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第三十一話 名前を呼ばれない未来
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第三十一話 名前を呼ばれない未来
王都の朝は、変わらず忙しい。
鐘が鳴り、店が開き、人々はそれぞれの目的地へ向かう。誰かが特別に注目されることも、誰かの言葉が世界を揺らすこともない。ただ、当たり前の一日が、当たり前に始まる。
ヘレン・バートンは、その光景を屋敷の窓から眺めていた。
(……本当に、終わったのね)
確信に近い実感だった。
教会の件は、もはや噂話としても古い。新しい話題が次々と生まれ、過去の騒動は「そういえば、そんなこともあった」と振り返られる程度にまで風化している。
人は、思っている以上に前を向く生き物だ。
朝食後、執務室で領地の報告を確認する。農地の整備計画、橋の補修、今年の人手の見込み。数字と予定が並ぶ書類は、奇跡とは無縁だが、確実に人の生活を支えている。
ヘレンは、それらに目を通しながら、自然と背筋が伸びるのを感じた。
(こういう仕事の方が、
ずっと責任がありますわね)
前世では、祈りに応えることが「善」だった。
今は、約束を守ることが「善」だ。
昼前、思いがけない報せが届く。
「地方の学校で、寄付を募っているそうです」
「学校?」
「はい。
以前は教会が支援していた施設ですが、
今は地域で支えようとしているようで」
ヘレンは、しばらく考え、頷いた。
「必要な分だけ、支援しましょう。
ただし、名前は出さないで」
「承知しました」
それでいい。
誰かに知られる必要はない。
奇跡の名の下で集められた金ではなく、
生活の延長として使われる金であれば。
午後、庭を歩きながら、ヘレンは前世の自分を思い出す。聖女ヘレンヘレンとして、群衆に名前を呼ばれていた日々。
その声は、感謝でもあり、期待でもあり、
時には、重荷でもあった。
今は、誰も彼女を呼ばない。
それが、これほど楽だとは思わなかった。
「……静かですわね」
そう呟いても、返事はない。
だが、寂しさはなかった。
夕方、屋敷に戻り、紅茶を淹れる。
本を開き、数ページ読んでから、ふと手を止める。
(もし、あの時……)
婚約破棄されたあの日、
もし感情的になっていたら。
もし復讐を目的に動いていたら。
物語は、もっと派手になっていただろう。
だが、きっと後味は悪かった。
自分が欲しかったのは、勝利でも称賛でもない。
ただ、
名前を呼ばれずに生きられる未来だった。
夜、窓の外を見つめる。
王都の灯りは、変わらず揺れている。
誰かが救われているわけでも、
誰かが裁かれているわけでもない。
それでも、世界は動いている。
ヘレンは、静かに目を閉じた。
もう、聖女と呼ばれることはない。
もう、奇跡を求められることもない。
それでいい。
彼女が望んだのは、
特別な存在であり続けることではなく、
特別でない一日を、
何度も重ねていくことだった。
――名前を呼ばれない未来。
それは、
彼女が自分で選び取った、
最も贅沢な結末だった。
王都の朝は、変わらず忙しい。
鐘が鳴り、店が開き、人々はそれぞれの目的地へ向かう。誰かが特別に注目されることも、誰かの言葉が世界を揺らすこともない。ただ、当たり前の一日が、当たり前に始まる。
ヘレン・バートンは、その光景を屋敷の窓から眺めていた。
(……本当に、終わったのね)
確信に近い実感だった。
教会の件は、もはや噂話としても古い。新しい話題が次々と生まれ、過去の騒動は「そういえば、そんなこともあった」と振り返られる程度にまで風化している。
人は、思っている以上に前を向く生き物だ。
朝食後、執務室で領地の報告を確認する。農地の整備計画、橋の補修、今年の人手の見込み。数字と予定が並ぶ書類は、奇跡とは無縁だが、確実に人の生活を支えている。
ヘレンは、それらに目を通しながら、自然と背筋が伸びるのを感じた。
(こういう仕事の方が、
ずっと責任がありますわね)
前世では、祈りに応えることが「善」だった。
今は、約束を守ることが「善」だ。
昼前、思いがけない報せが届く。
「地方の学校で、寄付を募っているそうです」
「学校?」
「はい。
以前は教会が支援していた施設ですが、
今は地域で支えようとしているようで」
ヘレンは、しばらく考え、頷いた。
「必要な分だけ、支援しましょう。
ただし、名前は出さないで」
「承知しました」
それでいい。
誰かに知られる必要はない。
奇跡の名の下で集められた金ではなく、
生活の延長として使われる金であれば。
午後、庭を歩きながら、ヘレンは前世の自分を思い出す。聖女ヘレンヘレンとして、群衆に名前を呼ばれていた日々。
その声は、感謝でもあり、期待でもあり、
時には、重荷でもあった。
今は、誰も彼女を呼ばない。
それが、これほど楽だとは思わなかった。
「……静かですわね」
そう呟いても、返事はない。
だが、寂しさはなかった。
夕方、屋敷に戻り、紅茶を淹れる。
本を開き、数ページ読んでから、ふと手を止める。
(もし、あの時……)
婚約破棄されたあの日、
もし感情的になっていたら。
もし復讐を目的に動いていたら。
物語は、もっと派手になっていただろう。
だが、きっと後味は悪かった。
自分が欲しかったのは、勝利でも称賛でもない。
ただ、
名前を呼ばれずに生きられる未来だった。
夜、窓の外を見つめる。
王都の灯りは、変わらず揺れている。
誰かが救われているわけでも、
誰かが裁かれているわけでもない。
それでも、世界は動いている。
ヘレンは、静かに目を閉じた。
もう、聖女と呼ばれることはない。
もう、奇跡を求められることもない。
それでいい。
彼女が望んだのは、
特別な存在であり続けることではなく、
特別でない一日を、
何度も重ねていくことだった。
――名前を呼ばれない未来。
それは、
彼女が自分で選び取った、
最も贅沢な結末だった。
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