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第9話 名前を知らないという違和感
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第9話 名前を知らないという違和感
夜会は、表向きには滞りなく進んでいた。
音楽は途切れず、
給仕は淀みなく、
笑顔と礼儀が、広間を満たしている。
だが――
王太子ダイナスティの胸の内は、荒れていた。
(……おかしい……)
グラスを傾けながら、
彼の視線は、無意識のうちに一角へと向かう。
広間の端。
目立たぬ位置。
派手な装いでもない。
――エスカレードの周囲にいた、あの令嬢たち。
(……なぜ……)
(……気になる……)
自分でも、理由が分からない。
美貌が際立つわけでもない。
身分が高そうにも見えない。
むしろ――
どうでもいいはずの存在。
(……その他大勢……)
そう、切り捨ててきたはずだ。
それなのに。
(……視界から……
消えない……)
ダイナスティは、苛立ちを誤魔化すように、
周囲の貴族たちと形式的な会話を交わす。
だが、耳に入るのは上の空だ。
(……名前……)
ふと、思考がそこに引っかかった。
(……そういえば……)
(……あいつらの……
名前……
知らんな……)
今まで、そんなことは問題にならなかった。
気にする必要がなかったからだ。
下位貴族。
学園の背景。
名を覚える価値もない。
――そう、判断してきた。
だが、今は違う。
(……なぜ……
思い出せない……)
(……聞いた……
覚えが……
ない……?)
胸の奥に、
じわりと不快感が広がる。
(……俺が……
誰かの名前を……
知らない……?)
それは、
彼の世界観にとって、
小さくない亀裂だった。
ダイナスティは、
視線の先にいる令嬢たちへと歩み寄る。
距離が縮まるにつれ、
彼女たちの動きが、わずかに硬くなる。
令嬢Cは、すぐに察した。
(……来ました……)
(……でも……
想定内……)
彼女は、一歩だけ後ろへ下がり、
自然に友人たちの陰に入る。
前に出ない。
視線を合わせない。
完璧なモブムーブ。
「……おい」
ダイナスティの声が、
至近距離で響いた。
友人1、友人2、友人3が、揃って一礼する。
「……これは……
殿下……」
「……夜会は……
楽しんでいるか……」
形式的な問い。
「……はい……
大変……
光栄です……」
友人2が、当たり障りなく答える。
ダイナスティは、
一瞬だけ視線を巡らせた。
――いる。
確かに、いる。
だが。
(……どれだ……)
(……“気になった”のは……
どれだ……)
自分でも分からなくなっていることに、
苛立ちが増す。
「……お前たち……」
声が、少し低くなる。
「……名前は……?」
一瞬、
空気が止まった。
令嬢Cは、
心の中で小さく頷く。
(……来ました……
“それ”……)
友人1が、困ったように微笑む。
「……私……
下位貴族で……
名を……
名乗るほどでも……」
「……?」
ダイナスティは、眉をひそめる。
友人2が、すかさず続ける。
「……男爵家の……
令嬢ですので……
お耳汚しかと……」
友人3は、少し肩をすくめた。
「……私は……
騎士爵の……
家の……
三女ですし……」
どれも、
嘘ではない。
だが、
答えにもなっていない。
「……ふざけているのか……?」
声に、苛立ちが滲む。
「……名を……
聞いている……」
その瞬間。
令嬢Cは、
一歩も動かず、
ただ静かに口を開いた。
「……殿下……」
全員の視線が、
一瞬だけ、
彼女に集まる。
令嬢Cは、
深く一礼した。
「……私どもは……
エスカレード様の……
学友で……」
「……?」
「……本日は……
ご招待……
ありがとうございました……」
それだけ。
名乗らない。
自己紹介しない。
完璧な回避。
ダイナスティは、
彼女を見た。
はっきりと。
(……この女……)
だが、
名前は出てこない。
聞いていない。
誰も呼ばない。
(……なぜ……)
(……ここに……
いるのに……)
違和感が、
確信へと変わりつつあった。
「……お前……」
言いかけて、
言葉が止まる。
(……何と……
呼ぶ……?)
その一瞬の沈黙が、
すべてを物語っていた。
令嬢Cは、
目を伏せたまま、
静かに立っている。
(……勝ち筋……
維持……)
その間に、
エスカレードが、
自然に会話へ割り込んだ。
「……殿下……」
穏やかな声。
「……皆様……
緊張して……
いらっしゃる……
だけですわ……」
ダイナスティは、
舌打ちを飲み込んだ。
(……また……
この女か……)
「……そうか……」
表情を整え、
一歩引く。
「……無礼……
許す……」
それだけ言い残し、
踵を返す。
去り際。
ダイナスティの胸に、
奇妙な感覚が残った。
(……名を……
知らない……)
(……名を……
呼べない……)
そんな相手は、
今まで、
一人もいなかった。
令嬢Cたちは、
小さく息を吐く。
「……助かりました……」
友人1が、囁く。
「……心臓……
止まるかと……」
友人2が、苦笑する。
友人3は、
令嬢Cを見て、
小さく頷いた。
「……完璧でした……」
令嬢Cは、
微かに微笑んだ。
(……まだ……
“気になる存在”……
止まり……)
(……名前を……
探し始めたら……
終わり……)
だが。
その夜。
王太子ダイナスティは、
確かに思っていた。
(……あの女……)
(……俺の……
知らない……
領域に……
いる……)
それが、
彼のプライドを、
最も深く傷つけることになる。
夜会は、まだ続く。
だが、
すでに歯車は――
音を立てて、狂い始めていた。
夜会は、表向きには滞りなく進んでいた。
音楽は途切れず、
給仕は淀みなく、
笑顔と礼儀が、広間を満たしている。
だが――
王太子ダイナスティの胸の内は、荒れていた。
(……おかしい……)
グラスを傾けながら、
彼の視線は、無意識のうちに一角へと向かう。
広間の端。
目立たぬ位置。
派手な装いでもない。
――エスカレードの周囲にいた、あの令嬢たち。
(……なぜ……)
(……気になる……)
自分でも、理由が分からない。
美貌が際立つわけでもない。
身分が高そうにも見えない。
むしろ――
どうでもいいはずの存在。
(……その他大勢……)
そう、切り捨ててきたはずだ。
それなのに。
(……視界から……
消えない……)
ダイナスティは、苛立ちを誤魔化すように、
周囲の貴族たちと形式的な会話を交わす。
だが、耳に入るのは上の空だ。
(……名前……)
ふと、思考がそこに引っかかった。
(……そういえば……)
(……あいつらの……
名前……
知らんな……)
今まで、そんなことは問題にならなかった。
気にする必要がなかったからだ。
下位貴族。
学園の背景。
名を覚える価値もない。
――そう、判断してきた。
だが、今は違う。
(……なぜ……
思い出せない……)
(……聞いた……
覚えが……
ない……?)
胸の奥に、
じわりと不快感が広がる。
(……俺が……
誰かの名前を……
知らない……?)
それは、
彼の世界観にとって、
小さくない亀裂だった。
ダイナスティは、
視線の先にいる令嬢たちへと歩み寄る。
距離が縮まるにつれ、
彼女たちの動きが、わずかに硬くなる。
令嬢Cは、すぐに察した。
(……来ました……)
(……でも……
想定内……)
彼女は、一歩だけ後ろへ下がり、
自然に友人たちの陰に入る。
前に出ない。
視線を合わせない。
完璧なモブムーブ。
「……おい」
ダイナスティの声が、
至近距離で響いた。
友人1、友人2、友人3が、揃って一礼する。
「……これは……
殿下……」
「……夜会は……
楽しんでいるか……」
形式的な問い。
「……はい……
大変……
光栄です……」
友人2が、当たり障りなく答える。
ダイナスティは、
一瞬だけ視線を巡らせた。
――いる。
確かに、いる。
だが。
(……どれだ……)
(……“気になった”のは……
どれだ……)
自分でも分からなくなっていることに、
苛立ちが増す。
「……お前たち……」
声が、少し低くなる。
「……名前は……?」
一瞬、
空気が止まった。
令嬢Cは、
心の中で小さく頷く。
(……来ました……
“それ”……)
友人1が、困ったように微笑む。
「……私……
下位貴族で……
名を……
名乗るほどでも……」
「……?」
ダイナスティは、眉をひそめる。
友人2が、すかさず続ける。
「……男爵家の……
令嬢ですので……
お耳汚しかと……」
友人3は、少し肩をすくめた。
「……私は……
騎士爵の……
家の……
三女ですし……」
どれも、
嘘ではない。
だが、
答えにもなっていない。
「……ふざけているのか……?」
声に、苛立ちが滲む。
「……名を……
聞いている……」
その瞬間。
令嬢Cは、
一歩も動かず、
ただ静かに口を開いた。
「……殿下……」
全員の視線が、
一瞬だけ、
彼女に集まる。
令嬢Cは、
深く一礼した。
「……私どもは……
エスカレード様の……
学友で……」
「……?」
「……本日は……
ご招待……
ありがとうございました……」
それだけ。
名乗らない。
自己紹介しない。
完璧な回避。
ダイナスティは、
彼女を見た。
はっきりと。
(……この女……)
だが、
名前は出てこない。
聞いていない。
誰も呼ばない。
(……なぜ……)
(……ここに……
いるのに……)
違和感が、
確信へと変わりつつあった。
「……お前……」
言いかけて、
言葉が止まる。
(……何と……
呼ぶ……?)
その一瞬の沈黙が、
すべてを物語っていた。
令嬢Cは、
目を伏せたまま、
静かに立っている。
(……勝ち筋……
維持……)
その間に、
エスカレードが、
自然に会話へ割り込んだ。
「……殿下……」
穏やかな声。
「……皆様……
緊張して……
いらっしゃる……
だけですわ……」
ダイナスティは、
舌打ちを飲み込んだ。
(……また……
この女か……)
「……そうか……」
表情を整え、
一歩引く。
「……無礼……
許す……」
それだけ言い残し、
踵を返す。
去り際。
ダイナスティの胸に、
奇妙な感覚が残った。
(……名を……
知らない……)
(……名を……
呼べない……)
そんな相手は、
今まで、
一人もいなかった。
令嬢Cたちは、
小さく息を吐く。
「……助かりました……」
友人1が、囁く。
「……心臓……
止まるかと……」
友人2が、苦笑する。
友人3は、
令嬢Cを見て、
小さく頷いた。
「……完璧でした……」
令嬢Cは、
微かに微笑んだ。
(……まだ……
“気になる存在”……
止まり……)
(……名前を……
探し始めたら……
終わり……)
だが。
その夜。
王太子ダイナスティは、
確かに思っていた。
(……あの女……)
(……俺の……
知らない……
領域に……
いる……)
それが、
彼のプライドを、
最も深く傷つけることになる。
夜会は、まだ続く。
だが、
すでに歯車は――
音を立てて、狂い始めていた。
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