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第三十話 それでも世界は続いていく
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第三十話 それでも世界は続いていく
春は、完全に王都に根づいていた。
街路樹の若葉は日に日に色を濃くし、市場には冬の名残よりも新しい作物が並ぶ。人々の歩みは軽く、会話の内容も、もはや教会や聖女の話題ではない。誰かが意識して忘れたわけではなく、自然と話題に上らなくなっただけだった。
それは、終わった出来事が本当に終わった証でもある。
ヘレン・バートンは、朝の光が差し込む書斎で、ゆっくりと紅茶を飲んでいた。机の上には領地から届いた報告書が数通。作柄、修繕、税収の見通し。どれも、地味で現実的な内容だ。
ページをめくりながら、ふと手が止まる。
(……ずいぶん、遠くまで来ましたわね)
婚約破棄されたあの日、王太子ヘルムハイムに向けられた言葉を思い出す。
――君は、公爵令嬢であること以外、何の魅力もない。
当時は、その言葉に怒りも悲しみもなかった。ただ、ひどく的外れだと思っただけだ。政略結婚で価値を測る相手が、政略結婚そのものを否定する。その矛盾が、滑稽にすら見えた。
結果として、彼は「聖女」という幻想に縋り、
彼女は「日常」という現実を選んだ。
どちらが正しかったかは、今となっては明白だ。
昼前、執事が来客を告げる。旧知の貴族夫人だった。軽い世間話の中で、何気ない一言が漏れる。
「最近、王太子殿下も大変そうですわね。
聖女様の件で、評判が……」
ヘレンは、曖昧に微笑んだ。
「そうですの。
選択には、結果が伴いますから」
それ以上、話は続かなかった。
同情も、非難も、必要ない。
人は、自分の選択の結果と生きていく。
それは、誰にとっても同じだ。
午後、庭を散策しながら、ヘレンは前世の記憶に思いを巡らせる。聖女ヘレンヘレンとして、人々の前に立ち、祈りを受け止め、奇跡を示していた日々。あの頃は、世界を救っているつもりだった。
だが、今なら分かる。
世界は、
誰か一人に救われるものではない。
奇跡がなくても、
人は悩み、迷い、
それでも前に進む。
それを信じられなかったからこそ、
教会は歪み、
聖女は偶像になった。
夕方、屋敷に戻り、ヘレンは本を開く。物語の終盤に差し掛かり、登場人物たちはそれぞれの道を選び始めている。誰かが劇的に救われるわけでも、劇的に裁かれるわけでもない。
「……これでいいのですわ」
静かな結末。
だが、現実に近い。
夜、窓の外で鐘が鳴る。
それは、奇跡を告げる音ではない。
ただ、時を知らせる音だ。
ヘレンは、その音を聞きながら思う。
もし、あのまま聖女として生きていたら。
もし、力を振るい続けていたら。
きっと、どこかで同じ歪みを生んでいた。
今は違う。
誰にも崇められず、
誰にも恐れられず、
ただ、公爵令嬢として、
一人の人間として生きている。
それで、十分だった。
紅茶を飲み干し、灯りを落とす。
物語は、ここで終わる。
だが、世界は終わらない。
明日も、人は働き、
笑い、
悩み、
それでも生きていく。
奇跡がなくても。
聖女がいなくても。
そしてヘレン・バートンは、
その続いていく世界の中で、
何事もなかったかのように、
静かに、自分の日常を歩いていく。
――それでも世界は続いていく。
春は、完全に王都に根づいていた。
街路樹の若葉は日に日に色を濃くし、市場には冬の名残よりも新しい作物が並ぶ。人々の歩みは軽く、会話の内容も、もはや教会や聖女の話題ではない。誰かが意識して忘れたわけではなく、自然と話題に上らなくなっただけだった。
それは、終わった出来事が本当に終わった証でもある。
ヘレン・バートンは、朝の光が差し込む書斎で、ゆっくりと紅茶を飲んでいた。机の上には領地から届いた報告書が数通。作柄、修繕、税収の見通し。どれも、地味で現実的な内容だ。
ページをめくりながら、ふと手が止まる。
(……ずいぶん、遠くまで来ましたわね)
婚約破棄されたあの日、王太子ヘルムハイムに向けられた言葉を思い出す。
――君は、公爵令嬢であること以外、何の魅力もない。
当時は、その言葉に怒りも悲しみもなかった。ただ、ひどく的外れだと思っただけだ。政略結婚で価値を測る相手が、政略結婚そのものを否定する。その矛盾が、滑稽にすら見えた。
結果として、彼は「聖女」という幻想に縋り、
彼女は「日常」という現実を選んだ。
どちらが正しかったかは、今となっては明白だ。
昼前、執事が来客を告げる。旧知の貴族夫人だった。軽い世間話の中で、何気ない一言が漏れる。
「最近、王太子殿下も大変そうですわね。
聖女様の件で、評判が……」
ヘレンは、曖昧に微笑んだ。
「そうですの。
選択には、結果が伴いますから」
それ以上、話は続かなかった。
同情も、非難も、必要ない。
人は、自分の選択の結果と生きていく。
それは、誰にとっても同じだ。
午後、庭を散策しながら、ヘレンは前世の記憶に思いを巡らせる。聖女ヘレンヘレンとして、人々の前に立ち、祈りを受け止め、奇跡を示していた日々。あの頃は、世界を救っているつもりだった。
だが、今なら分かる。
世界は、
誰か一人に救われるものではない。
奇跡がなくても、
人は悩み、迷い、
それでも前に進む。
それを信じられなかったからこそ、
教会は歪み、
聖女は偶像になった。
夕方、屋敷に戻り、ヘレンは本を開く。物語の終盤に差し掛かり、登場人物たちはそれぞれの道を選び始めている。誰かが劇的に救われるわけでも、劇的に裁かれるわけでもない。
「……これでいいのですわ」
静かな結末。
だが、現実に近い。
夜、窓の外で鐘が鳴る。
それは、奇跡を告げる音ではない。
ただ、時を知らせる音だ。
ヘレンは、その音を聞きながら思う。
もし、あのまま聖女として生きていたら。
もし、力を振るい続けていたら。
きっと、どこかで同じ歪みを生んでいた。
今は違う。
誰にも崇められず、
誰にも恐れられず、
ただ、公爵令嬢として、
一人の人間として生きている。
それで、十分だった。
紅茶を飲み干し、灯りを落とす。
物語は、ここで終わる。
だが、世界は終わらない。
明日も、人は働き、
笑い、
悩み、
それでも生きていく。
奇跡がなくても。
聖女がいなくても。
そしてヘレン・バートンは、
その続いていく世界の中で、
何事もなかったかのように、
静かに、自分の日常を歩いていく。
――それでも世界は続いていく。
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