白い結婚のはずでしたが、いつの間にか選ぶ側になっていました

ふわふわ

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第19話 王太子の後悔――取り返しのつかない距離

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第19話 王太子の後悔――取り返しのつかない距離

 夜更けの王城は、静まり返っていた。

 蝋燭の炎が揺れる執務室で、アレクシオン王太子は一人、机に肘をついていた。
 広げられた書類は、すでに目を通したはずのものばかりだ。

(……また、同じところを見ている)

 自覚はあった。
 だが、集中できない。

 理由も、分かっている。

「……リオネッタ」

 名を口にした瞬間、苛立ちが胸に込み上げた。

(なぜ、今さら)

 婚約を破棄したのは、自分だ。
 彼女を「不要だ」と切り捨てたのも、自分。

 それなのに。

 隣国での噂が、耳に入るたび、
 胸の奥が、きりきりと締め付けられる。

 ――グラーフ公爵夫人として、静かに評価を高めている。
 ――城内外で、信頼を集めている。
 ――干渉せず、だが確実に結果を出している。

「……馬鹿な」

 思わず、吐き捨てる。

(あいつは、完璧すぎて……)

 可愛げがない。
 そう、決めつけた。

 だが、その“完璧さ”が、
 どれほど自分を支えていたか――
 今になって、嫌というほど分かる。

 扉が、控えめに叩かれた。

「殿下……」

 入ってきたのは、近侍の一人だった。

「何だ」

「……政務の件で、ご相談が」

 彼は、資料を差し出す。

 内容は、財政の細かな調整。
 判断を要するが、緊急ではない。

 以前なら――
 リオネッタが、すでに整理し、
 選択肢を示していた案件だ。

「……どう思う」

 アレクシオンは、無意識に尋ねていた。

 近侍は、一瞬言葉に詰まる。

「それは……殿下のご判断で……」

 その返答に、苛立ちが募る。

(……違う)

 求めていたのは、同意ではない。
 判断材料だ。

「……もういい。下がれ」

 近侍は、困惑した表情で一礼し、退出した。

 室内に、再び静寂が戻る。

(……なぜ、誰も反論しない)

 以前は、
 「その案には、こういう懸念があります」
 「こちらの方が、長期的には有利です」
 そう言われていた。

 時に、苛立つこともあった。
 だが――
 今思えば、それがどれほど貴重だったか。

 アレクシオンは、立ち上がり、窓辺に向かう。

 夜の王都。
 灯りが、遠くまで続いている。

(……あいつは、もういない)

 ふと、思い出す。

 婚約破棄を告げた日のこと。

 泣き崩れることもなく、
 責めることもなく、
 ただ、静かに頭を下げた彼女。

 あのとき――
 なぜ、違和感を覚えなかったのか。

(……強がっているだけだと思った)

 だが、違った。

 彼女は、
 “耐えていた”のではない。
 “見切っていた”のだ。

「……戻ってこい、なんて」

 自嘲気味に、呟く。

(言えるわけがない)

 彼女は今、
 公爵の妻。
 しかも――
 対等な立場で、迎えられている。

 自分は、
 彼女を「選ばなかった」。

 だが、彼女は――
 自分を、選ばなかった。

 その事実が、
 何よりも重かった。

 翌日。

 王城では、小さな混乱が起きていた。

 部門間の連絡不備。
 判断の遅れ。
 責任の押し付け合い。

 どれも、致命的ではない。

 だが、積み重なれば、確実に国力を削ぐ。

「殿下……こちらの件ですが……」

「後にしろ」

 苛立ちが、隠せない。

 隣に立つ少女が、心配そうに声をかける。

「殿下……お疲れなのでは?」

 優しい声。
 だが――
 それ以上、踏み込まない。

(……踏み込めない、か)

 彼女は、
 自分を“肯定”する存在だ。

 だが、
 “支える”存在ではない。

 それを理解してしまった瞬間、
 胸に、はっきりとした後悔が生まれた。

(……俺は)

 欲しいものを、
 “重い”という理由で捨てた。

 だが、
 軽いものだけでは、
 何も支えられない。

 夜。

 再び、一人の執務室。

 机の引き出しを開けると、
 あの資料が、まだ残っていた。

 リオネッタが作った、簡潔な報告書。

 端に、小さな書き込みがある。

 ――「最終判断は、殿下にお任せします」

 その一文を見た瞬間、
 胸が、強く締め付けられた。

(……俺は)

 判断を、奪われてなどいなかった。

 支えられていただけだ。

「……遅すぎる」

 ぽつりと、呟く。

 彼女は、もう――
 別の場所で、
 別の立場で、
 生きている。

 取り返しは、つかない。

 その距離は、
 物理的な国境よりも、
 はるかに遠かった。

 アレクシオン王太子は、
 ようやく悟った。

 ――失ったのは、
 有能な婚約者ではない。

 自分を支え、正し、共に立てる唯一の存在だったのだと。

 そして、その後悔は、
 決して彼女に届くことはない。

 それが、
 彼にとっての――
 最大の罰だった。


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