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第十六話 取り戻せない距離
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第十六話 取り戻せない距離
王太子は、久しぶりに「焦り」という感情をはっきり自覚していた。
机の上に並ぶ報告書。
そのどれもが、決定的な破綻を告げているわけではない。
だが、揃いも揃って、こう結ばれている。
――再検討が必要。
――次回協議へ持ち越し。
――判断保留。
「……またか」
思わず、声が低くなる。
問題は、判断を誤ったことではない。
判断そのものが、先延ばしにされ続けていることだ。
以前は、
ここまで事態が膨らむ前に、
どこかで歯止めがかかっていた。
――誰が、やっていた?
考えるまでもない。
だが、王太子は、その答えから目を逸らし続けてきた。
その日、王城で開かれた会議は、異様な空気に包まれていた。
「帝国側が、こちらの提案を修正してきています」
外交官の報告に、ざわめきが走る。
「修正、とは?」
「条件をほぼ受け入れた上で、
こちらが想定していなかった代替案を提示してきました」
「……なぜ、そこまで先を?」
誰かが呟く。
王太子は、背中に冷たいものを感じた。
帝国の動きは、あまりにも的確だった。
こちらが迷っている間に、
複数の選択肢を並べ、
その中から“最も穏便な道”を差し出してくる。
まるで、
こちらの内部事情を、
手に取るように知っているかのように。
「……帝国に、何か変化は?」
王太子が尋ねると、外交官は一瞬言葉を選んだ。
「公式には、特に」
「公式には?」
「……非公式な噂として、
優秀な外部協力者を迎え入れた、という話があります」
その瞬間、
会議室の空気が、凍りついた。
王太子は、椅子の肘掛けを強く握る。
「名前は?」
「……確認は取れていませんが」
外交官は、ゆっくりと続けた。
「王国を離れた、
元・王太子妃候補ではないか、と」
誰も、声を上げなかった。
否定する者もいない。
それが、何よりの答えだった。
会議が終わったあと、
王太子は一人、長い廊下を歩いていた。
足音が、やけに大きく響く。
「……そうか」
小さく、独り言のように呟く。
帝国は、気づいたのだ。
ネフェリアの価値に。
王国が、
「いて当たり前」
「できて当然」
として扱ってきた能力を。
その夜、王太子は、書庫に足を運んだ。
誰にも告げず、
灯りも最低限にして。
探したのは、
ネフェリアが関わっていた案件の記録。
外交。
財政。
貴族調整。
ページをめくるたび、
ある共通点が浮かび上がる。
彼女の名前は、
どこにも大きく書かれていない。
だが、
重要な局面の直前、
必ず、彼女の筆跡が残っている。
短い注釈。
簡潔な指示。
判断の根拠。
「……これを」
王太子は、喉の奥が詰まるのを感じた。
「当たり前だと、思っていたのか」
帝国は違う。
彼女を、
“特別な一人”として迎え入れた。
立場ではなく、
血筋でもなく、
婚約という名の拘束でもない。
――能力そのものを。
王太子は、書庫の椅子に腰を下ろす。
頭の中で、
一つの考えが、
何度も浮かんでは消えた。
――呼び戻せばいい。
だが、その瞬間、
別の声が、冷静に告げる。
もう遅い、と。
ネフェリアは、
王国を追われたわけではない。
自ら、去ったのだ。
評価されない場所から。
対等でない関係から。
帝国で、
彼女はすでに、
「選ばれる側」ではなく、
「選ぶ側」になっている。
一方、帝国では。
「王国側が、こちらの動きを探っています」
セドリックが報告すると、
ネフェリアは静かに頷いた。
「当然でしょう」
「接触を図ってくる可能性もあります」
「……来るなら、来ればいい」
彼女の声に、迷いはない。
「ですが」
セドリックは、少しだけ言葉を選んだ。
「距離は、もう戻らないでしょうね」
ネフェリアは、窓の外を見つめた。
帝都の街は、今日も規則正しく動いている。
「ええ」
小さく、しかしはっきりと答える。
「取り戻せない距離、というものはあります」
それは、怒りでも復讐でもない。
ただの、現実だった。
王国と帝国。
王太子とネフェリア。
かつては、同じ場所にいたはずの二つが、
今はもう、違う速度で進んでいる。
その差は、
追いかけようとした瞬間に、
はっきりと自覚させられる。
――もう、同じ場所には戻れないのだと。
第十六話は、
その事実が、
ついに王太子自身の胸に、
痛みとして届いた回だった。
そして同時に、
ネフェリアが、
二度と「戻る側」にはならないことを、
静かに示していた。
王太子は、久しぶりに「焦り」という感情をはっきり自覚していた。
机の上に並ぶ報告書。
そのどれもが、決定的な破綻を告げているわけではない。
だが、揃いも揃って、こう結ばれている。
――再検討が必要。
――次回協議へ持ち越し。
――判断保留。
「……またか」
思わず、声が低くなる。
問題は、判断を誤ったことではない。
判断そのものが、先延ばしにされ続けていることだ。
以前は、
ここまで事態が膨らむ前に、
どこかで歯止めがかかっていた。
――誰が、やっていた?
考えるまでもない。
だが、王太子は、その答えから目を逸らし続けてきた。
その日、王城で開かれた会議は、異様な空気に包まれていた。
「帝国側が、こちらの提案を修正してきています」
外交官の報告に、ざわめきが走る。
「修正、とは?」
「条件をほぼ受け入れた上で、
こちらが想定していなかった代替案を提示してきました」
「……なぜ、そこまで先を?」
誰かが呟く。
王太子は、背中に冷たいものを感じた。
帝国の動きは、あまりにも的確だった。
こちらが迷っている間に、
複数の選択肢を並べ、
その中から“最も穏便な道”を差し出してくる。
まるで、
こちらの内部事情を、
手に取るように知っているかのように。
「……帝国に、何か変化は?」
王太子が尋ねると、外交官は一瞬言葉を選んだ。
「公式には、特に」
「公式には?」
「……非公式な噂として、
優秀な外部協力者を迎え入れた、という話があります」
その瞬間、
会議室の空気が、凍りついた。
王太子は、椅子の肘掛けを強く握る。
「名前は?」
「……確認は取れていませんが」
外交官は、ゆっくりと続けた。
「王国を離れた、
元・王太子妃候補ではないか、と」
誰も、声を上げなかった。
否定する者もいない。
それが、何よりの答えだった。
会議が終わったあと、
王太子は一人、長い廊下を歩いていた。
足音が、やけに大きく響く。
「……そうか」
小さく、独り言のように呟く。
帝国は、気づいたのだ。
ネフェリアの価値に。
王国が、
「いて当たり前」
「できて当然」
として扱ってきた能力を。
その夜、王太子は、書庫に足を運んだ。
誰にも告げず、
灯りも最低限にして。
探したのは、
ネフェリアが関わっていた案件の記録。
外交。
財政。
貴族調整。
ページをめくるたび、
ある共通点が浮かび上がる。
彼女の名前は、
どこにも大きく書かれていない。
だが、
重要な局面の直前、
必ず、彼女の筆跡が残っている。
短い注釈。
簡潔な指示。
判断の根拠。
「……これを」
王太子は、喉の奥が詰まるのを感じた。
「当たり前だと、思っていたのか」
帝国は違う。
彼女を、
“特別な一人”として迎え入れた。
立場ではなく、
血筋でもなく、
婚約という名の拘束でもない。
――能力そのものを。
王太子は、書庫の椅子に腰を下ろす。
頭の中で、
一つの考えが、
何度も浮かんでは消えた。
――呼び戻せばいい。
だが、その瞬間、
別の声が、冷静に告げる。
もう遅い、と。
ネフェリアは、
王国を追われたわけではない。
自ら、去ったのだ。
評価されない場所から。
対等でない関係から。
帝国で、
彼女はすでに、
「選ばれる側」ではなく、
「選ぶ側」になっている。
一方、帝国では。
「王国側が、こちらの動きを探っています」
セドリックが報告すると、
ネフェリアは静かに頷いた。
「当然でしょう」
「接触を図ってくる可能性もあります」
「……来るなら、来ればいい」
彼女の声に、迷いはない。
「ですが」
セドリックは、少しだけ言葉を選んだ。
「距離は、もう戻らないでしょうね」
ネフェリアは、窓の外を見つめた。
帝都の街は、今日も規則正しく動いている。
「ええ」
小さく、しかしはっきりと答える。
「取り戻せない距離、というものはあります」
それは、怒りでも復讐でもない。
ただの、現実だった。
王国と帝国。
王太子とネフェリア。
かつては、同じ場所にいたはずの二つが、
今はもう、違う速度で進んでいる。
その差は、
追いかけようとした瞬間に、
はっきりと自覚させられる。
――もう、同じ場所には戻れないのだと。
第十六話は、
その事実が、
ついに王太子自身の胸に、
痛みとして届いた回だった。
そして同時に、
ネフェリアが、
二度と「戻る側」にはならないことを、
静かに示していた。
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