
櫻子は「ブンブンブン」と、首を大きく左右に振る。
「ううん、いいの」
「櫻子お嬢様?」
「飲み物はいらないわ…。蕗さんも座ってて」
「蕗さん、座ってちょうだい」
濱子が蕗を、ソファに促す。
「はい…」
蕗は会釈して、ソファに座った。
「タツゑちゃんも、こちらに来てちょうだい」
「はい、奥様」
タツゑが扉を閉めて、ソファ近くの待機していた位置に戻る。
櫻子も静かに歩いて来る。数仁と濱子の座るソファの端まで近づくと、櫻子は足を止めた。
「立ち聞きしてしまって、ごめんなさい」
櫻子が「ペコリ」と、皆に頭を下げる。そして、数仁の方へ身体を向けた。
「お父様」
「ん?何だい、櫻子?」
「アヤメちゃんが、充電出来なかったのは…私のせいなの」
「んん?櫻子のせいだって?」
「ええ…。『私が眠るまで、一緒に居てちょうだい』って…アヤメちゃんに毎晩、お願いしたから…。だからね、アヤメちゃんは悪くないの。本当よ。だから…だからね…お願い、お父様!アヤメちゃんを研究所に返したりしないで!」
櫻子の目から「ポロポロ」と、涙が零れ落ちる。
「このお家で…アヤメちゃんと何日も一緒に過ごして、せっかく仲良くなったのに…。一度、失敗しただけで他のお人形さんと交換なんて、そんなの…悲しすぎるわ」
「おいおい、櫻子…」
櫻子の泣き顔を見て、数仁が動揺する。
今まで櫻子が笑顔や怒り顔を見せることは、日常的にあった。だがこの数年の間、泣き顔を家族や使用人達に見せたことは一度も無かった。それは濱子の病状が悪くなって寝込んでいたり、入院して屋敷に居ない時でさえ、同じだった。
「そりゃあ…ひぃっく。アヤメちゃんはぁ、上手く言えない言葉もあるけどぉ…うっうっ。毎日、お手伝いだってぇ頑張ってるわっ。ひっく、うぅ~。ぞれに私むぉ…アヤメちゃんがぞばに居でぐれるどぉ、なん…何だが安心じで眠れるのぉ。うぅうぅぅ~、ひっく、ひぃっく」
まるで幼い子供に返ったかのように激しく嗚咽を漏らしながら、櫻子が泣き続ける。両手の甲で拭ってはいるが一旦、箍が外れて溢れ出た涙と鼻水は、なかなか止まらない。
その姿を見て、数仁は言葉を無くしている。
濱子は真剣な表情で、櫻子の想いを聞いている。
蕗は堪らず立ち上がった。
「まぁまぁ、櫻子お嬢様。そんなに泣いてしまわれたら、可愛いお顔が台無しですよ」
蕗が着物の袂から手拭いを取り出しながら、櫻子のそばに行って、涙と鼻水を拭いてゆく。
「うぅぅ~っ、ひいぃっぐ…」
それでも、櫻子の涙は止まらない。
「旦那様、奥様」
タツゑが口を開いた。
数仁と濱子が無言のまま、タツゑの方に顔を向ける。
「私は何年も夜間に見回りしていますが、櫻子お嬢様が眠れずにいるのを時々、お見かけします。それは雨や風の激しい夜だったり、雷の鳴る夜です」
二階の櫻子の部屋は、扉の上部に四角い小窓が嵌まっている。その小窓は、桜の花に蝶を舞わせた絵柄を、ステンドグラスで設えた特注品だ。
そこから、本来なら櫻子が熟睡しているであろう深夜に、灯りが漏れていることがある。
タツゑが二階を見回りしている時に、そのような状態であれば扉をノックして、廊下から声を掛ける。
例えば試験前の勉強中であるならば、飲みたい物や夜食が必要か確認するし、読書に夢中で寝るのも躊躇われるのであれば、そんな言葉が返ってくる。
ベッドで読書しているうちに眠ってしまった時は、ノックしても返事がないので、なるべく音を立てないよう部屋に入って、明るい部屋を豆電球に切り替えてから出て行く。櫻子は真っ暗が苦手なので、いつも寝る時には豆電球を点けているのだ。
他にも灯りが漏れる日があるのは、悪天候の夜だ。
櫻子が寝付けずにいる夜、タツゑがノックすると「待ってました」とばかりに自ら、部屋の扉を開けてくる。
「そうね。櫻子は昔から、強い風が吹いて窓が『ガタガタ』揺れるのも、雷の鳴る音も苦手ですもの。ねぇ、あなた?」
濱子が数仁に呼びかける。
「ん?あぁ…そうだなぁ…。小さい頃は、ちょっと外で物音がしただけで僕達の寝室に駆け込んで来て、『怖い、怖い』とベッドに潜り込んだりしたもんだが…。櫻子も成長して最近は、そういうことも無くなっただろう?すっかり、平気になったものだと思っていたよ」
「たまにですけれど…数仁さんが出張されている夜は、あちらの部屋で現在も、櫻子と一緒に寝る時がありますのよ」
そう言って、濱子が居間の隣室を指差す。
「んん?僕は初耳だなぁ」
「あら。前にもお話したことがありますわ。でも数仁さん、夜はいつもお酒を飲まれるでしょう?私達と話した内容も覚えていることと、全く忘れてしまっていることがあるんですもの」
「うう~ん…」
数仁が眉間に皺を寄せ、その盛り上がった皺を右手の親指と人差し指で摘まみ、記憶の糸を手繰ろうとしている。
「駄目だ、思い出せない」
数仁は眉間から指を離して、頭を掻いた。
「櫻子お嬢様も…、『旦那様と奥様がご一緒のベッドや、鉉さんのお布団で一緒に寝かせてもらうのは、流石にもう恥ずかしい』と仰って、ご遠慮なさっていますが、まだ苦手でいらっしゃいます」
「そうか…」
「櫻子お嬢様が眠れずにいらっしゃる時は、私も喜んでお相手をさせて頂いております。時には、櫻子お嬢様のご希望で少しの間ですが、ご一緒に屋敷内を見回りさせて頂くこともございました。でも…それよりも、きちんと櫻子お嬢様がお休みになっていらっしゃるか、私も心配に感じる夜がございます。それは…その、特に…」
今まで数仁と濱子に目を合わせて話していたが、タツゑはその後の言葉を言いづらそうに視線を逸らして、斜め下に向ける。
「奥様のお加減が優れず辛そうになさっている夜や、入院されてお屋敷に居らっしゃらない夜です」
「まあ…」
濱子が驚き、口に手を当てる。
「私の具合が悪い夜や入院中は、櫻子が寝不足で授業を受けないよう敢えて、そばでは寝かさないようにしていたのだけれど…」
「はい。そのことは勿論、櫻子お嬢様もご承知でいらっしゃいます。ですから、そんな時でも私達の前では毎日、元気なお顔を見せて下さいますが…。私が夜、お部屋の前を通りますと…」
タツゑが、まだ泣き止まない櫻子を心配そうな表情で見る。
「櫻子お嬢様の、泣いていらっしゃる声が聞こえてくるんです…」
「櫻子…」
数仁と濱子が同時に名前を呼び、櫻子を見つめる。
蕗が櫻子の涙や鼻水を拭い続け、ソファに促そうとしているのだが、櫻子は「ブンブンブン」と首を左右に振り続けて、頑なに拒否している。
櫻子は久し振りに、激しく長く泣いているので「コホッコホッ」と時々、咳も出てきている。
「タツゑちゃん。話を聞かせてくれて、ありがとうね。悪いけど…牛乳を温めてきてくれるかしら?」
「はい。只今、ご用意致します」
タツゑは会釈をしてから踵を返し、足早に居間を退出した。
その間に蕗が静かに腰を下ろして、絨毯に正座する。
「旦那様、私からもお願いでございます」
蕗が絨毯に手を突いて、口を開いた。
「まあ、蕗さん!」
「おい、蕗さん…」
「アヤメちゃんが来てからというもの…櫻子お嬢様、それはそれは毎日が楽しそうなご様子で…。私も微笑ましく、拝見しておりました。アヤメちゃんがそばに居ることで、きっと櫻子お嬢様のお心も軽くなられたような気がするんです…。どうか…どうか、櫻子お嬢様の願いを叶えて差し上げて下さいまし」
幾度か櫻子を見上げながら語り終えると、蕗は数仁に向けて深々と頭を下げた。
「おいおい…、困ったなあ。これじゃあ、まるで僕が悪者みたいじゃないか…。僕だってねえ、何も…意地悪したくて『他の人形と交換』なんて、言っているわけじゃあないんだ。あの人形…いや、アヤメが君達を守る仕事を全う出来るなら、わざわざ『交換』する必要も無いんだからねえ。それだったら僕も、文句は無いさ…」
「あっ。そうだわ、数仁さん」
濱子が両手の平を「パンッ」と合わせる。
「ん?何だい、濱子?」
「要は…アヤメちゃんの充電が、絶対に切れないようにすれば良いってことですわね?」
「うん、まあ…そうだねぇ」
「それならば…お人形を交換するより寧ろ、充電箱の方を小林さんにお願いして、増やして頂くのはどうかしら?」
「充電箱を?」
「ええ。充電する場所が一箇所だけでは、他のお部屋で作業している途中に電気が足りなくなった時、いちいち充電箱に戻るのも不便だと思いますの。何箇所かに用意すれば、座って充電しながらの作業も可能ですし、途中で充電が少なくなることも無いから、いつでも万全の体制でいられますわ」
「う~む…」
数仁が腕を組み、ソファの背凭れに寄りかかる。視線は天井に向けて、濱子の話を聞きながら熟考している。
櫻子も鼻水を啜りながら、数仁と濱子の会話に耳を傾けている。
「きっと…あのお人形一体を、お造りになるにも大変な手間と費用が掛かってしまうのでしょう?私は…機械のことなんて全くの無知ですから、こんな考えは倪門さんや小林さんがお聞きになったら生意気と思われるかもしれませんけれど…、まだ働けるお人形を廃棄してしまうよりも、充電箱を多く造る負担の方が少ないような気がして…」
「確かに…、君の言う通りかもしれないねえ…」
「これからは私達も、アヤメちゃんが充電を忘れないように毎日、確認するようにしますわ。ねぇ、蕗さん?」
「はい、奥様」
途中から顔を上げて濱子の話を聞いていた蕗が、大きく頷いた。
「ねぇ、お父さん。『離れ』にも、充電箱を置かせてもらって構わないかしら?」
「おう、好きにしろ」
鉉造は腕を組んだまま、ぶっきらぼうに答えた。
「ね?数仁さん。蕗さんもお父さんも協力してくれるそうよ。これなら、数仁さんも安心でしょう?」
「うん…。まあ…とりあえずは充電箱が余分にすぐ購入出来るか、確認してからだな…。僕も出張する前に、余計な心配事は無くしておきたいからねえ」
「ええ、勿論ですわ」
「明日にでも、小林君に確認してみるよ。これで良いかい?櫻子」
数仁に聞かれたが、櫻子は「キョトン」とした表情で数仁の顔を見るだけで何も答えない。もう、すっかり涙は止まっている。
「おい、櫻子?」
「お父様…、それって…」
「ん?だから…まあ…とりあえず、『交換は無し』ってことさ」
「本当?アヤメちゃんは、ずっと滉月家に居ても良いの?」
「ああ、そうだ」
「良かったわね、櫻子」
濱子が櫻子に微笑みかけると「パアッ」と、櫻子の表情が一瞬にして明るくなる。
「お父様っ!」
櫻子が数仁に駆け寄り、抱きついた。
「ありがとう、お父様!大好きっ!!」
数仁の頬に「チュッ」と、接吻する。
「お母様も大好きっ!!」
濱子の頬にも「チュッ」と接吻すると、今度は鉉造に駆け寄る。
「鉉さんも大好きっ!!」
鉉造が躊躇する間も無く、櫻子が素早く飛びついて「チュッ」と、鉉造の頬にも接吻する。
「蕗さんも大好きっ!!」
まだ絨毯に正座したままの蕗に合わせるように、櫻子も両膝を突いて抱きつき、「チュッ」と頬に接吻した。
「まぁまぁ、お嬢様」
「うふふ」
櫻子は満面の笑顔だ。
「お父様!私、とっても嬉しいわっ!!」
「嬉しいっ、嬉しいっ」と言いながら、櫻子は両手を高く上げて絨毯の上を「ピョンピョン」と跳ね回る。
「おいおい。今まで、あんなに泣いていた烏が、もう笑ったぞ」
数仁は呆れたような口調で、濱子に言う。だが、その櫻子を見つめる眼差しは温かい。
「ふふふ」
そんな数仁の顔を見て、濱子も嬉しそうに笑う。
「失礼致します」
タツゑが居間の片扉を開けて、入って来た。
碗皿を小さなお盆に載せて歩きながら、タツゑは櫻子の様子を見て、すぐに状況を察知して微笑む。
「櫻子お嬢様。牛乳を温めて、蜂蜜を足しました。どうぞ」
タツゑが櫻子に呼びかける。
「タツゑちゃん!」
櫻子が小走りで近づいて行き、「パタパタ」と右手を上下に振る。
「どうなさいました?」
櫻子の目線に合わせて、タツゑが屈む。
「タツゑちゃんも大好きよっ!!」
「チュッ」と櫻子は、タツゑの頬にも接吻した。
「おっと」
反動で牛乳が零れないように、タツゑがお盆を水平に保つ。
「いただきます」
タツゑの持つお盆から、カップだけを取って櫻子が元気良く言う。
「櫻子、お行儀が良くないわ。ちゃんと座って飲みなさい」
「はぁい、ごめんなさい。お母様」
「あちらまでお運びします」
「ありがとう、タツゑちゃん」
濱子に注意されても嬉しそうにしながら、櫻子はお盆にカップを戻す。
櫻子は弾むような足取りで、ソファへ向かう。
「蕗さんも一緒に座りましょう」
「あぁ…、はいはい」
ずっと絨毯で落ち着いていた蕗が、櫻子に手を取られて立ち上がる。
数仁と濱子が座る三人掛けソファの斜向かいに、一人掛けソファが二脚くっついて並んでいる。櫻子は暖炉側に座り、蕗は隣の元居たソファに座った。
タツゑは、一人掛けソファの後ろへ回り込んで櫻子のそばに行き、絨毯に片膝を突いてから、椀皿をローテーブルに移した。
櫻子がすぐに飲めるよう、タツゑは牛乳の温度を熱すぎないように用意していた。
早速、櫻子がカップを取る。
「いただきまぁす」
あれだけ泣いて、よっぽど喉が渇いていたのだろう。
櫻子は適温の牛乳を「ゴクゴクゴク」と、一気に飲み干した。
(続)
数仁達が声を上げ、皆の視線が鉉造に集中する。
鉉造は居間の両扉に向けて、「クイッ」と顎を動かす。
皆が両扉に目を遣ると、片扉だけが僅かに開いている。そして、その扉がゆっくりと開き、櫻子が入って来た。
「まあ、櫻子お嬢様!」
蕗が驚きの声を上げる。
「てっきり、もうお休みでいらっしゃるかと…」
「櫻子。ひょっとして、ずっとそこで話を聞いていたのかい?」
数仁の問いかけに、「コクリ」と櫻子が頷いた。
数歩だけ進んで立ち止まった櫻子に、タツゑが駆け寄る。
「アヤメちゃんは?」
濱子が櫻子に尋ねる。
「見回りをしているわ…」
櫻子は浮かない表情で答える。
「さぁさ、櫻子お嬢様。どうぞ、こちらにいらしてお座り下さい」
ソファから立ち上がって、蕗が手招きする。
「只今、温かい紅茶を淹れますね。あ、それとも牛乳を温めてお砂糖か、蜂蜜を足してきましょうか?」
タツゑが自分よりも背の低い櫻子の目線に合わせるように、少し屈んで優しく尋ねる。
櫻子は「ブンブンブン」と、首を大きく左右に振る。
「ううん、いいの」
「櫻子お嬢様?」
「飲み物はいらないわ…。蕗さんも座ってて」
「蕗さん、座ってちょうだい」
濱子が蕗を、ソファに促す。
「はい…」
蕗は会釈して、ソファに座った。
「タツゑちゃんも、こちらに来てちょうだい」
「はい、奥様」
タツゑが扉を閉めて、ソファ近くの待機していた位置に戻る。
櫻子も静かに歩いて来る。数仁と濱子の座るソファの端まで近づくと、櫻子は足を止めた。
「立ち聞きしてしまって、ごめんなさい」
櫻子が「ペコリ」と、皆に頭を下げる。そして、数仁の方へ身体を向けた。
「お父様」
「ん?何だい、櫻子?」
「アヤメちゃんが、充電出来なかったのは…私のせいなの」
「んん?櫻子のせいだって?」
「ええ…。『私が眠るまで、一緒に居てちょうだい』って…アヤメちゃんに毎晩、お願いしたから…。だからね、アヤメちゃんは悪くないの。本当よ。だから…だからね…お願い、お父様!アヤメちゃんを研究所に返したりしないで!」
櫻子の目から「ポロポロ」と、涙が零れ落ちる。
「このお家で…アヤメちゃんと何日も一緒に過ごして、せっかく仲良くなったのに…。一度、失敗しただけで他のお人形さんと交換なんて、そんなの…悲しすぎるわ」
「おいおい、櫻子…」
櫻子の泣き顔を見て、数仁が動揺する。
今まで櫻子が笑顔や怒り顔を見せることは、日常的にあった。だがこの数年の間、泣き顔を家族や使用人達に見せたことは一度も無かった。それは濱子の病状が悪くなって寝込んでいたり、入院して屋敷に居ない時でさえ、同じだった。
「そりゃあ…ひぃっく。アヤメちゃんはぁ、上手く言えない言葉もあるけどぉ…うっうっ。毎日、お手伝いだってぇ頑張ってるわっ。ひっく、うぅ~。ぞれに私むぉ…アヤメちゃんがぞばに居でぐれるどぉ、なん…何だが安心じで眠れるのぉ。うぅうぅぅ~、ひっく、ひぃっく」
まるで幼い子供に返ったかのように激しく嗚咽を漏らしながら、櫻子が泣き続ける。両手の甲で拭ってはいるが一旦、箍が外れて溢れ出た涙と鼻水は、なかなか止まらない。
その姿を見て、数仁は言葉を無くしている。
濱子は真剣な表情で、櫻子の想いを聞いている。
蕗は堪らず立ち上がった。
「まぁまぁ、櫻子お嬢様。そんなに泣いてしまわれたら、可愛いお顔が台無しですよ」
蕗が着物の袂から手拭いを取り出しながら、櫻子のそばに行って、涙と鼻水を拭いてゆく。
「うぅぅ~っ、ひいぃっぐ…」
それでも、櫻子の涙は止まらない。
「旦那様、奥様」
タツゑが口を開いた。
数仁と濱子が無言のまま、タツゑの方に顔を向ける。
「私は何年も夜間に見回りしていますが、櫻子お嬢様が眠れずにいるのを時々、お見かけします。それは雨や風の激しい夜だったり、雷の鳴る夜です」
二階の櫻子の部屋は、扉の上部に四角い小窓が嵌まっている。その小窓は、桜の花に蝶を舞わせた絵柄を、ステンドグラスで設えた特注品だ。
そこから、本来なら櫻子が熟睡しているであろう深夜に、灯りが漏れていることがある。
タツゑが二階を見回りしている時に、そのような状態であれば扉をノックして、廊下から声を掛ける。
例えば試験前の勉強中であるならば、飲みたい物や夜食が必要か確認するし、読書に夢中で寝るのも躊躇われるのであれば、そんな言葉が返ってくる。
ベッドで読書しているうちに眠ってしまった時は、ノックしても返事がないので、なるべく音を立てないよう部屋に入って、明るい部屋を豆電球に切り替えてから出て行く。櫻子は真っ暗が苦手なので、いつも寝る時には豆電球を点けているのだ。
他にも灯りが漏れる日があるのは、悪天候の夜だ。
櫻子が寝付けずにいる夜、タツゑがノックすると「待ってました」とばかりに自ら、部屋の扉を開けてくる。
「そうね。櫻子は昔から、強い風が吹いて窓が『ガタガタ』揺れるのも、雷の鳴る音も苦手ですもの。ねぇ、あなた?」
濱子が数仁に呼びかける。
「ん?あぁ…そうだなぁ…。小さい頃は、ちょっと外で物音がしただけで僕達の寝室に駆け込んで来て、『怖い、怖い』とベッドに潜り込んだりしたもんだが…。櫻子も成長して最近は、そういうことも無くなっただろう?すっかり、平気になったものだと思っていたよ」
「たまにですけれど…数仁さんが出張されている夜は、あちらの部屋で現在も、櫻子と一緒に寝る時がありますのよ」
そう言って、濱子が居間の隣室を指差す。
「んん?僕は初耳だなぁ」
「あら。前にもお話したことがありますわ。でも数仁さん、夜はいつもお酒を飲まれるでしょう?私達と話した内容も覚えていることと、全く忘れてしまっていることがあるんですもの」
「うう~ん…」
数仁が眉間に皺を寄せ、その盛り上がった皺を右手の親指と人差し指で摘まみ、記憶の糸を手繰ろうとしている。
「駄目だ、思い出せない」
数仁は眉間から指を離して、頭を掻いた。
「櫻子お嬢様も…、『旦那様と奥様がご一緒のベッドや、鉉さんのお布団で一緒に寝かせてもらうのは、流石にもう恥ずかしい』と仰って、ご遠慮なさっていますが、まだ苦手でいらっしゃいます」
「そうか…」
「櫻子お嬢様が眠れずにいらっしゃる時は、私も喜んでお相手をさせて頂いております。時には、櫻子お嬢様のご希望で少しの間ですが、ご一緒に屋敷内を見回りさせて頂くこともございました。でも…それよりも、きちんと櫻子お嬢様がお休みになっていらっしゃるか、私も心配に感じる夜がございます。それは…その、特に…」
今まで数仁と濱子に目を合わせて話していたが、タツゑはその後の言葉を言いづらそうに視線を逸らして、斜め下に向ける。
「奥様のお加減が優れず辛そうになさっている夜や、入院されてお屋敷に居らっしゃらない夜です」
「まあ…」
濱子が驚き、口に手を当てる。
「私の具合が悪い夜や入院中は、櫻子が寝不足で授業を受けないよう敢えて、そばでは寝かさないようにしていたのだけれど…」
「はい。そのことは勿論、櫻子お嬢様もご承知でいらっしゃいます。ですから、そんな時でも私達の前では毎日、元気なお顔を見せて下さいますが…。私が夜、お部屋の前を通りますと…」
タツゑが、まだ泣き止まない櫻子を心配そうな表情で見る。
「櫻子お嬢様の、泣いていらっしゃる声が聞こえてくるんです…」
「櫻子…」
数仁と濱子が同時に名前を呼び、櫻子を見つめる。
蕗が櫻子の涙や鼻水を拭い続け、ソファに促そうとしているのだが、櫻子は「ブンブンブン」と首を左右に振り続けて、頑なに拒否している。
櫻子は久し振りに、激しく長く泣いているので「コホッコホッ」と時々、咳も出てきている。
「タツゑちゃん。話を聞かせてくれて、ありがとうね。悪いけど…牛乳を温めてきてくれるかしら?」
「はい。只今、ご用意致します」
タツゑは会釈をしてから踵を返し、足早に居間を退出した。
その間に蕗が静かに腰を下ろして、絨毯に正座する。
「旦那様、私からもお願いでございます」
蕗が絨毯に手を突いて、口を開いた。
「まあ、蕗さん!」
「おい、蕗さん…」
「アヤメちゃんが来てからというもの…櫻子お嬢様、それはそれは毎日が楽しそうなご様子で…。私も微笑ましく、拝見しておりました。アヤメちゃんがそばに居ることで、きっと櫻子お嬢様のお心も軽くなられたような気がするんです…。どうか…どうか、櫻子お嬢様の願いを叶えて差し上げて下さいまし」
幾度か櫻子を見上げながら語り終えると、蕗は数仁に向けて深々と頭を下げた。
「おいおい…、困ったなあ。これじゃあ、まるで僕が悪者みたいじゃないか…。僕だってねえ、何も…意地悪したくて『他の人形と交換』なんて、言っているわけじゃあないんだ。あの人形…いや、アヤメが君達を守る仕事を全う出来るなら、わざわざ『交換』する必要も無いんだからねえ。それだったら僕も、文句は無いさ…」
「あっ。そうだわ、数仁さん」
濱子が両手の平を「パンッ」と合わせる。
「ん?何だい、濱子?」
「要は…アヤメちゃんの充電が、絶対に切れないようにすれば良いってことですわね?」
「うん、まあ…そうだねぇ」
「それならば…お人形を交換するより寧ろ、充電箱の方を小林さんにお願いして、増やして頂くのはどうかしら?」
「充電箱を?」
「ええ。充電する場所が一箇所だけでは、他のお部屋で作業している途中に電気が足りなくなった時、いちいち充電箱に戻るのも不便だと思いますの。何箇所かに用意すれば、座って充電しながらの作業も可能ですし、途中で充電が少なくなることも無いから、いつでも万全の体制でいられますわ」
「う~む…」
数仁が腕を組み、ソファの背凭れに寄りかかる。視線は天井に向けて、濱子の話を聞きながら熟考している。
櫻子も鼻水を啜りながら、数仁と濱子の会話に耳を傾けている。
「きっと…あのお人形一体を、お造りになるにも大変な手間と費用が掛かってしまうのでしょう?私は…機械のことなんて全くの無知ですから、こんな考えは倪門さんや小林さんがお聞きになったら生意気と思われるかもしれませんけれど…、まだ働けるお人形を廃棄してしまうよりも、充電箱を多く造る負担の方が少ないような気がして…」
「確かに…、君の言う通りかもしれないねえ…」
「これからは私達も、アヤメちゃんが充電を忘れないように毎日、確認するようにしますわ。ねぇ、蕗さん?」
「はい、奥様」
途中から顔を上げて濱子の話を聞いていた蕗が、大きく頷いた。
「ねぇ、お父さん。『離れ』にも、充電箱を置かせてもらって構わないかしら?」
「おう、好きにしろ」
鉉造は腕を組んだまま、ぶっきらぼうに答えた。
「ね?数仁さん。蕗さんもお父さんも協力してくれるそうよ。これなら、数仁さんも安心でしょう?」
「うん…。まあ…とりあえずは充電箱が余分にすぐ購入出来るか、確認してからだな…。僕も出張する前に、余計な心配事は無くしておきたいからねえ」
「ええ、勿論ですわ」
「明日にでも、小林君に確認してみるよ。これで良いかい?櫻子」
数仁に聞かれたが、櫻子は「キョトン」とした表情で数仁の顔を見るだけで何も答えない。もう、すっかり涙は止まっている。
「おい、櫻子?」
「お父様…、それって…」
「ん?だから…まあ…とりあえず、『交換は無し』ってことさ」
「本当?アヤメちゃんは、ずっと滉月家に居ても良いの?」
「ああ、そうだ」
「良かったわね、櫻子」
濱子が櫻子に微笑みかけると「パアッ」と、櫻子の表情が一瞬にして明るくなる。
「お父様っ!」
櫻子が数仁に駆け寄り、抱きついた。
「ありがとう、お父様!大好きっ!!」
数仁の頬に「チュッ」と、接吻する。
「お母様も大好きっ!!」
濱子の頬にも「チュッ」と接吻すると、今度は鉉造に駆け寄る。
「鉉さんも大好きっ!!」
鉉造が躊躇する間も無く、櫻子が素早く飛びついて「チュッ」と、鉉造の頬にも接吻する。
「蕗さんも大好きっ!!」
まだ絨毯に正座したままの蕗に合わせるように、櫻子も両膝を突いて抱きつき、「チュッ」と頬に接吻した。
「まぁまぁ、お嬢様」
「うふふ」
櫻子は満面の笑顔だ。
「お父様!私、とっても嬉しいわっ!!」
「嬉しいっ、嬉しいっ」と言いながら、櫻子は両手を高く上げて絨毯の上を「ピョンピョン」と跳ね回る。
「おいおい。今まで、あんなに泣いていた烏が、もう笑ったぞ」
数仁は呆れたような口調で、濱子に言う。だが、その櫻子を見つめる眼差しは温かい。
「ふふふ」
そんな数仁の顔を見て、濱子も嬉しそうに笑う。
「失礼致します」
タツゑが居間の片扉を開けて、入って来た。
碗皿を小さなお盆に載せて歩きながら、タツゑは櫻子の様子を見て、すぐに状況を察知して微笑む。
「櫻子お嬢様。牛乳を温めて、蜂蜜を足しました。どうぞ」
タツゑが櫻子に呼びかける。
「タツゑちゃん!」
櫻子が小走りで近づいて行き、「パタパタ」と右手を上下に振る。
「どうなさいました?」
櫻子の目線に合わせて、タツゑが屈む。
「タツゑちゃんも大好きよっ!!」
「チュッ」と櫻子は、タツゑの頬にも接吻した。
「おっと」
反動で牛乳が零れないように、タツゑがお盆を水平に保つ。
「いただきます」
タツゑの持つお盆から、カップだけを取って櫻子が元気良く言う。
「櫻子、お行儀が良くないわ。ちゃんと座って飲みなさい」
「はぁい、ごめんなさい。お母様」
「あちらまでお運びします」
「ありがとう、タツゑちゃん」
濱子に注意されても嬉しそうにしながら、櫻子はお盆にカップを戻す。
櫻子は弾むような足取りで、ソファへ向かう。
「蕗さんも一緒に座りましょう」
「あぁ…、はいはい」
ずっと絨毯で落ち着いていた蕗が、櫻子に手を取られて立ち上がる。
数仁と濱子が座る三人掛けソファの斜向かいに、一人掛けソファが二脚くっついて並んでいる。櫻子は暖炉側に座り、蕗は隣の元居たソファに座った。
タツゑは、一人掛けソファの後ろへ回り込んで櫻子のそばに行き、絨毯に片膝を突いてから、椀皿をローテーブルに移した。
櫻子がすぐに飲めるよう、タツゑは牛乳の温度を熱すぎないように用意していた。
早速、櫻子がカップを取る。
「いただきまぁす」
あれだけ泣いて、よっぽど喉が渇いていたのだろう。
櫻子は適温の牛乳を「ゴクゴクゴク」と、一気に飲み干した。
(続)
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