記憶をなくした子守歌

胡花宝 愛芽

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第1章「0(ゼロ)」

二十一話「早瀬 透③」

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 早瀬は自宅のマンション前に到着すると、駐車場に車を停めた。

 マンションの玄関口まで移動するとオートロックの共用扉を開けて、エレベーターで三階まで上昇し自宅扉の鍵を回して開けた。
 小さな玄関には、男物のスポーツシューズやサンダルが揃っている。
 玄関近くのドアの向こうからは、ジュージューと何かを炒めている音と匂いがしてくる。
 早瀬は自分の部屋にショルダーバッグを置いて、洗面所で手洗いと喉のうがいをした後、その音のするドアを開けた。

「お帰りー、兄貴」
「…ただいま」

 風呂上がりらしく上半身裸で短パン姿の青年が、フライパンを振っている。
 
「焼きそばだけど、いいー?」 
「うん」
「足りないヤツ、買っといたー。お母さんの着替えとかと一緒に置いといたからさー」
「分かった、ありがとな」
 
 早瀬の弟の『孝之たかゆき』は、簡単な味付けの炒め物程度なら自分で作れるようになってきた。
 高校生になってから、家計を助けるために孝之もアルバイトしていたが、今は大学受験もあるので控えさせている。その代わり働く早瀬を気遣って、レパートリーは少ないが週に半分位は夕食を作って待っていてくれる。
 ただ朝はどうしても早起きするのが苦手なようで、早瀬は孝之の弁当と朝食を作り、自分の身支度を整える間に何度も孝之を起こしに行くのが平日の日課になってしまった。
 早瀬の勤務体制は不規則なシフト制で、土日に勤務のある月は平日が休みになる。
 孝之は「平日休みの時は、弁当も朝ご飯も自分で準備するよ」と、言ってくれる。
 早瀬自身も得意というわけではないが、父親を看病する母親の負担を減らしたくて作り方を教わり料理をしていたので、昔に比べたら慣れて手際も良くなった。
 早瀬は、孝之が朝一人でも温める程度で簡単に用意出来るように、夜のうちに作り置きしておく。
 しかし朝、孝之の部屋から目覚ましの音が10分おきに聞こえてくるのだが、一向に起きてくる様子がない。その音で自分の方が覚めてしまい結局、根負けして孝之を起こしに行ってしまうのだった。

 この台所と居間はワンフロアになっていて、あまり広さは無い。だが他に、家族三人それぞれの個室がある。
 この賃貸マンションは一棟が典厳グループの持ち物で、社員とその家族も何組か借りている。
 社員が借りる際は家賃も通常より少し安くなるのだが、早瀬の場合は一切払う必要が無い。
 早瀬は居間の方へ行くと、チェストの上に配置された小さな仏壇に手を合わせて目を閉じる。そこに飾られた遺影には、笑顔の父親が写っていた。
 それは毎日の習慣だったが、早瀬は後ろめたい気持ちもあって、以前ほど父親の遺影と長くは対峙しなくなっていた。
 心の中で父親に挨拶して目を開けると、早瀬は台所に戻って傍にある四人掛けのダイニングテーブルに座った。
 テーブルの上には缶ビールとコップが用意され、商店街で買った揚げ物と漬物が並んでいる。
 早瀬は缶ビールのプルトップを開け、コップに注いで一口飲んだ。

「へへー、今日は野菜焦げなかったぜー」

 焼きそばが盛られた皿を、孝之が早瀬の前に置いた。

「…いただきます」

 早瀬は箸を持って、焼きそばを食べた。

「…うん。美味いよ」
「だろー?」

 孝之が得意気に笑う。 

「俺もう食ったから、この揚げもん全部食っていいよー」
「明日の弁当に入れる分は買ったのか?」
「明日は弁当いらないよ」
「何で?」
「えー?」

 孝之の顔がニヤニヤしている。

「…何だよ?」
「…なんかー、作ってくれるって子がいてさぁ…」
「はぁ?…お前、彼女出来たのか?」
「イヤ別にぃ、まだ彼女ってほどでもないっていうかー」
「お前な…付き合うのは良いけど、無責任なことだけはするなよ?来年、卒業なんだからな?」
「イヤだから彼女じゃないってえー」
「…分かったから。いい加減、何か着ろ」
「ほーい」

 ウキウキした様子で、孝之は自分の部屋へ行った。
 孝之は天然なところがあるので兄としては心配な部分もあるが、その素直な明るさに早瀬は救われたりもする。
 そういえば自分も学生の時には、友達から「透は、天然だな」と言われることがあった。
 
 今は、どうだろうか? 


  *   *   *


「社長、そろそろ私の紹介を」
「あれ?まだ紹介してなかったっけ?ああ、ごめんごめん。とっくにした気になってたよ」

 典厳が姿勢を崩して、足を組む。

「早瀬君、紹介するよ。尾津おづ君だ」
「よろしく」

 立ったままの早瀬に向かって、尾津も立ち上がり握手を求めてきた。

「…よろしくお願い致します」

 早瀬も手を伸ばして会釈し、握手を交わす。

「さあ」

 尾津が早瀬を促し、再び座らせる。

「尾津君は私と然程さほど年齢は違わないんだけどね、もう十代の頃から父さんに仕えてくれているんだよ」
「私も若い時は苦労しましてね、会長に随分と助けて頂いたんですよ」
「尾津君も今では典厳グループのセキュリティ全般を統括する立場になってね、父さんと僕の右腕といえるほど最も信頼のおける人間なんだ」
「そうなんですか…」

 尾津は落ち着いた笑みを崩すことなく、早瀬を見ている。

「君も知っての通り、うちの倶楽部に入会される会員様は、どの分野でも重要な役割を担っている方々とそのご家族だ。ご宿泊中は極秘の会談や商談を行うこともある。我々が何よりも遵守じゅんしゅしなければならないのは、会員様のプライバシーを守ることだ。それは早瀬君もよく解っているだろう?」
「はい」
「うん。これは従業員全てに徹底してもらっていることだ。早瀬君はこれまで各部署で様々な業務を経験したね?勿論、アルバイトの立場であっても、君は守秘義務を貫いてくれたはずだ。その実直さを見込んで、我が典厳グループの一員として正式に働いてもらう君には今後、尾津君が管轄する部署に就いて欲しいと思っている」

 早瀬が尾津の方を見ると、尾津は笑みを浮かべたまま頷いた。 

「この部署は我が典厳グループのあらゆるセキュリティを管理すると共に、倶楽部会員様の中でも更に選び抜かれた方々のお相手をする特別な業務も含まれている。故に、この部署に配属されるのは社員達の中でも、特に信頼に値する人間だけだ。この部署に一度配属されれば、他の部署や遠方の勤務地へ異動になることもない。会員様に関わる守秘義務が今まで以上に問われる責任の重い業務になるだろうが、ご家族の側を離れられない君にとっても悪い部署ではないと思うし、その分の給与と待遇は社長の僕が保証するよ」
「…僕みたいな者がいきなり、そのような部署に就かせて頂いてもよろしいのでしょうか?」

 すると今まで口数の少なかった尾津が、流暢に話し出した。

「実は…長く勤務していた私の部下が、実家の農業を継ぐために退職を願い出て、急な欠員が出てしまったんです。私の管轄する部署では、特別待遇の会員様と長期に亘って深くお付き合いさせて頂くことも重要な業務の一つです。会員様一人一人の趣味嗜好も把握していなければいけません。ですから、短期間でコロコロと担当者を変更するのは避けたいんです。私の目から見ても、共にその責任を背負っていけるだろうと確信できる人間を部署に加えたい。私も統括という立場であちこち飛び回らないといけないし、そろそろ若い社員を育てて任せていく時期だと。…早瀬君はこれから新入社員となるが、実質的には経験を積んでいる。今後の将来性もかんがみて、君が適任だと思い至った次第です」
「詳しい業務内容は、後日改めて尾津君が説明してくれるから」
「…分かりました。未熟者ですが精一杯、努めさせて頂きます」
「うんうん。よろしく頼むよ」

 ノックの音がして、早瀬を応接室に案内した女性が入室してきた。

「社長、お時間です」
「ああ、そう。じゃあ、早瀬君も仕事に戻っていいから。ご家族によろしくね」
「はい、ありがとうございます。それでは、失礼致します」


  *   *   *


 ーー今なら、解る。
 多分、自分は丁度良かったのだろう。 
 
 それでも、あの頃の自分は典厳社長を心から尊敬していたし、「大恩人」とさえ思っていた。
 実際、金銭面は苦しかった。
 何のコネも無い自分が就職できるか不安もあったし、家族を支えなければいけないプレッシャーも感じていた。
 自分の弱みは、いとも簡単に見抜かれ利用された。余裕のある大人達に。
 
 『倉庫』の存在を初めて聞かされたのは、尾津に紹介されたマンションに家族で引っ越し、振り込まれた立替金で病院に入院費や治療費を支払った後だった。
 しんの業務内容を知ってしまった自分が、「こんなことは僕には出来ません」と拒否して、全てを無かったことにするのが困難であるのは、若い早瀬にもすぐに飲み込めた。


 ーーー深い底に沈んでしまったものは、もう二度と浮かび上がることは無いのかもしれない。




(続)
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