記憶をなくした子守歌

胡花宝 愛芽

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第2章「籠の中の子供達」

二十八話「琉詩と早瀬」

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 戸倉との『お仕事』を終えた琉詩は、迎えに来た早瀬に抱きかかえられ、靴は履かせず送迎車に乗せられた。

 夜道を移動する車中、琉詩は何も言葉を発せず、グッタリとシートに凭れかかっていた。
 『倉庫』に到着して、再び早瀬は琉詩を抱えて四階へと戻った。
 玄関を入ると早瀬は靴を脱ぎ、床に置かれた大人用のスリッパに履き替え、琉詩を抱えたまま風呂場に直行する。
 脱衣室で早瀬は、シャツの袖とズボンの裾を捲り上げる。そして琉詩の着用している衣類を全て脱がせ、自分の靴下も脱ぎ取って、琉詩を連れて浴室に入った。

 琉詩は放心したまま、裸で立ち尽くしている。
 早瀬がシャワーを取って、お湯を出す。自分の手で温度を確かめてから、適温を琉詩の肌に当てる。
 琉詩の体をシャワーで温めてから、ボディタオルを石鹸で、タップリと泡立てる。まず琉詩の耳に少しずつ泡を載せ、丁寧に早瀬の指を使って洗う。それから首、胸、お腹、背中、お尻、太股と順番に、タオルで優しく擦ってゆく。
 
「琉詩君。足、洗うから…ちょっと、座っててね」

 早瀬が声を掛けると、泡まみれの琉詩は「ストン」と、すぐ後ろに置かれたバスチェアに座った。
 しゃがんだ早瀬は、琉詩の右足を上げて膝下から足の裏、指の間まで擦る。

「…う…ぅぅ……ヒック…」

 琉詩が微かな嗚咽を漏らす。

「……」

 早瀬は何も言わず琉詩の右足を下ろし、次は左足を上げて擦り始めた。
 
「うっうっ、ヒィッグ…うぅぅ~…」

 静かな浴室に琉詩の小さな泣き声と、タオルを擦る音が響く。
 左足を擦り終えて、シャワーで琉詩の体中の泡を洗い流す。
 その間も、琉詩は泣きじゃくっている。
 早瀬はシャワーを止めて、壁に掛かったシャンプーハットを取った。

「…琉詩君。髪、洗うね」

 頭にシャンプーハットを被せようと、早瀬が琉詩の前に屈む。

「……つき…」
「え?」

 早瀬が、琉詩の発した僅かな言葉に気付く。 

「……」
「…何?琉詩君?」

 琉詩を気遣うように、早瀬も小声で聞き返す。

「うそつきっ!」

 琉詩は声を張り上げ、同時に上げた右腕でシャンプーハットを弾き飛ばした。

「トオルくんの、うそつきっ!あんなの、らくじゃないっ!あんなの…ぜんぜん、らくじゃないもんっ!」

 バスチェアから立ち上がり、早瀬に向けて「バタバタバタ…」と両腕を振るう琉詩。

「うそつき、うそつき、うそつき、うそつき、うそつき…」

 琉詩の小さな両拳が水滴と共に早瀬の体に当り、顔にも何発か当てられる。

 その時、「パシッ、パシッ」と早瀬の大きな両手の平が、琉詩の濡れた両拳を掴んだ。 
 
「っ!」

 眉間に皺を寄せた早瀬の顔を見て、琉詩は怯む。

 幼稚園や小学校で男の子達と「ヒーローごっこ」をして、ドラマやアニメの戦闘シーンを真似することはあった。
 けれど琉詩は「ドッジボール」以外で、今まで誰かを実際に叩いたり殴ったりしたことは一度も無かった。

 拳で殴るというより、がむしゃらに振った指先で引っ掻かれるような当たり方になり、早瀬の片頬は所々、皮が剥けて血が滲み赤くなっている。
 
「ごめんね…。琉詩君…」

 早瀬の声音は落ち着いている。

「顔に…痕が残っちゃうと…人前でお仕事するのが、難しくなってしまうんだ…」

 早瀬は両膝を床に突いて、左右に離れていた琉詩の両拳を中央に寄せる。 

「だから、これからは…」

 早瀬の両手の平は、琉詩の両拳から下へと滑って、両手首を掴む。
 その両手首を引き寄せ、琉詩の両拳を「トン…」と、早瀬は自分の胸に軽く当てて見せる。



 その胸を、琉詩は見る。

だったら…って良いから…」
「え…?」

 視線を上げ、早瀬の顔を見る。

「僕は…嘘つきで、悪い大人なんだ…。だから、琉詩君が怒るのは当たり前だし、琉詩君の言うことが正しい。すごく、正しいよ」

 琉詩の瞳を見つめ、ゆっくり早瀬は語りかける。

「だけど…僕は、とっても弱虫だから…琉詩君達を、此処から助けてあげたり、守ってあげたりできるちからが無いんだ…。僕は、僕のお母さんと、弟を守らなきゃいけないから…。僕は…子供の琉詩君達よりも…自分の都合を選んだ、狡い大人なんだ…」

 眉間に皺を寄せて怒ったように見えた早瀬の表情は、よく見ると少し悲しそうで、少し微笑んでいる。

「だから…嘘つきで狡い僕に、怒ってくれて構わない。僕を、撲って良いんだよ。ほら、に…」

 早瀬はもう一度、先程よりも強く「トンッ、トンッ」と、琉詩の両拳を押し当てる。

「僕の体は丈夫だから」

 琉詩の両手首から、早瀬は両手を離す。

「いくら撲っても、平気だから。ほら…」
「うぅ…」

 琉詩は軽く拳を作って「トントン、トントン…」と、早瀬の胸に右手と左手を交互に当ててゆく。拳を当てながら、琉詩の頬に涙が流れ落ちる。

「遠慮、しないで、良いから。琉詩君は、もっと、嫌だった、でしょ?」
「うぅぅぅ~…」 

 トンッ、トンッ、トンッ、トンッ、トンッ、トンッ、トンッ…

 拳を当てる度、段々と琉詩の感情が高ぶってゆき、強さも増してゆく。

 ドンッ…、ドンッ…、ドンッ…、ドンッ…、ドンッ…

 だが途中で、琉詩の振るう拳が止まる。

「うわあぁぁぁん」

 琉詩が大声で泣きながら、早瀬にしがみついた。

「ごめんね…琉詩君…。ごめんね…」

 早瀬は、泣き続ける琉詩の背中に両手の平を当て、ただ「ジッ」と動かずにいた。
 

     *   *   *


「トオルくん…」

 二人は、三階の空き室に居る。
 琉詩はベッドに寝ている。

「何?琉詩君…」
 
 琉詩に掛けた羽毛布団を上から撫でるように整えながら、早瀬が優しく返事する。

「いっぱい…ぶって、ごめんなさい…」  

 早瀬は両瞼を閉じて、首を左右に振る。
 
「……ううん。琉詩君は、僕に謝らなくて良いんだよ。悪いのは、僕なんだから…。だけどね、琉詩君…。他の、大人の人達に…会員様にも、同じことをしたら駄目。絶対に、駄目だよ?」
「…どうして?」
「僕以外の大人の人は…怒ると、とっても怖いんだ…」
「……」
「でも、僕だったら良いから。また…怒りたくなったら、僕を撲って良いよ」
「…おや、すみ…なさい…」

 今日一日の疲労感と、やっと心地好いベッドに入った安堵感で、すでにウトウトしていた琉詩は、夢現ゆめうつつで早瀬の言葉を聞きながら、眠りに就いた。

「…お休み、琉詩君」

 早瀬は呟いて、シェードランプを消した。




(続)
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