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第5話 雪の中の出会い
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雪はしんしんと降り続いていた。冷たい空気に包まれながら、森の向こうから小さな鐘の音が響く。
それは屋敷の教会から鳴る朝の合図だった。いつもなら庭で子どもたちが顔を出し始める頃だが、今日は誰の姿もない。空気は凍り、風さえも音を失っていた。
アイリス――いや、今はアイリス・グレイスとして生きる彼女は、暖炉の火を守るために薪を抱え、裏口の扉を開けた。氷の粒が頬にあたり、少しだけ痛い。
広がる雪原には、まだ誰の足跡もなかった。まっさらな白の世界に、彼女は小さく息を吐いた。
「寒い……」
呟く声が白く揺れる。
けれどその光景の中に立っていると、不思議と心が少し穏やかになった。
王都の喧騒も、忘れたい過去も、ここではすべてが遠い。
薪を抱え直したとき、ふと視界の端に黒い影が見えた。
森の方角――雪煙を上げながら、誰かがこちらへゆっくりと歩いてくる。
馬だ。重い革の外套をまとった男が鞍の上にいた。
「……公爵様?」
だが歩き方が違う。馬の足取りが乱れ、乗り手の姿勢も傾いている。
一瞬の直感で、アイリスは薪を落とし、駆け出した。
雪を踏みしめ、荒く息を吐きながら走る。
距離が近づくにつれ、男の顔がはっきり見えてきた。見慣れた灰色の髪――間違いない。
レオン・アルドレッド公爵だ。
「公爵様!」
呼びかけると、彼の身体がぐらりと傾いた。
次の瞬間、馬上から崩れ落ち、雪の上に倒れ込む。
アイリスは滑りながらその側に膝をついた。
「公爵様、しっかりしてください!」
外套の下の肩に手を触れると、熱い。雪の冷気どころか、体から異様な熱が伝わってくる。
「高熱……!」
顔色も青白く、息が乱れている。
ためらわず腕を回し、彼の身体を支える。
ずっしりと重く、想像していたよりも体格が大きい。
雪で足を取られながらも、どうにか屋敷の方へ向かって歩き出した。
「誰か、誰か来てください!」
声が風に流れる。やがて小走りで使用人たちが駆け寄ってくる。
着いた時、リーナが駆けつけてすぐに毛布を広げた。
「公爵様! どうされたのですか!」
「詳しいことは後で。とにかくお部屋へ!」
皆で力を合わせ、レオンを引きずるようにして屋敷に運び込む。
寝台に横たえるとすぐに湯が準備され、医師が呼ばれた。
しかし診察の結果、医師の表情は重かった。
「寒気の中で体を冷やしすぎたのが原因ですね。熱は高いが、肺も弱っています。数日は安静が必要です。」
「……命にかかわるのですか?」
「看病が遅れれば危険でした。しかし、今なら持ち直すでしょう」
その言葉に、場の空気が少し和らぐ。
アイリスは濡れた髪に手ぬぐいをあてながら、静かに頬の熱を拭いた。
彼の額から汗がいくつも流れている。
リーナが心配そうに見つめる。
「お嬢様、代わりますか? 冷たい水で手が……」
「いいえ、構いません。……わたしがします。」
指先が触れるたび、彼の表情が少し緩むように見えた。
冷徹と呼ばれる男の顔が、こんなにも人間らしいとは知らなかった。
***
夜が訪れた。
部屋の隅のランプが静かにゆれる。
医師は帰り、屋敷も落ち着きを取り戻しつつあった。
寝台のそばで、アイリスはずっと看病を続けていた。
火照った手を冷たい布で拭いては水を替える。
だが、眠気は来ない。
「……どうして、そんな無理を?」
誰に聞かせるでもなく、囁くように呟く。
公爵が倒れた理由はわからない。きっと領地の視察や、兵のために自ら出て行ったのだろう。
誰かに任せれば済むことを、彼はいつも自分の足で確かめようとする。
そういう人なのだと、分かっている。
でも、それが怖い。
燃え尽きるように働き、人のために傷つくその姿が痛々しく感じられる。
かつての自分と、どこか似ているから。
「公爵様……お願い、もう少しだけ、この地で……」
その時、不意に彼の瞼が震えた。
「……グレイス、か?」
小さく開かれた黄金の瞳が、ぼんやりと彼女を捉えていた。
「はい。お分かりになりますか?」
「……お前が、ここに……?」
「ええ。熱が高いのです。もう動かないでください。」
彼はゆっくり目を閉じ、わずかに息を吐いた。
「……あの雪の中、呼ぶ声が……聞こえた。あれは……夢かと思った。」
アイリスの胸が熱くなった。
あの時の声が彼に届いていたのだ。
「夢じゃありません。わたし、ちゃんとここにいます。」
「そうか……助かった。」
小さな笑みが、彼の唇に浮かんだ。
その瞬間、どんな褒美よりも温かい感情が胸いっぱいに広がる。
涙が出そうになり、慌てて顔をそむけた。
「もう話さないでください。今は眠ってくださいね。」
「……命令か?」
「看病する者のお願いです。」
レオンは微かに笑って、再び目を閉じた。
その笑みを見たのは、初めてだった。
***
翌朝。
窓の外は、ようやく雪が止んでいた。
空に差し込む光が、降り積もった白を黄金色に染めていく。
アイリスは椅子に座ったまま眠ってしまっており、レオンの穏やかな声で目を覚ました。
「おはよう、グレイス。……世話をかけたな。」
その声はまだ少しかすれていたが、確かな力が宿っていた。
安堵のあまり、思わず立ち上がる。
「よかった……熱も下がりましたね。」
「お前がここにいたのか。馬鹿な話だが、雪の中で人の温もりを感じた気がした。」
「夢ではありませんでしたよ。」
「だとすれば、俺は命の借りを作ったな。」
「命なんて、大げさです。ただ、放っておけなかっただけです。」
彼は薄く笑うと、窓の外を見つめた。
「……白い世界だな。だが、今日の雪はやけに綺麗に見える。」
朝の光が二人を包む。
その光の中で、アイリスの胸の奥に何かが生まれていた。
それは今まで感じたことのない、静かな温かさだった。
(第5話 雪の中の出会い 了)
それは屋敷の教会から鳴る朝の合図だった。いつもなら庭で子どもたちが顔を出し始める頃だが、今日は誰の姿もない。空気は凍り、風さえも音を失っていた。
アイリス――いや、今はアイリス・グレイスとして生きる彼女は、暖炉の火を守るために薪を抱え、裏口の扉を開けた。氷の粒が頬にあたり、少しだけ痛い。
広がる雪原には、まだ誰の足跡もなかった。まっさらな白の世界に、彼女は小さく息を吐いた。
「寒い……」
呟く声が白く揺れる。
けれどその光景の中に立っていると、不思議と心が少し穏やかになった。
王都の喧騒も、忘れたい過去も、ここではすべてが遠い。
薪を抱え直したとき、ふと視界の端に黒い影が見えた。
森の方角――雪煙を上げながら、誰かがこちらへゆっくりと歩いてくる。
馬だ。重い革の外套をまとった男が鞍の上にいた。
「……公爵様?」
だが歩き方が違う。馬の足取りが乱れ、乗り手の姿勢も傾いている。
一瞬の直感で、アイリスは薪を落とし、駆け出した。
雪を踏みしめ、荒く息を吐きながら走る。
距離が近づくにつれ、男の顔がはっきり見えてきた。見慣れた灰色の髪――間違いない。
レオン・アルドレッド公爵だ。
「公爵様!」
呼びかけると、彼の身体がぐらりと傾いた。
次の瞬間、馬上から崩れ落ち、雪の上に倒れ込む。
アイリスは滑りながらその側に膝をついた。
「公爵様、しっかりしてください!」
外套の下の肩に手を触れると、熱い。雪の冷気どころか、体から異様な熱が伝わってくる。
「高熱……!」
顔色も青白く、息が乱れている。
ためらわず腕を回し、彼の身体を支える。
ずっしりと重く、想像していたよりも体格が大きい。
雪で足を取られながらも、どうにか屋敷の方へ向かって歩き出した。
「誰か、誰か来てください!」
声が風に流れる。やがて小走りで使用人たちが駆け寄ってくる。
着いた時、リーナが駆けつけてすぐに毛布を広げた。
「公爵様! どうされたのですか!」
「詳しいことは後で。とにかくお部屋へ!」
皆で力を合わせ、レオンを引きずるようにして屋敷に運び込む。
寝台に横たえるとすぐに湯が準備され、医師が呼ばれた。
しかし診察の結果、医師の表情は重かった。
「寒気の中で体を冷やしすぎたのが原因ですね。熱は高いが、肺も弱っています。数日は安静が必要です。」
「……命にかかわるのですか?」
「看病が遅れれば危険でした。しかし、今なら持ち直すでしょう」
その言葉に、場の空気が少し和らぐ。
アイリスは濡れた髪に手ぬぐいをあてながら、静かに頬の熱を拭いた。
彼の額から汗がいくつも流れている。
リーナが心配そうに見つめる。
「お嬢様、代わりますか? 冷たい水で手が……」
「いいえ、構いません。……わたしがします。」
指先が触れるたび、彼の表情が少し緩むように見えた。
冷徹と呼ばれる男の顔が、こんなにも人間らしいとは知らなかった。
***
夜が訪れた。
部屋の隅のランプが静かにゆれる。
医師は帰り、屋敷も落ち着きを取り戻しつつあった。
寝台のそばで、アイリスはずっと看病を続けていた。
火照った手を冷たい布で拭いては水を替える。
だが、眠気は来ない。
「……どうして、そんな無理を?」
誰に聞かせるでもなく、囁くように呟く。
公爵が倒れた理由はわからない。きっと領地の視察や、兵のために自ら出て行ったのだろう。
誰かに任せれば済むことを、彼はいつも自分の足で確かめようとする。
そういう人なのだと、分かっている。
でも、それが怖い。
燃え尽きるように働き、人のために傷つくその姿が痛々しく感じられる。
かつての自分と、どこか似ているから。
「公爵様……お願い、もう少しだけ、この地で……」
その時、不意に彼の瞼が震えた。
「……グレイス、か?」
小さく開かれた黄金の瞳が、ぼんやりと彼女を捉えていた。
「はい。お分かりになりますか?」
「……お前が、ここに……?」
「ええ。熱が高いのです。もう動かないでください。」
彼はゆっくり目を閉じ、わずかに息を吐いた。
「……あの雪の中、呼ぶ声が……聞こえた。あれは……夢かと思った。」
アイリスの胸が熱くなった。
あの時の声が彼に届いていたのだ。
「夢じゃありません。わたし、ちゃんとここにいます。」
「そうか……助かった。」
小さな笑みが、彼の唇に浮かんだ。
その瞬間、どんな褒美よりも温かい感情が胸いっぱいに広がる。
涙が出そうになり、慌てて顔をそむけた。
「もう話さないでください。今は眠ってくださいね。」
「……命令か?」
「看病する者のお願いです。」
レオンは微かに笑って、再び目を閉じた。
その笑みを見たのは、初めてだった。
***
翌朝。
窓の外は、ようやく雪が止んでいた。
空に差し込む光が、降り積もった白を黄金色に染めていく。
アイリスは椅子に座ったまま眠ってしまっており、レオンの穏やかな声で目を覚ました。
「おはよう、グレイス。……世話をかけたな。」
その声はまだ少しかすれていたが、確かな力が宿っていた。
安堵のあまり、思わず立ち上がる。
「よかった……熱も下がりましたね。」
「お前がここにいたのか。馬鹿な話だが、雪の中で人の温もりを感じた気がした。」
「夢ではありませんでしたよ。」
「だとすれば、俺は命の借りを作ったな。」
「命なんて、大げさです。ただ、放っておけなかっただけです。」
彼は薄く笑うと、窓の外を見つめた。
「……白い世界だな。だが、今日の雪はやけに綺麗に見える。」
朝の光が二人を包む。
その光の中で、アイリスの胸の奥に何かが生まれていた。
それは今まで感じたことのない、静かな温かさだった。
(第5話 雪の中の出会い 了)
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