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誕生日祭.3
しおりを挟む待ち合わせをしたのが午後なうえに、ずいぶんゆっくりと露店を見て回ったので間もなく夕暮れ。
潮が引き始めたようで海岸線が来た時より数メートル下がっている。
「今日はいつもより潮の引きが早くない?」
「あれ、リリーアンは知らないのか。今夜は数年に一度の大引潮で、あの島まで行ける道が現れるそうだ」
ルージェックが指差すのは、湾にぽかりと浮かんだ小島。
比べるものがないので、遠近感がおかしくなっているけれど、決して近くにはないはず。
「あんなところまで潮が引くなんて。では、あの島にも歩いていけるのかしら?」
「道が現れるのはごく僅かな時間だから往復するのは無理だ。しかも濡れた砂は歩きづらいから走ることもできない。片道切符…もないかもな」
「道の途中で潮が満ちてきたら?」
「泳ぐしかない。でも、あの島と岸との間は潮の流れが複雑だから、砂浜に辿り着けるか微妙だな」
昔、命知らずの若者達が挑戦して溺れたことがあったらしい。男子学生の間では有名な話で、教師からも絶対に島へ行かないよう言われていたとか。
女生徒ではそんな無茶をする人はいないから、私は初耳。
「私は泳げないから、波が迫ってくるのを想像しだけでゾッとしてしまうわ」
どんどん潮が引いていく。砂浜と小島の間に一部海の色が違う場所があるから、あそこが浅瀬になっているのかもしれない。
もしかして道を見ることができるかもと眺めていると、小さな男の子が一人、海へ向かってとてとてと歩いていく姿が視界に入った。
「ルージェック、あの子……」
「うん、近くに親の姿が見えないから迷子かもしれないな。行ってみよう」
食べ終えた串や包み紙を紙袋に入れ、ルージェックが走っていく。
慣れないヒールで靴擦れをしていた私は、足を少し引き摺りながら遅れて後を追った。
先に子供を呼び止めたルージェックが、しゃがんで話しかけている。
「ルージェック、迷子だった?」
「ああ、そうらしい。あれ、リリーアン、もしかして足が痛い?」
「たいしたことないわ。近くに騎士の詰め所はあったかしら」
お店を巡っているときに見かけた気もするけれど、正確な位置が思い出せない。
簡易だけあって目立つ外観ではなく、テントを張っただけのものだ。
「ちょっと北に行ったところにあったよ。送り届けてくるからリリーアンはここで待っていて」
「あら、一緒に行くわ」
「無理しないで。靴擦れ、気づいてやれなくてごめん」
大失敗をしたかのようにライドブラウンの髪をわしゃわしゃと掻く。
そんなの、私が気づかれないように振る舞っていたのだから、当たり前だ。そもそもルージェックは何も悪くない。
「さっきの流木に座っていてくれないか。直ぐに戻る」
「分かった。そんなに急がなくても、夜勤はパレスだから大丈夫よ」
まだ夕暮れ。明日の朝は早いとはいえ、すぐに帰らなくてはいけない時間ではない。
声をかけられほっとしたのか、寂しさがさらにこみ上げてきたのか、子供がお母さんと言って泣き始めてしまった。
ちょうどテオフィリン様と同じ年ぐらい。ハンカチがポケットに入っていたはずと取り出せば、一緒にコロンと何かが転がり出た。
そういえば、急いでいたので壁に掛けたままの侍女服のポケットからハンカチを取り出し、そのまま持ってきたんだっけ。
落ちたのは、昨日テオフィリン様がくれた「宝物」。
いつもより高価そうに見えたから、ハンカチで包んで、あとからエルマさんに相談するつもりだったのを忘れていた。
ぐずっと洟をすする子供の顔をハンカチで拭く。
ルージェックは榛色の子供の髪を撫でながら、困ったように眉を下げていた。
幼い子の扱いには慣れていないみたい。私は「宝物」をポケットにしまい、ルージェックと代わって子供の背中を撫で慰める。
「そうだ。騎士の詰め所まで肩車をしてやるよ。高いところからだとお母さんも見つけやすいだろう」
「肩車?」
ルージェックの言葉に、子供の顔が分かりやすく明るくなる。
私が子供を抱っこして、しゃがんだルージェックの肩に乗せると「しっかり掴まっていろ」と言いながら危なげなくルージェックが立ち上がった。
一応、子供の背に手を当てていたけれど、私の補佐は必要なかったみたい。
「うわー! 高い。海の向こうまで見えるよ」
「そういえば、海へ向かって歩いていたな。好きなのか」
「あの向こうにお父さんがいるの」
子供は笑顔で、赤く染まった水平線を指差す。もしかして父親は海の仕事をしているのかも。歩けば父親のところへ行けると思ったのかな。
「そうか。お父さんすごいな」
「うん! いっぱいお土産持って、帰ってくるんだ」
それは楽しみだな、と声をかけながらルージェックが歩き出す。私は軽く手を振り、言われた通り流木に座って帰ってくるのを待つことにした。
「ルージェックは良い父親になるでしょうね」
砂浜に伸びる長い影を見ながら思った。いずれはあの隣に誰か立つのだろう。
……誰が?
バッと自分の頬を押さえる。
手に触れる熱がどんどん上がってきた。
「私、今、自分を想像した……」
ルージェックの隣を歩く私の姿。笑いながら、ちょっと見上げるようにしてルージェックに話しかける。きっと彼はどんなに疲れていても、答えてくれるだろう。
「仲の良い婚約者の振りをしすぎたから、そんなこと考えてしまうのだわ」
ぶんぶんと首を振り、では誰が、ともう一度考えると今度は胸が苦しくなった。
私の知らない女性がルージェックに寄り添うように歩く姿を思い描くだけで、ギュッと胸が締め付けらる。
胸に手を当てれば、身体の奥の方が絞られるように切なく、鼓動が耳の中で煩くこだまする。
頬に熱が集まってくるのは夕陽のせいだと思いたいけれど、多分違う。
繋いだ手のひらから伝わるぬくもりを思いだせば、締め付けられていた胸が今度は暖かくなっていく。
あんなに優しくするから。
本当の婚約者のように私を扱うから。
「どうしよう、私、本当にルージェックのことを好きになってしまった」
ルージェックはすべて演技でしているのに。
カージャスに私を諦めさせるために、仲の良い婚約者の振りをしてくれているだけなのは分かっている。
でも、いつの間にか、肩の力を抜いて笑えるその場所が私にとってかけがえのないものになっていた。
婚約解消された今、もう演技をする必要はない。
だからこうやって過ごすのもこれが最後かもしれない、そう思うと涙がじんわりと浮かんできた。
もっと一緒にいたい。でも、一度婚解消をした私は、貴族世界では傷物扱い。
侯爵令息となったルージェックにそんなこと言えるはずがない。
そんなふうに物思いにふけっていたせいか、背後に誰かいるのに気が付かなかった。
ザクッと砂を踏む音がして、ルージェックかと振り返った私は、それが誰かを確かめる間もなく口と鼻を布で覆われてしまう。
悲鳴を上げることもできない。
うっすらぼやけて行く視界の端で、なんとかネックレスを引きちぎり流木に落とした。
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